第9話 アルバイト

 芽依は明け方目を覚ました。今日は鉄雄はまだ戻ってきていない。きっと楽しんでいるんだろう。そう思って体を起こして、顔を洗いにいく。まだ水は冷たいけれど、これで無理矢理目を覚ます。化粧は日焼け止めを塗る程度だ。パンを焼くのだから顔を化粧はそこまで必要ではない。だからすごく楽になった。髪の毛も後ろで一つ括りにするだけでいい。でも芽依は昨日、鉄雄に買ってもらったワンピースが着てみたくなった。会社で製造部門の服に着替えるのだから、基本、何を着て行っても大丈夫だ。リボンまでつけてもらている袋を開けて、ワンピースを着た。薄ピンクの小花柄で袖は肩にシャーリングが入っている。それを着てくるりと回ると、軽い生地がふわりと浮かぶ。

「おはよー」とドアの外から声を掛けられる。

 芽依は慌てて、ドアを開けた。

「あら?」と着替えた芽依を見て驚く。

 一晩中遊んだと言う割に、あまり疲れが見えない顔で鉄雄は立っていた。今日はボブの内巻きウィッグでタイトなバーバリーのコートを着ていた。

「もうすぐ出ます」

「似合ってるわよ」と言いながら紙袋を渡す。

 中にはクロワッサンが入っていた。

「私、お風呂に入ってくるから。またね」と言って、手をひらひらさせながら自分の部屋に戻って行った。

 朝日に照らされた後ろ姿を見送ると、芽依はクロワッサンを抱えて慌てて部屋に戻った。食べる時間はなさそうなので、テーブルに置いて出て行った。鉄雄は背も高いし、肩幅もある。全身整形したら本当に女性みたいになるのだろうか、と芽依は思った。整った顔をしているから、顔は大丈夫だろうが…と思いながら、やっぱり痛そうだな、と思う。人魚姫が自分の声と引き換えに人間の足を手に入れた時、歩く度にナイフで突き刺すような痛みがあったと書かれていたことを思い出した。声を失ったんだから、せめて痛みはなかったらいいのに、と子供の頃にそう思ったことを思い出した。

(どうか痛みがひどくありませんように)と芽依はそう思いながら、駅に向かった。


 重たい鉄板をオーブンに入れて、一息つく。あとは焼き上がるのを待つばかりだ。その間にサンドイッチを作る。惣菜部門が作ってくれたカツサンド用のカツが並べられてあった。

「あんた、最近、ペットでも飼ったの? ちょっと明るくなったじゃない」とベテランパートのおばさんが話しかけてくる。

「え?」

「飼ったらダメよ? 愛情が満たされてしまって、恋人なんて作らなくなるから」

「そうですか…」

「幸せなのはいいことだけど…。あんたまだ若いんだし、結婚だってしたいでしょ?」

「はい」

「じゃあ、元気になったみたいだし、そろそろ私が探してあげるからね」と腕を捲られた。

 素早い動きでソースをパンに塗ってキャベツも乗せていく。芽依はカツを切って、その上に乗せるが、相手の方が早くて追いつけない。

「仕事はまだまだねぇ」と言いながら、手伝ってくれる。

 朝は考える暇もないくらい体を動かす。でも今はその方が助かった。

(結婚…かぁ…)と芽依はため息をついた。

 母もそうだったが、結婚に失敗しているし、芽依も既婚者に引っかかった。結婚なんてしなくてもいいかもしれない、と最近はそう考えている。鉄雄は結婚についてどう考えているのだろうか。一生結婚しないつもりなのだろうか。それとも気に入ったパートナーが見つかったら、その人と暮らしていくつもりなのだろうか。今晩、会えたら聞いてみようかと思った。

 休憩いく前に白い紙を渡される。

「あ、そうそう。そろそろ新商品とシーズン商品を考えて。バレンタインはハートのチョコレートパンとか出すけど…ホワイトデー、ひな祭りパンとか」とベテランパートさんに言われる。

「あ、はい」

「アルバイトの子からもアイデア募って、みんなで考えるのよ」

「分かりました」

 白い紙を見ながら、どんなパンにしようか、と思うと楽しくなってきた。芽依は会社の社員食堂でカレーを食べながら考えていた。美味しくて、可愛いパンを作れたら売れるだろう。小さい頃、雪だるまの形をしたパンが好きで買ってもらったのだが、中のチョコレートクリームが甘すぎて結局いつも残してしまう。

「うーん」と唸りながら、白い紙を眺めていると、声をかけられた。

 見上げると人事部長だった。

「あ、こんにちは」と思わず立ち上がる。

「そのままでいいから。…どうですか? 新しい職場は?」

「お陰様で…楽しく働いてます」

「…そうですか。辛くないですか?」

「早起きが少しだけ。でも後は…。みなさんよくして下さるし」

「そうですか。…よかった」とそれだけ言うと去っていった。

 部長ともなると、下の人たちの気持ちまで汲まなければいけないのか、と芽依はその仕事の大変さを感じた。そして着席して、またカレーを食べながら新しいパンを考え始めた。


 その日の午後に芽依がもうすぐで退勤の時間だな、と思っていると、新しいアルバイトが来たと紹介された。

小林健人こばやしけんとです。大学三回です」と挨拶してくれる。

「初めまして。石川芽依です。移動してきたばかりで、あまり分かってなくて…ごめんなさい」

「石川さん、この子、人事部長の息子さんなんだって」

「え?」

 そう言えば、よく似ている気がした。

(あ、だから声をかけてきたのか。自分の息子が働く環境を知りたかったんだ)と思うと、納得した。

 いちいち、一社員の移動後のことなんて気にならないだろう、と芽依は思った。

「あ、じゃあ…仕事は村上さんに教えてもらってください」とベテランパートを推す。

「…本当は石川さんが教えなきゃダメなのに」と言われたが、芽依が教えるよりずっといい。

 村上さんに頭を下げて、芽依はお願いする。

「石川さんって、社員なんですよね?」と突然、健人に聞かれた。

「あ、そうです」と言うと、少し笑って「頑張ってください」と言われた。

 アルバイトに応援されるなんて、と芽依は思ったが、確かに情けないので仕方がない。

「じゃあ、早速だけど…」と言って、村上さんは健人を連れて、いろいろ説明をしていた。

 芽依は焼きあがっていたパンの袋詰めをする。退勤時間が来ていたが、売り場に並べてから帰ろうとすると、健人に「交代時間ですよね? 帰ってください」と言われた。アルバイトにそんなことを言われるなんて思っても見なかったが、人事部長の息子だから言うことを聞いた方がいいような気がした。村上さんを見ると、村上さんも一緒に上がるように言われたみたいだ。

 二人でロッカールームまで行くときに「アルバイトっていうか、なんか…」「上司?」と言いながら歩いた。

「もしかして…内情把握するスパイかも」と村上さんが言う。

「え?」

「ほら、勤務時間とか、サービス残業をチェックするために派遣されたとか?」

「うーん」

 なんとも言えない気持ちを抱えて、二人でタイムカードを押す。

「また明日…」とお互い離れたロッカーなので、そこで別れた。

 健人は人事部長の息子だから、育ちが良さそうで、物おじしない青年だった。芽依が持っていないものをたくさん持っている気がした。そんなことがあったから、すっかりパンを持って帰ることを忘れてしまった。

 

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