第7話 同居生活
仕事帰りに芽依はパンを抱えて、イヤフォンから流れる音楽を聴きながらアパートの階段を上がった。音楽が流れていたから、背後から人が来るのに全く気が付かなかった。芽依はもう鉄雄のドアノブにパンをかけるのをやめていた。自分のドアの鍵を開けて、部屋に入ろうとした瞬間、後ろから押されて、玄関に倒れ込んだ。
「え?」と振り返ろうとした瞬間、後ろから抱き締めれる。
散らばるパンを見ながら、匂いで岡崎だと分かった。何か耳元で言っているようだが、音楽ではっきり聞こえない。イヤフォンを外そうにも抱き締められた腕は上がらない。そしてあんなに好きだったのに、今は気持ち悪さしか感じていない自分を知った。
「…めてください」
そしてはっきりもう一度、大きな声で告げた。
「もう、やめてください」
それでも腕が解かれないどころか、首筋に息がかかって、思わず身震いしてしまう。
芽依が俯いていた顔を上げると、部屋の奥で鉄雄が布団から起き上がっていた。
「何してんの?」
起き抜けなので理解できないのか、はっきり見えていないのか、大きなあくびをしている。
「あら? パンを散らかして。…つまづいた?」と言いながら、布団から出てきた。
手前に転がっているカレーパンを拾い上げて、玄関で後ろから抱きつかれている四つん這い状態の芽依を見るとようやく状況を把握したようだった。
「おっさん。警察呼ぶって言ったよな」とドスの聞いた声で言った。
岡崎はまさか部屋に鉄雄がいるとは思っていなかったようで、腕の力が緩んだ。その隙に芽依は這いながら鉄雄の方に移動する。
「え? 怖い。井戸から出てくる人じゃん」と鉄雄に言われてしまったが、立ち上がれそうにないので、仕方がない。
何とか鉄雄の背後に回って、広い背中に隠れて芽依は深く息を吐いた。
「警察呼ぶから」と鉄雄が携帯を手にすると、岡崎は逃げるように出ていった。
芽依は怖さで震えてしまった。
「布団、動かすのも面倒くさいし…当分、ここで寝るわ」と鉄雄がカレーパンを齧りながら言った。
そして震えている芽依の頭を撫でながら「お茶、淹れようか?」と聞いてくれた。
それから奇妙な同居生活が始まった。芽依が出かける時に、鉄雄が眠りに来て、芽依が晩御飯を食べて、寝る準備をする時に鉄雄が出勤する。もし恋人だったらすれ違い生活になるのだろうけれど、芽依にとっては帰ってくる時は鉄雄がいるし、出かける時も鉄雄が戻ってくる。僅かな時間だが誰かが部屋にいてくれるおかげで寂しさを感じることがなくなった。疲れて帰ってくると、寝ている鉄雄がすぐに起きる。芽依が持っているパンを見て、嬉しそうに笑ってくれると一日の労働の疲れが充実感に変わった。
芽依の休みに合わせて、鉄雄も休みのシフトを取ってくれた。休みの日は芽依も昼まで寝ているので、その時は本当にこっそり部屋に入ってきて、隣の布団でこっそり寝ている。初めての時は起きて、びっくりした。鍵は渡してあったが、起きて鉄雄がベッドの下の布団で寝ていることに驚きで軽い悲鳴をあげた。その声で鉄雄も起きて「おはよー。今日は何する? ご飯食べに行こっか」とのんびりした調子で言われる。
軽く文句を言うと「せっかく休みを合わせてあげたのに」と鉄雄が拗ねた。
別に頼んでない、と思ったけれど、芽依は口に出さずに、ご飯のリクエストをする。鉄雄はどこでも連れて行ってくれた。
「ふわふわのパンケーキが食べたい」
「大きなハンバーガーがいい」
「手打ちうどん」
「インドの本場カレー」
何を言っても、嫌と言わずに連れて行ってくれる。何だか最高の彼氏といるような気分になりそうだったが、鉄雄が口を開くと、彼氏というよりは親友みたいになってしまう。
「その服は似合ってないわよ。セールだからって、そういうの買わないの」
「え? なんでそんな地味なリップしてるの?」
「やだ。プチプラコスメだからって…それはラメが激しすぎ」
なんなら、芽依より女子力が高い。会話はいつも頼りになるお姉さんとのようになる。本当に不思議な同居だった。ベランダから明るい春の日差しが差し込んできた。芽依の髪を優しく触りながら、整えてくれる。
「モンプチラパンは細くて綺麗な髪ねぇ」
サラサラと髪の毛が鉄雄の指からこぼれる。ゆっくり触られると気持ちがよくて、うっかり眠りそうになる。
「もうすぐ春ねぇ」とのんびり言う鉄雄の声も眠気を誘う。
桜が咲いたら、二人でお弁当でも持って食べに行きたいな、と芽依は思った。
「鉄雄さんは恋人いない?」
「恋人? いたらモンプチラパンのお世話なんてしてないわよ」
「じゃあ…桜が咲いたらお花見行きたいな」
「いいわよぉ。でもまずは今日は何をする?」
「今日は鉄雄さんの行きたいところ…あ、パチンコ以外で」
そう言うと、鉄雄は笑った。
「職場見学でもして見る?」と芽依に言った。
鉄雄の職場は昼間はカフェで夜はバーになるという。芽依は明日は朝早いので、カフェのうちに行くことになった。カフェのランチを食べに行くことになったが、芽依は鉄雄の職場だと言うので、失礼のないような服を着たかったが、まともなのはたった一着のワンピースだけだった。
「…貧しいわ」と鉄雄がワードローブを覗いて言うので、ちょっとだけ恥ずかしくなった。
「まぁ、でも何着ても可愛いからいいんだけどね」と言って、鉄雄も着替えるために自分の部屋に戻った。
芽依は鏡を覗き込んで「何着ても可愛い?」と呟いた。
そこにはいつもの自分が首を傾げて映っていた。
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