第5話 チューリップ

 芽依は毎日、家と仕事場の往復で、休みの日はベッドに倒れ込んで、夕方起きるという生活をしていた。鉄雄のドアにパンを引っ掛けておくと、いつの間にか無くなっている。一階の住人かもしれないし、鉄雄かもしれない。どっちでも芽依には関係なかった。ただ…誰かと繋がっていると思いたかった。

 その日は休みの日で、昼過ぎの電話で起きた。

「お母さん?」

「芽依、まさか寝てたの? 具合悪いの?」

「あ、ううん。休みだし…ちょっと…ゆっくりしたくて」

「あんた、付き合ってる人いるんでしょ?」

「え? あ…あの」

「今度、連れてきて。一度、顔見たいから…」

 母には付き合っている人がいることを言っていたが、別れたことは言ってなかったし、自分からなんだか言えなかった。

「あのね。…別れたの」

「え? そうなの?」

「うん…。実は…」と言った時に、ドアの呼び鈴が鳴る。

「めいちゃーん。モンプチラパーン」と鉄雄の声だった。

「ちょっと待って」と電話を片手にドアを開ける。

 目の前にピンクのチューリップの花束が飛び出してくる。

「嫌だ、すぐに開けちゃダメって言ってるのに」と鉄雄が笑いながら、花束を持っていた。

「あ、お母さん、後でかけ直す」と芽依が言うと、鉄雄は携帯に向かって「おかーさーん。いつも芽依ちゃんにお世話になってますー」と大きな声で言った。

「芽依? 誰なの?」と母親の声が聞こえて、芽依はため息をついた。


 なぜか芽依はチューリップの花束を鉄雄にもらって、それを花瓶に入れるよう指示された。花瓶なんてなくて困っていたら、鉄雄が自分の部屋から乳白色のガラスでできた雫型の花瓶を持ってきた。ずかずかとそれから芽依の部屋に上がり込んで、テーブルに置かれたスマホをスピーカーにして母親と話している。

「芽依ちゃんのお隣の者です。いつも美味しいパンを頂いて」から始まり、芽依がチューリップを適当に切って、花瓶に入れる頃には母の好きなアイドルの話で盛り上がっていた。

(私より、女子トークが上手い)と芽依は思って、テーブルにチューリップの花瓶を置いた。

「えー? 今度、一緒に行きましょうよ。来月ですよね? えぇ、ぜひ」と勝手に母親と約束をしている。

 芽依が何の話か分からないので、じっと聞いていると、「芽依ちゃんも行く? 映画」と言っていた。

「えー。楽しみー。女三人で行きましょー」と母親にそんなことまで話している。

「…女?」と芽依が小さな声で言うと、「心はいつも女だから」と言って、笑っている。

 なぜか芽依の母親も相槌を打っている。二人で盛り上がっているので、芽依は仕方なくお茶を淹れることにした。お茶を淹れてもしばらく二人が話している。芽依は待っている間に、お腹が空いたので、冷蔵庫の中を開けたが、食べれそうなものは一口サイズのチーズしかなかった。チーズを齧りながら、明るく話している鉄雄を見ていると、不思議な気分になった。誰とでも仲良くなれる鉄雄が、どうして芽依の部屋にいるのだろう、と不思議に思う。きっと友達も多いはずなのに、と。

 ようやく話を終えた鉄雄に「お花…どうしたんですか?」と聞いた。

「どうしたって…買ったのよ」

「え?」

「春だし…。いつもパンをくれてるお礼に」

 芽依は花束をもらったことがなくて、素直に驚いた。ピンク色のチューリップは可愛らしくて、テーブルに置いただけで部屋が華やいだ。

「何だか…嬉しいです」

「そう? 良かった」とそっけなく鉄雄は言った。

「ありがとうございます」と芽依は頭を下げた。

「こちらこそ」と鉄雄は言いながら、芽依に着替えるように言う。

「え?」

「だって、パジャマじゃないの? それ。着替えて、ご飯食べに行きましょう。奢るからさ」と鉄雄は立ち上がった。

「そんな」

「つべこべ言わずに、着替えてよ。隣の部屋で待ってるから。私はいいけど、あんたは嫌でしょ?」と言って、玄関に行く。

「あの…。どこ行くんですか? 服とか…いい服持ってないです」

 そう言うと、靴を履きながら、鉄雄は笑った。

「大丈夫よ。そんなにいいところじゃ無いから。あんた、服持ってないの? 女の子だから可愛いワンピース一枚もないの?」

「…あります。一枚は」

「じゃあ、それにしなさいよー」と笑いながら鉄雄は出て行った。

 急いで顔を洗って、化粧をする。たった一枚のワンピースは岡崎とデートの時に着た服だった。思い出してしまうけれど、それだけで捨てる気にはなれなかった。髪の毛をポニーテールにする。コートを羽織って、出かけようとすると、ピンクのチューリップがふと優しい匂いを漂わせた。芽依は匂いにつられて、微笑むと鉄雄の部屋に向かった。


