第4話 ベーカリー

 それからしばらく、芽依は人事部長の計らいで、ベーカリーの製造部で働くことになった。表に出ることは無いし、早朝出勤だから岡崎に会うこともなかった。岡崎の転勤は三月が終わってからとのことだった。年度末で転勤の方がお互いに変な噂が立たないだろうとのことだった。ただ芽依は急にベーカリーに行ったので、周りの人から色々聞かれた。

「ずっとパンを焼いてみたかったんです」と言って、それ以外は無駄なことを言わずに仕事を覚えることにした。

 スーパーのベーカリーは冷凍された生地を使うので、成形して焼くだけだから簡単だというが、慣れるまではその成形も難しく、ベテランパートのおばさんに何度もため息を吐かれた。パンの乗った鉄板は重いし、オーブンで火傷しそうになりながらも真面目に取り組むことにした。ここで働く以外道は無い。二月が終わる頃はまだ下手なままで、ため息の回数は変わらなかったが、芽依の真面目な姿勢だけは買ってくれるようになった。

「あんた…。男に騙されたんだって?」と突然言われて、芽依はびっくりして持っていた鉄板を落としそうになった。

 なんとか耐えて、「え? あの…」と言うと、ベテランのおばさんはまたため息をついた。

「あのねぇ。あんた言われたこときっちりやるけどさ。そういう性格だとこれから苦労するよ」

「…」

「今度は紹介で付き合いな。私の知り合い、探して来てあげるから」

 思わぬ展開になって、芽依は立て直した体勢がまた揺らいだ。

「あんたみたいな子はね、絶対自分で探したらダメなのよ。また騙されるから。それにこんなところで働いてたら出会いもないでしょう?」

 確かに早朝勤務なので、夜遊びに行くこともあまりない。もともと夜に出歩かないが、それでもさっさと寝てしまうことが増えた。ベーカリーは思ったより体力勝負なので、起きていられない。

「あ…でも。まだパンをちゃんと焼けてないから」

「そりゃそうよね。一人前になったら、探して来てあげるわよ」と言って、笑った。

 優しさで言ってくれているのは嬉しいが、自分はそんなに人を見る目がないのだろうか、と芽依は不安になった。

 

 そう言うわけで芽依は毎日、早朝出勤して、帰る時にはパンを持って夕方には帰る。もうパンを買わなくていいので、お金の節約にもなって、よかった。アパートの階段を上がると、鉄雄の部屋から女性が飛び出してきた。思わずパンを庇って、階段の手すりに背を預けて体を横にした。逃げるように走り去る若い女性の後ろ姿を見送り、芽依は階段を登る。開けられた扉が邪魔で閉めようとした時、中から鉄雄が出て来て、笑顔を見せる。

「久しぶりー。何? いいところに帰って来たわねぇ。パン? 一緒に食べましょう」と言って、腕を掴まれる。

「ちょっと…」

「たくさん持ってるじゃない」

 確かに一人では食べる量ではなかったし、後から鉄雄のドアにでも引っ掛けておこうかと思ってはいた。なかなか時間が合わなくて会わないので、たまにパンを引っ掛けておくことがあった。

「パン…何回か、ドアに預けましたけど」

「そんなの一階のジジイがとって食べるに決まってるでしょ? いつも仮眠してる時に帰ってくるんだから。会えなくて、寂しかったわよー」と大袈裟に言って、芽依に抱きつこうとするので、芽依は手で押し返す。

 鉄雄をなんとか、かわした後で、テーブルの上にパンを置いた。

「ねぇねぇ。何が美味しいの?」

「なんでも美味しいですよ。…そういえば、さっき女性が飛び出して来たけど」

「あぁ。おかしいわよねぇ。すごい行動力だと思わない? うちを調べて、来てくれたの」となぜか嬉しそうに笑う。

「調べて?」

「そう。バーのお客さん。綺麗な人よねぇ」と言いながら、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。

「好かれてたんですか? 家まで来るってことは」

「そうみたい。でも…一瞬で逃げてったわ。この部屋を見て」

 ピンクのドレスがラックに並んでいるのを見て、逃げ出したのだという。

「ふふふ。驚かしちゃった」

「…確かに。初めての人は驚きますよ」

「まぁ、勝手に来たのはあっちだし。仕方ないわよね? あんただけよ、平然としている人間は」

 そう言われたが、鉄雄の女装姿を初めて見た時は芽依が非常事態だったので、そんなことに構っている余裕はなかった。でも冷静な時だったら、芽依もなんらかの反応をしてしまったかもしれない。もしかしたら傷つけるような態度をとったかもしれない。そう思って鉄雄を見ると、芽依を見て、にっこり笑っている。

 芽依は何事にも応じない鉄雄の姿が不思議だった。でもそれが鉄雄なんだろう、と芽依は思ってパンを選んだ。チョコレートが入って、上にもチョコレートがかかっているクロワッサンは人気商品だ。

「あんたの方は大丈夫なの? 最近、毎日、朝早く出ていくじゃん?」

「売り場が変わって、パンを焼いてるから…。でも人に会わないし、意外と平気です」

「私が帰ってきて、お風呂に入ろうかなぁって思ってる時に出ていくもんね。行ってらっしゃいも言えないじゃない。裸だし」

「…いらないです。別に」

「朝一番早いのはパン屋のおじさん」と言いながら歌い出した。

「おじさんじゃ無いです」と呟いて、芽依はそのチョコレートのクロワッサンを齧ろうとしたら、後ろからスッと取られた。

 そしてまた半分に割られる。クロワッサンは拉るし、上のコーティングチョコは割れるので嫌だったが仕方がなかった。渡されたクロワッサンを食べる。食べる前からボロボロとコーティングチョコが落ちてしまう。文句を言おうと顔を上げると、

「美味しいわねぇ。これ。買いに行こうかな」と満足そうに鉄雄が微笑んだ。

 少しも傷ついてなんか無いような表情だった。

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