第11話 出だしは好調
朝、鉄雄が帰ってくる頃には芽依は着替えて、お湯を沸かしていた。温かい紅茶でも飲んでから出ていくつもりだった。
「はー。疲れたぁ」と言って、鉄雄は部屋に入ってくる。
「お帰りなさい。紅茶飲みますか?」と芽依は聞いた。
鉄雄は嬉しそうに笑って、頷く。その時の目尻に寄る皺が芽依は好きだった。
「お腹は空いてないの」と言いながら、コンビニに行ったか、おにぎりを山ほどテーブルに置く。
「わぁ。一つもらっていいですか?」
「いいわよー。好きなの選んで」
芽依は鮭か、シーチキンか迷って、鮭にした。
「今日はなんだか忙しかったわぁ。お客さんが多くて」
「そうなんですか?」
「近くでライブがあると客が流れてくるのよねぇ。深夜まで空いてる健全な店ってなかなかないでしょ?」
「そうなんですか?」と言いながら鮭のおにぎりを食べ始める。
「モンプチラパンは合コンとか、ライブとか夜遊びに興味がないの?」
「…合コンは誘われることもないですし、ライブも…行ったことないです。そんな余裕がなくて」
「どうして?」
「お給料はきちんと貯金したいですし。そんなにいい給料でもないですし」
「偉いわねぇ。今度、ライブでも行く?」
「ライブ?」
「そう。まぁ、お休みの日と合ったらね」と言って、鉄雄は芽依の淹れた紅茶を飲んだ。
鮭おにぎりを食べ終え、歯磨きをして、芽依は家を出る。
「行ってらっしゃーい」と鉄雄の見送る言葉を聞いて、朝日が眩しい道に出た。
コンクリートが道に反射して、目を細める。もうすぐ春だし、冷たい風が頬に当たってもなぜか芽依はきっといいことが起こるような気がした。
店に着くと、ベテランの村上さんと健人がいた。
「おはようございます」と芽依は慌てて挨拶をする。
「おはようございます」と健人も挨拶を返してくれた。
「この子…朝の仕事も見たいんだって」と村上さんは少し困ったような顔をした。
「将来、パン屋さんでもやるつもりなんですか? でも…うちは」と芽依は言った。
冷凍の生地を使っているので、本当は生地から作るパン屋の方がいいかもしれないと思ったからだ。
「興味はあります。でもいろんな仕事の工程を見たいっていうか…。就職したら難しいので、今のうちにたくさんいろんなことを経験したいんです」
「そう…ですか」
やはり健人はいろんな意味で余裕のある人間なんだろう。芽依はそう思うと、好きにやってもらえばいいか、と思った。選択の余裕のない芽依からしたら思いつくこともない発想だった。高校卒業して、就職するという既定路線で、その後は結婚するだろうと考えていた。
健人の指導は村上さんにお願いして、芽依は自分の仕事をすることにした。健人は仕事を覚えるのが早いらしく村上さんは驚いていた。
「石川さん、あんた抜かれるわよ」と冗談で言われたけれど、芽依はいい気持ちしなかった。
「頑張ります」と苛立ちを大声に変えて、芽依は重たい鉄板をオーブンに入れる。
腰が痛いという村上さんの代わりに力仕事は芽依がやることにしていた。次の鉄板を取ろうとすると、健人が既に持って後ろに立っていた。
「ここに入れればいいんですか?」
「あ、そこじゃなくて、下の段にしてください。同じオーブンでも火の通りが違うんです」
「なるほどね」と言って、ちゃんと言う通りに動いてくれる。
そして爽やかな笑顔。
神様は不公平だ。何もかも持っている人と、少ししか持っていない人。でも芽依は不満を言うのは心の中にだけにしておいた。
「重いの…大変ですね」
「そうでもないです。慣れたら…」と芽依はまた鉄板を運ぶ。
「夏は暑いのが大変よー。冷房なんて効かないんだから」と村上さんが後ろから話す。
「冷房効かないですか?」と健人が話している。
「効かないなんてもんじゃないわよー」
そんな二人の会話を聞きながら、芽依は自分の仕事を淡々とした。いつもは二人でなんとか間に合わせるのだが、三人いるので早い時間に用意が終わった。厨房では健人と話し込んでいる村上がいて、なんとなく疎外感を感じて、芽依は売り場で見栄えがいいようにパンを並べ直したりしていた。朝一で買いにくるお客さんに挨拶したりしながら、値札のチェックをしていると、後ろから声をかけられた。岡崎の妻が立っていた。