 鉄雄は普通に男性用の服を着ていて、コートも紺色のダッフルコートを着ていた。

「お出かけするときは普通なんですね」

「大抵、生物学的性別の服を着てるわよ。だって…気持ち悪いって思われるし。…でもね、いつか全身整形するから」

「え? 怖い。痛そう」

「そうよねぇ。貧乳でもあんたはその必要が無いからいいわねぇ。お金かからないじゃない」

「まぁ…そうですけど」

 そんなことを言いながら、歩いていると、小さな一軒家のレストランがあった。

「高そう…」と芽依が呟くと、「いいのよ。ここ、お客さんのお店だから、来てって言われてて、領収書もらってオーナーにお金もらえるから。だからあんたを誘ったのよ」とこともなげに言った。

「ナイトバーの?」

「そうそう。いいお客さんよ。連れてる女性は毎回違うけど」

 鼻で笑いながら、小さな赤い扉を開ける。

「あ、てっちゃん、いらっしゃい」とレジにいた男性が笑った。

「来たよー」と男らしく話す。

「あれ? 彼女?」

「違う違う。でも可愛いよね? お隣さんの芽依ちゃん」と紹介してくれた。

「へぇ。珍しいことあるんだね。てっちゃんが女の子といるなんて。…このお店のオーナーの田村です。よろしくね」と言って笑った。

 芽依も頭を下げて、挨拶をした。

「美味しいから、どうぞ食べて行って。芽依ちゃんは何でも食べれる? おすすめはビーフシチューだから」と言って、オーナーが案内してくれる。

 一軒家をレストランに改装していて、細い階段を上がって、すぐの席に案内された。小さな窓から庭が見える。庭に童話に出てくるような小さな畑が作られていて、そこに似合うウサギの置き物が置かれている。芽依は「可愛い」と言って、庭を眺めた。

「本当はてっちゃんにお花を植えてもらおうかと思ったんだけど、レストランだから人参とか植えて、経費削減してるんだ」

「鉄雄さんにお花?」

「知らないの? こいつの家、有名な華道の家元なんだよ」

「え?」と芽依は驚いた。

「家元だからって、花を植えるわけじゃないし…」と鉄雄はそっぽを向いた。

「まぁ…そうだけどさ。オープニングパーティには大きな花を生けてもらったりして…。さすがだなって思ったけど、家出して、ナイトバーなんかで働いて」とオーナーは勝手に話した。

「あの…お腹空いたので、おすすめお願いします」と芽依はわざと話を切った。

 きっと鉄雄が話したくない話に違いない、と何となく思ったからだった。

「じゃあ、ビーフシチューだけど、てっちゃんは大好物のハンバーグでいい?」

「そうして」

 芽依もお願いします、と言って、オーナーはようやく下がって行った。鉄雄のバックグラウンドが華道の家元だとは思わなかったけれど、それでチューリップをプレゼントしてくれたのか、と納得した。家出した理由は分からないけれど、鉄雄が花に詳しいと言うことは分かる。

「あの…どうしてチューリップを選んでくれたんですか?」と芽依は聞いた。

 すると、鉄雄は優しい表情で「可愛いチューリップ見たら、あんたのこと思い出したから」と言った。

 その意味が分からずに、芽依は質問した。

「チューリップ…に似てますか?」と聞くと、一瞬、目を丸くして、その後笑った。

「似てる要素はないわよ」

 答えを聞いて、首を傾げた。

「バラを見てもあんたを思いつかないけど、なんていうか、シンプルで素直で可愛いチューリップを見たら、あんたを思い出したの。ここまで言ったら、分かる? それに春だしね? あんた、本当にのほほんとしてるし」

(のほほん…。結構必死に生きてるのにな)

 芽依はちょっと気分を害した。

「チューリップって…可愛いし、健気なところあるでしょ? そこは似てるわよ」

 顔に出ていたのか、フォローが入った。

「お花もらったの初めてで、嬉しかったです。でもそれがチューリップだったから…さらに嬉しいです」

「そう?」

 鉄雄がどうして家出をしたのか、何となく想像はつくけれど、鉄雄が話したくないのなら、聞かなくていい話だ、と芽依は思って、「お腹空きましたね。楽しみです」と言って笑った。

「モンプチラパンは本当に可愛いわね」と鉄雄も笑った。

「何ですか? それ」

「私の可愛い子ウサギちゃんって言うフランス語よ」

 鉄雄がどうしてそう言う呼び方を芽依にするのか分からないけれど、変な意味ではなさそうだったので、腕を組んで首を何度か縦に軽く動かした。

「満足して頂けた?」

「悪くないです」

 そう言うと、今度は鉄雄が満足そうに口をにっと横に引いて笑った。

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