第10話 失恋

 鉄雄は芽依の部屋に行くと、テーブルの上に置かれたクロワッサンの袋の上に「帰ってきたら食べるので触らないでください」とドクロマークと共にメモが貼られていた。それを見ると、思わず食べたらどんな反応をするのか知りたくなってしまうけれど、我慢をして布団に入る。

 さっきまで一緒にいた人のことを思い返す。付き合っていた人だった。少しも変わっていなくて、胸が痛んだ。スツールに腰掛けた長い足、オールバックにまとめた髪…。一流企業で働くスーツの似合う男だった。

「元気?」と聞かれて、鉄雄は首を横に振った。

「嘘つき」と言われて、鉄雄も笑う。

「元気そうだね。いいことあった?」と重ねて聞かれた。

「特に…変わりないよ」

「ふうん」

「あんたは?」

「結婚を考えてる人がいる」

「え?」

 そう言われて、思わず顔を見返した。

「…女」

「…そう?」

「上手くいくかな?」

「さあ。でも…そう祈ってる」

 最後に、「ありがとう」と微笑まれて、なぜか鉄雄は「さようなら」と言われたような気がした。

 別れた時に胸が痛んだはずなのに、もう一度、痛みを感じるのはどうしてだろう。布団から手を出して見てみる。これから先…自分の人生で何を掴めて、何をこぼしていくのだろう。目を閉じようとした時、ふっと芽依の匂いがした。隣のベッドから芽依が脱ぎ捨てたパジャマがだらりと垂れている。

「あの子は…もう」と言って、パジャマをベッドの上に乗せようとして、ふと今朝、ワンピースを着ていたことを思い出した。

 きっと慌てて着たに違いない。パジャマをたたむこともなく。急いで袖を通したのだろう。そして朝ごはんを食べる時間もないほど、ワンピースを着てくるくる回っていたのかもしれない、と想像すると気持ちが和んだ。

 和んだけれど、涙が止まらずに溢れてきた。

 好きだと言われた時の奇跡。

 一緒に過ごした楽しい時間。

 ひどい喧嘩もした。

 あの時を何度も後悔した。

 全てが終わってしまった日は遠い昔だと思っていたのに…。

 まだ痛みが続いていることに驚いて、声を上げて泣いた。


 まさに泣き寝入りをしていた。フライパンで焼く音と油とソースの匂いで目を覚ました。芽依がもう帰ってきている様だった。珍しく何か作っている。起き上がって、声をかける。