「…あ」と芽依は何も言えずに固まってしまう。
「ここにいたのね?」
「…あの、ごめんなさい」と言って、頭を下げる。
岡崎の妻は笑いもせずに、じっと芽依を見ていた。
「別れることにしたから」
「え?」
「田舎の方に転勤になるし…。それに、あなたの家にも押しかけたりしてるでしょ?」
確かにそうだったが、芽依は頷くこともできなかった。
「…そんな人ともう暮らせないわよ」
岡崎の妻の顔からは何を思っているのか芽依には分からなかった。ただ自分が恋したことが、知らなかったとは言え、こんな結果を招いたことが重くのしかかる。
「あなた、父親がいないんですって? だからなの?」
そう言われて、芽依は胸が苦しくなった。
「…そんなことは」
「まぁ、どうでもいいけど。もう別れるから、好きにしていいわ。あの人にもそう言ったから」
「え?」
「あなた…本気だったんでしょ?」
妻が言う言葉が一つ一つ芽依に突き刺さった。
「…じゃなかったんだ?」と言って、妻はそこで初めて笑った。
本気で好きだったけど、岡崎が既婚者でありながら付き合っていたことを知った時、話し合いにも来なかった時、それなのに家に押しかけてきた時、どのタイミングか分からないが芽依はもう岡崎を好きとは思えなくなっていた。
「あの人も遊ばれてたってこと? いい気味だわ」と言って、妻は去って行った。
結局、妻には何も言えずに芽依は売り場から厨房に戻った。厨房で健人と喋っていた村上は気づいていなかったが、健人はガラス越しから芽依をじっと見ていたようだった。芽依は視線を逸らし、惣菜の厨房に行ってサンドイッチの具をもらうことにした。
いい日だと思っていたのに、今日はそんな日じゃなかった。サンドイッチの具を並べていると、不意に涙が溢れそうになったが、唇を噛んで耐えた。
(父親がいないから? だから?)と思い返して、首を横に振る。
ずっと父親がいないせいで、と思いながら生きてはいなかった。ただそう言うことを言われたり、かわいそうに思われることはあった。
(父親がいたら、岡崎を好きにならなかったのだろうか)
(ずっと寂しかったから、好きになったのだろうか)
芽依は自問しながらパンに具を挟んでいく。
「サンドイッチはもういいんじゃない?」と村上さんから声をかけられて、芽依は手を止めた。
早番三人は終わる時間も同じだ。廃棄になるパンを持って、芽依は会社を出た。
「待って」と後ろから声をかけられて、振り向くと健人がいた。
あれから何となく気まずく感じて一言も喋らないまま終わった。
「お疲れ様です」と芽依は頭を下げて、そのまま帰ろうとした。
「あの…何かあったんですか?」
「え?」
「それか、僕が何かしましたか?」
「ごめんなさい。今日はちょっと…」
「体調悪いんですか?」
健人は心配そうな様子で近づいてくる。
「いえ…大丈夫です」と言って、立ち去るために頭を下げた。
「よかったら…少し、お話しませんか?」
「…よくないです」
「え?」
そんなことを言われたことがなかったのだろう、健人の目が驚いたように開かれた。
「体調が…です」と芽依は慌てて嘘をついた。
「あ、そうなんですね。…ごめんなさい。ちょっと気になって。今日、朝イチでお客さんに絡まれてたから…。そこから少し辛そうで…。でももしかしたら僕が朝のシフトに入ったからかな? とか気になって」
「あ…小林くんはそんなに…関係なくて…」
「そんなに?」
芽依は村上さんに比べられていることを正直に話した。
「私…一生懸命にはやっているんですけど…、まだうまくできないことが多くて」
「あ、なんかごめんなさい。村上さんは珍しい男のバイトだから優しくしてくれてるだけだと思いますよ」
「そんなことないです。今日だって、言ってないのに鉄板を運んでくれたし。本当に小林くんはよくできます」と言って、お辞儀をしてもう一度立ち去ろうとした時、パンの袋を掴まれた。
「具合…悪いんだったら、送って行きます。バイクで来てて」
嘘をついた上にパンの袋を掴まれていては仕方がなかった。
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