第2話二倍の幸せ
正直に生きてきたのに、どうしてこうなったんだろう、と芽依は呟いた。仕事を辞めるとしても、昨日今日で辞めれるはずもない。仕事場で上司の岡崎と鉢合わせるので、早めに行って、人事部にアポイントを取った。人事部の女性と話していると、朝早かったからか「今、時間あるけど、どうかした?」と出社してきた部長が話に入ってきた。
「あの…辞めます」
「え?」
人事部の部長は驚いたような顔で、とりあえず、会議室に場所を移して、話を聞いてくれた。色々聞かれたので、正直に何もかも話した。嘘をついたとしても、ばれるだろうし、芽依には丁度いい嘘を思いつくこともできなかった。
「分かりました。辞めたいんですか?」と部長が聞く。
「辞めたい…とは思ってなくて、辞めなきゃいけないんです。奥さんと約束しましたから」
「はぁ…。そうですか。何か署名しましたか?」
「署名? してません」
「じゃあ、辞めなくていいですよ。でも働く場所は変えましょう」と部長が言う。
「え?」
「奥さんにはこちらから電話をしておきます。後…岡崎くんに会うのも辛いだろうから、今日は有給で休んでください。明日、こちらから連絡します」
「え? …あの」
「今日はもう帰っていいですよ」
芽依は人事部長の顔を見た。
「三年、欠勤もなく真面目に働いてきた石川さんを失うのはもったいないのでね。もし奥さんから直接連絡が来たら、会社と話してますと言ってください。君は何の署名もしないように」
「…はい。あの…辞めなくていいんですか?」
「いいですよ。…まぁ、噂等で…もしかしたら辞めたくなるかもしれませんけど」
続けていいと言われて、本当にありがたかったので、芽依は涙が溢れた。とりあえず、お金の心配はしなくていい、と思えたからだ。
「じゃあ、私は先に出ますので、あなたは落ち着いたら、そのまま帰ってください。売り場への連絡も私がしておきます」
そう言って、人事部長は会議室から出て行った。
芽依は出勤してくる人たちと反対に出て行った。顔見知りがいて「おはよう? あれ? 帰るの?」と聞いてきたので「ちょっとお母さんが」と言って、頭を下げて出た。あまりいい嘘じゃないな、と芽依は思いながら実家に電話した。
「あら、芽依、どうしたの?」と母の声がした途端、芽依はまた涙が溢れた。
「具合どう?」
「具合? 悪くないけど。今から仕事に行くの。なんかあった?」
「ううん。…なんか…あったかなって」
「変なこと言うわねぇ。元気にやってるのね?」
「うん」
そう言うと、仕事に行くから、と言って電話は切れた。
(仕事はつながった…)と芽依は涙を手の甲で拭った。
アパートに帰る前に、買ってみたかったパン屋さんで大量にパンを買う。どれも美味しそうで食べてみたかったものだ。いつもは節約のために滅多に買わないけれど、何だかむしゃくしゃするので、散財した。パン屋で散財なので、二千円くらいだった。それでも芽依にとっては贅沢だった。
「贅沢しちゃったなぁ」と思いながらアパートの階段を上がると、外の廊下の手すりに体をもたせて、スェット姿の鉄雄がタバコを吸っていた。
「あら、おかえり。早いわね」と口調は昨日のままだ。
「あ、おはようございます。…あの、飴…ありがとうございます」と言って、頭を下げる。
「ちょっと、待ちなさいよ。そのパン、美味しそう。一人で食べるの?」
「え? そうですけど」
「多いでしょ?」
「え?」
「コーヒー淹れてあげるから、入りなさい」と扉を開けられた。
「これは…」
「お腹壊すわよ。そんなに食べたら」
確かに衝動的に買ったので、量は多い。しかし人にあげるために買ったわけではないのだ、と芽依は思ったが、
「幸せは半分こすると、二倍になるのよ?」と笑顔で言われた。
「後から、増えるんですか?」
「馬鹿ね。そんな考えだから騙されるのよ」
「え?」
「知りたい?」
「はい」と思わず背筋を伸ばした。
「じゃあ、まぁ、本当はお金をもらうところだけど、パンでいいか」