「あ、おはようございます」とちらっと振り向いて、またフライパンと向き合う。

「お帰りなさい。何作ってるの?」

「焼きそば。声かけないでください。集中してるから」

 確かに背中からピリピリしたものが出ている。

「…やろうか?」

「いいです。あと、少しですから」

 焼きそばはそんなに難しい料理なのだろうか、と鉄雄は思ったが、芽依が一生懸命なので黙って引き下がった。


 出来上がったのはなんとも言えないものだった。麺はベチャベチャしていたし、野菜は生焼けのところと焦げたところが混在していた。

「美味しそう」と鉄雄が言うと、芽依に睨まれた。

「どう見ても…美味しくなさそうじゃないですか」

「今日はどうしたの? パン売り切れたの?」

「それが…人事部長の息子がアルバイトに来て、さっさと帰りなさいって言われて」

「息子がアルバイト? それで指示をあんたに出したの?」

「そう、それで驚いてしまって、パンのこと忘れて帰ってきて…」

「何それ? 人事部長の息子なのにアルバイト?」

「学生さんなんですけどね」

「それで指示を出すの?」

「そうなんです。それが堂々としてて、思わず言われた通り動いてしまって」

 そう言いながら芽依は焼きそばに箸をつけた。鉄雄もせっかく作ってくれたので、ご馳走になることにした。

「まぁ…肉が生焼けじゃないところは及第点よね」

「…。焼きそば、簡単だと思ったんですけど」

「まぁ、何度か作っていくうちに美味しいもの作れるようになるわよ」と言って、大きな口を開ける。

 芽依は鉄雄の目が腫れぼったいのに気づいて、「昨日はずっと遊んでたんですか?」と聞いた。

「そうよ。久しぶりに」

「目が腫れてますもんね」

 芽依は鉄雄の目の辺りをじっと見た。

「寝不足なのに、お仕事、大丈夫ですか?」と聞いた。

「やだ。そんなに顔に出てる? やばい、やばい」と繰り返した。

「大丈夫ですよ。鉄雄さんは私より女子力高いし、きっと綺麗な顔で出勤できます」

 芽依が冷蔵庫のお茶を取り出そうとすると、「好きだった人に会ったのよ」と鉄雄が言った。

 芽依は振り返って、もう一度鉄雄の顔を見た。

(もしかして…寝不足じゃなくて…泣いた? そう言えば、今朝はスッキリした顔をしていたはずだった)

「そうですか…。お茶、あったかい方がいいですか?」

「どっちでも」

 面倒だったので、冷蔵庫からの麦茶を取り出して、コップに入れた。二つのコップを持って、テーブルにつく。

「男前の彼氏は…元気でしたか?」

「うん。結婚するって言ってたわ」

「え? 女の人と?」

「そうみたい」

「…相手は知ってるんですか?」

「さあ…。彼はどっちも好きになれる人だから」

 芽依はお茶を飲んで、鉄雄のくれたクロワッサンの袋を自分の方へ動かした。そして半分に引きちぎって、鉄雄に差し出す。クロワッサンはやっぱり拉てしまう。差し出されたクロワッサンを見て、鉄雄が「潰れてるじゃない」と言った。

「いつも…そうでしたよ。鉄雄さんがくれたのも」

「こんなの…渡してたの?」

「渡してましたね」と芽依は拉たクロワッサンをさらに鉄雄に押し付ける。

「まぁ…味は変わらないわよね」

「食感は変わります」

 そう言うと、ジロっと芽依を見る。

「でも…鉄雄さんが好きになった人だから、きっと素敵な人なんでしょうね」と言って、芽依はクロワッサンを口にした。

 拉たクロワッサンを受け取って、鉄雄も食べる。

「そうでもないわよ。顔とスタイルは良かったけど…。細かい性格だし」

「…じゃあ、鉄雄さんが勿体無いですね。鉄雄さんは顔もいいし、優しいし」と言って、芽依は笑顔を作った。

「あんたは本当に騙されやすくて、心配になる」とため息をついた。

「え? 鉄雄さん、性格悪いんですか?」

「…悪いわよ」とちょっと怒ったように言う。

「じゃあ、私もキツく当たりますよ? 鉄雄さん、さっさと片付けしてちょうだい」と芝居がかった口調で言う。

「はいぃぃ。お母様」と鉄雄も一段と高い声で返事をした。

「お母様なんて言わないでちょうだい。あなたを産んだ覚えはありません」

「そんな…ひどいぃぃぃ」と嘘泣きをするので、芽依は可笑しくなって笑った。

「こんなことその人としてたんですか」と笑いすぎて出た涙を拭きながら聞く。

「するわけないでしょ? モンプチラパンに合わせてあげただけじゃない。私、女優だから」

「えー? じゃあ、澄ました感じで暮らしてたんですか?」

「澄ましてないわよ。ちょっと気取ってたのよ」

「それは疲れますね」

「そうかしらね? …そうだったかもしれないわね」

「もっとたくさんいいところあったのに、見てもらえてないのは勿体無いです」

「なんであんたがそう思うの?」

「だって…いい人ですから。私、鉄雄さん推しですから。素敵な恋人見つかるの応援しますね」

「いいわよ。それより、あなた。先にあなたが見つけなさい。見つけたら、会わしなさいよ。ちゃんとチェックしてあげるから。既婚者か、性格はどうか、そのほか色々、チェックしてあげるから」

「え? じゃあ、鉄雄さんは私を推してくれるんですか?」

「推し?」

「そう、私のファンですか?」

 それを聞くと、鉄雄は大きくため息をついた。

「お母様。片付けさせて頂きますぅぅぅ」と言って、皿を持って席を立った。

 その背中を見て、芽依は頑張れと小さく拳を振り上げた。 

「いつか、お互いに恋人ができたらダブルデートしませんか?」と芽依は聞いてみた。

「結構です」と真顔で芽依の方に振り向くと、すぐに断った。

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