遠くの空
かにりよ
第1話 押入れのキャンディ
このおんぼろアパートに引っ越したのは一体、何のためだったのだろうか、と
寒い冬の夜、空を見上げれば星がキラキラと光っている。年明けセールも終わって、一息つく間も無くバレンタイン商戦が始まっている。紳士服売り場で働いている芽依は上司の岡崎誠と付き合っていた…と思っていた。ただの遊び相手だと知ったのは今日だった。
「岡崎がお世話になっております」と妻と名乗る人が職場に現れたからだ。
「え? 主任?」と思わず芽依は固まった。
結婚しているなんて聞いていなかったからだ。
「あなたが、石川さん? いつも主人がお世話になっております」と丁寧に挨拶をされた。
そして仕事後に呼び出されて、奥さんから話を聞かされた。一般的な会社員とは違って、日曜日に会えないから疑うということもなかったし、そもそも芽依はそうだったとしても疑うことはなかった。初めて本気で好きになった人のことを疑う気持ちは全くなかった。
家族連れの多いファミレスで飲み物だけ頼んで、奥さんと向かい合う。
「結婚してたこと…知らなかった?」
「はい。本当に…」
「嘘、ついてない?」
「嘘じゃないです」と悔しさと悲しさで涙が溢れてきた。
「…。泣いて、信じてもらおうってことかしら?」
突然のことで、芽依は何を言ったらいいのか分からないし、岡崎からも話を聞きたかったが、この場には来なかった。
「…突然すぎて…。でももう…お会いしません」
「当然よ? 仕事も辞めてもらわないと…」
「え?」
「だって同じ職場でしょ?」
芽依は仕事も失うことになった。就職して三年目だった…。
「石川さんは笑顔がいいね」
岡崎がそう言ってくれて、芽依は嬉しくて、毎日頑張ってきた。その頑張りを認めてくれて、好意を持つようになった。それは相手にすぐ伝わったのだろう。笑顔でいたから、こんな目に合ってる、とそんな風にさえ思った。
結局、慰謝料は無しでいいから、仕事をできるだけ早く辞めるように言われて帰ってきた。仕事も恋も失って、しかも岡崎が気楽に会えるようにしたいって言ったから、アパートを契約したのに、どうしたらいいのだろう、と頭を抱える。いかにボロアパートとは言え、毎月、五万円もかかる上に、光熱費やら生活費も…と思うと、泣いてられなくなる。でも涙は止まらない。
「男なんて…。男なんて、大っ嫌い」と芽依は声に出した。
思わず腹の底から声が出た。
「あらあら。世界の過半数以上を敵に回した」と後ろから声がした。
振り向くと、背の高い…なんとも形容し難い人間がいた。毛皮のコートを着て、ロングヘアの緩いウェーブの髪に、真っ赤な口紅。でもその周りは青髭が見える。人類学的性別は男だろうが、格好は女だった。
「あ…の…」
「どおしたの? あら? お隣の…貧乳ちゃんじゃない」
「は?」
「Aカップのブラが飛んできたわよ」
「え?」
「だからドアノブにかけておこうかと思ったんだけど、それは流石にねぇって思って。預かってるの」とお隣さんは言った。
芽依は恥ずかしさでいっぱいになって、涙が引っ込んだ。
「うちに上がりなさいな。返してあげるから。大丈夫、私、女に興味がないから」と言って、ヒールの音をカツカツ鳴らして、外階段を上がる。
隣の人がこんな人だったとは思わなかった。挨拶をした時は普通にスエットにボサボサの短髪だった。なんとなくつられて、階段を上がる。ドアを開けると驚くくらいドレスがいっぱいだった。畳の部屋に似つかわしくないピンクのドレッサーも置かれている。
「お茶、飲む?」
ブラジャーを返してもらって、さっさと帰るつもりだったから、玄関で立っていると、中に入るよう手招きされた。
「あの…」
「あぁ、ブラジャー…。自分で取って。テーブルの上に置いてるから」
小さなテーブルの上にポツンと置かれているのを見て、慌てて手に掴んで鞄に入れた。
「何があったの? 世界の半分以上を恨むようなことを言ってたけど」
「…別に…大丈夫です」
「そう?」と言いながら、コップを差し出してくれる。
玄米茶が入っていた。
「帰宅後はやっぱり玄米茶がいいわよねぇ。ほっとするわ」と言って、お茶を啜る。
仕方なしにお茶を飲んで帰ろうとするけれど、暖かい玄米茶は心に沁みた。
「ねぇ、あんた、知らないでしょ?」
「はい?」
「私の壁の穴」
「え?」
「あんたの押し入れが覗けるのよ」
「え?」
指さしたところに確かに穴が空いている。
「部屋が丸見えなわけじゃないから…あれだけど。声は気にした方がいいわよ。恋人連れ込むなら」
思わず芽依はその穴を除き込んだ。真っ暗だが、確かに押入れの位置だ。そこまで確認していなかった。
「管理会社に言います」
「辞めなさいよ。この穴のおかげで、私の部屋の家賃は安いんだから」
「え?」
「男を連れ込むなら、引っ越した方がいいわよ」
「…連れ込む人なんて…」と言って、芽依は涙が溢れる。
どうしてこう、どいつもこいつも自分勝手なことばっかり言うのだろう。悔しさも溢れてきた。
「私、
泣いている芽依を前にひとしきり笑うと、「話してみてよ」と急に優しい声になった。そしてウィッグを外して、丁寧にブラッシングをし始める。その長い指を見ながら、芽依は騙されていたことを話した。
一通り話すと、鉄雄は「そうなの」としか言わなかった。特別慰めてくれるわけでも親身になってくれるわけでもない。なので、いつまでもここにいても…と気まずくなって、芽依はお茶のお礼を言って、立ち上がった。
「お粗末さまで」と鉄雄が言うので、どう言う意味かと芽依は首を傾けた。
「ねぇ、あんた、全部、人が悪いと思ってるでしょ?」
「え?」
「騙した人が悪いって。自分は悪くないって」
言ってる意味がわからなくて芽依は思わず鉄雄を見た。
「確かにあんたは悪くはないわ。でもそれはあんたが馬鹿だっただけよ」
言われた言葉が胸に突き刺さる。
「まぁ…若いから仕方ないけどね。お母さんの言う通り、笑顔でいることは大切よ。それは間違ってない。でもその笑顔は単ににこにこすればいいってわけじゃないわ。そしてね…あんたが自分が馬鹿だと分からないとまた同じことになるわよ」
なんでそこまで言われないとダメなんだと思って唇を噛む。
「…ありがとうございました」と思い切り頭を下げて、そのまま玄関を出た。
「おやすみ」となんとも気の抜けた声が後ろから聞こえたけれど、返事はしなかった。
芽依は自分の部屋に飛び込んで、畳の上に置かれたベッドの上に飛び込んだ。そしてわんわん泣いた。穴から隣に聞こえてしまえばいい、と思って。
傷ついた日に「馬鹿だ」なんて言われたくなかった。誰かに優しくされたかった。でも…そうだ。いつも優しくされたくて…こうなったんだ。そう思いながら、やっぱり「馬鹿だ」と自分でも泣いた。しばらくすると、押し入れからコツコツと音がするが、芽依は知らないふりをした。
朝が来て、押し入れを開けると、穴の下にはキャンディがいっぱい落ちていた。コツコツ音がしたのは鉄雄がキャンディを穴から入れていた音だった。暗い押入れにカラフルなキャンディが散らばっている。芽依は一つだけ取って口にいれて、あとは全部、穴から向こうの部屋に返した。想像すると、ほんの少しだけおかしくなった。
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