まんまとパンを奪われることになった。
ドレスだらけの部屋に入ると、早速パンを一つ取られた。
「まず、考え方だけど…あなたが幸せを誰かに与えたとする」
「はい」
「で、幸せが返ってくると思ってる?」
「はい」
「ブブー」
「え?」
鉄雄は立ち上がって、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。コーヒー豆が挽かれる音がして、本格的なコーヒーのようだった。
「そんなのわかんないじゃない。お返しがあるかなんて」
「私はお返しします」
「みんな、あんたみたいなお馬鹿正直じゃないの。それはそろそろ分かって? でも私は幸せが二倍になるって言ったでしょ?」
「はい…」
「パンをくれたあなた、パンをもらった私、二人が幸せになるのよ? あなたが一人で食べたら幸せはあなただけ。でも一緒に食べるから幸せは二倍になる」
「え? …なんか。騙されてませんか?」
「一+
「私、パンを取られて、幸せじゃありません」と頰を膨らませた。
「そうかもね。でもパン、食べなさいよ。美味しいでしょ? 幸せじゃない?」
「確かに…」
「何が言いたいかって言うとね、不確かな幸せに期待するんじゃなくて、そこにある幸せを見る…見つけることよ」と鉄雄は言った。
「…ちょっと…難しいです」
「まぁね。あなたは夢見る夢子ちゃんで、誰かが幸せにしてくれるって思ってるものね」
「でもせっかく買ったのに…」
「だからー、よく考えて。こんなにたくさんのパン、一人で黙って部屋で食べて、あなた幸せ? パンの数は減ったかもしれないけど、コーヒー飲めるし、美味しいって言ったら、美味しいって言ってくれるのよ? これが二倍、いいえ、二倍以上の幸せと言わずに何というの?」
なんとなく圧が凄くて、芽依は意味が分からないまま頷いた。
「ほら、美味しいって言ってみなさい」
「美味しい」とまだパンを食べていないが芽依は言った。
「そうよ。美味しいわよ。あそこのパン、高いけど」と言って、コーヒーをカップに入れてくれた。
「あの…クロワッサンは私のですから」
「じゃあ、半分こしましょう。私も好物なの」と言って、勝手にちぎる。
クロワッサンはちぎると形がへしゃげてしまうから嫌なのにな、と芽依は思ったが、ぺたんこになった半分を受け取った。バターの風味が口の中に広がっていく。
「美味しい」と思わず声が出た。
「でしょ?」となぜか得意げに顔を覗き込まれる。
スェット姿で男らしい顔立ちの鉄雄に見られて、急に恥ずかしくなった。
「あの…おかげさまでお仕事は続けられそうです。売り場は変わるみたいですけど」
「あらー、よかったじゃない? そのお祝いのパンなの? でも本当なら、あなたが相手に慰謝料もらえるのよ?」
「え?」
「結婚してたって知らなかったんでしょ? いつか結婚したいね? とか言われてない?」
「…言われました。いい奥さんになるって言われました」
「ふふふ。言いそうだわね。でも口だけでしょ? 婚約指輪もらったわけでもないでしょ?」
「…はい。口だけです」
「慰謝料欲しい?」と聞かれて、芽依は首を横に振った。
お金が欲しいんじゃない。ただ本当に好きだったのか、聞きたかった。
「まぁ、証拠がないから慰謝料は…難しいかもしれないけど」と言って、鉄雄は立ち上がり「仕事は続けられてよかったんじゃない?」と笑いかけた。
「はい…。とりあえず助かりました」
「相手のこと、忘れられる?」
そう聞かれて、一瞬、動けなくなったけど、芽依は頷いた。
「忘れなきゃ…ですから」
「くだらない男なんて、早く頭から追い出したら? 考えるだけ無駄よ」
できたらそうしたい、と芽依は思った。でも芽依にとっては何もかもが初めてで、楽しい思い出も美しい記憶も全てが嘘だったなんて思いたくなかった。思わず膝を抱え込む。
「パチンコ行かない?」
そう言われて、目を丸くした。
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