3★おかしくても、わたしは

 真弦くん、大丈夫かな……?

 わたしは、テーブルの上にきれいに置かれたオムライスのお皿と、バックヤードを交互に見やる。

 

 トロットロの半熟たまごに、コショウが香るチキンライス。

 たまごの上にはトマトケチャップで、【HINAちゃんへ】と文字が書かれている。

 

 人見知りのわたしは、店員さんに自分から注文できない。

 そんな妹を気づかい、お姉ちゃんが代わりに文字入りを頼んでくれたんだ。


「あれ? 日奈、食べないの?」

 フォークを持ったまま固まっている妹に、写真を撮り終わったお姉ちゃんが目を丸くした。


「オムライスきらいだったっけ? 文字なしが良かった? 私の、食べる?」

 と、自分のお皿を、わたしの手前に置いてくれる。


「ごめんね。私ばっかりはしゃいじゃって。やっぱり、少し早かったかもね。年齢制限がないから、一緒でもいいかなって思って。日奈が合わないなと思ったんなら、料理だけ食べて帰ることもできるよ」

 いつも明るいお姉ちゃんの声のトーンが、ちょっと落ちた。


「店員さんには申し訳ないけれど、やっぱりお互い楽しくありたいじゃない?」

 

 影響されやすいお姉ちゃんのことだ。

 憧れの場所に行けるのを夢見て、日々を過ごしてきたのだろう。

 今日、実際に行けることになって、すごく嬉しかったはず。

 それでも、妹のことを想って、わざわざ……。

 

 わたしは反射的に首を振る。

「ううん、そうじゃなくて……。その、えっと、えっと」

「なに?」

 

 この場合、なんと伝えればいいんだろう?

 正直に、『真弦くんの調子が悪そうなの』と話したらどうなるのかな。


『それはあの子の問題だから、あんたが気にすることないよ』とか。

『そういうのはむこうの子がしっかり理解しているんじゃないの?』とか。

 おかしそうな顔をされるのだろうか。


 そうだよね。よくよく考えればわかることだ。こっちが悩む必要はない。

 わかっているのに、胸が痛いのはなんで?


「お姉ちゃん。わたし、ちょっとトイレに行ってくる」

「へ? え、大丈夫? 体調悪いの?」

「ちょっと手が汚れたから、洗いに行くだけ」


 このまま、うつむいていてはダメだ。

 連れて来てくれたお姉ちゃんのためにも、気持ちを切り替えなきゃ!

 冷たいお水を顔にかければ、気持ちも晴れるよね。


 わたしは席を立つと、椅子の背もたれにかけていた上着に袖を通した。


「すぐ戻るから! ごはん先食べといて!」

「す、すぐ戻るって……。て言うかあんた、スプーン持っただけでしょ? なによ、『手が汚れたから』って! もぉおおおお」


 トイレへと走ることに夢中だったわたしの耳には、お姉ちゃんの呆れ声はこれっぽっちも届いていなかったのでした。

 

 


   ■□■


 

 トイレで顔を洗い終わり、わたしは急いで来た道を戻った。


 お店は二階フロアの西側、トイレは東側にあるので、『ちょっと歩けばすぐトイレ!』っていう感じではない。

 細いリノリウムの廊下を、ダンジョンに迷いこんだ勇者のように、ただただ真っ直ぐに進む。

 

「はぁ。考え過ぎかなぁ。空気悪くしちゃったな……」

 とぼとぼとうつむき加減で歩いていると、突然大きな声が響き渡った。


「――ら、おまえはどうしたいのかって聞いているんだ!」

「だから、オレは! ――い、――だ!」

 どうやら、廊下の奥で、誰かが言い争っているみたい。

 しかし、距離が遠くて、セリフははっきりとは聞き取れない。

 

 ど、どうしたんだろう、こんなところで。

 人通りが少ないとはいえ、通路もお店の一部なのに……。

 マンガでよくある、お客さんと店員さん同士のケンカ……とかかな?


 わたしは怖いもの見たさで、廊下の陰からおそるおそる顔を出し。

 ハッと息をのんだ。


「手伝うと言うからまかせているのに、その態度はなんだ!」

「だからっ、オレは料理担当だってば!」


 癖のある黒い髪。白いカッターシャツに黒いズボンの、三十代くらいの男の人。

 怒鳴っているのは、カトレア学院の校長先生―オーナーさんだ。

 そして、彼に歯向かっているのは、黒いスーツ姿の小さな男の子―真弦くん。


 こ、こんなところでまさか、家族ゲンカ⁉

 二人とも息が荒く、かなりヒートアップしてる。


「接客か料理か、自由に決めて良いって言ったの、パパのくせに! なのにっ……、なんでみんな勝手に! 勝手に、接客なんか……っ」


「お客様とのコミュニケーションを第一としている店だ。みんな、真弦のために仕事を振っている。いい加減、自分のカラに閉じこもるのはやめなさい!」

 

 店長さん、説明のときは柔和だったのに……。

 発する単語ひとつひとつに圧がある。

 腰に手をあてて、上から真弦くんをいちべつしている。


「ちがう、オレは、オレは……」

「去年色々あったから、怖がるのもわかる。でも店にいる女性は、おまえに嫌がらせをした昔のクラスメートとは、なんの関係もないだろう。みんなおまえを慕ってる。ホラ」

 

 店長さんがスーツの胸元から出したのは、桃色の封筒。

 真弦くん宛てのファンレターだろうか。


 そっか。こういうお店だと、従業員さんにもファンがついたりするもんね!

 彼は小学生でありながら、『息子』のポジションで働ける超レア人材だ。

 渡木さんとのやりとりから察するに、ほかのバイトさんからの信頼も厚い。

 

 ――だけど。

「こんなのっ、しらない!」

   


  ビリッ!

 

 真弦くんは、お父さんから受け取った手紙をその場でやぶり、右足で思いっきりふんづけた。

 綺麗な和紙が、一瞬でグチャグチャグチャになる。

  

 え? ファンレターを、やぶった……?


「真弦!!」

「しらないっ。しらない……。怖い……。話すのも、慕われるのも、サービスだって……! なんで、嫌なことをやらせるの……!!」

「やりたいって言っただろ? 『接客にチャレンジしたい』って。なにを今更」


 店長さんに顔をしかめられて、真弦くんの表情に戦慄が走った。

 一瞬顔を上げたのち、すぐに床に視線を落とす。

 下くちびるを噛みながら、目の端に涙をためながら。


「真弦! しっかり話そう。なにをしたいか、お父さんに、ちゃんと……」

 


「――もういい」


 そしてついに、彼は店長さんの手を振り切って駆けだした。


「パパなんか、大っきらいだ!」

 

 両足を振りかぶり、店長さんの声に反応することなく、真弦くんは廊下を走る。

 余裕がないのか、わたしの横を通りすぎたことにも気づいていないようだった。

  

 自分も、あんなに大きい叫び声を聞いたことがなかったから、足が震えてる。

 両手も背中もじんわり暑くて、酸欠の金魚みたいに口だけがパクパク動いて。

  

 —―正直に、『真弦くんの調子が悪そうなの』と話したらどうなるのかな。 

『それはあの子の問題だから、あんたが気にすることないよ』とか。

『そういうのは、むこうの子がしっかり理解しているんじゃないの?』とか。

 おかしそうな顔をされるのだろうか。

 

 そうだよね。よくよく考えればわかることだ。こっちが悩む必要はない。

 わかっているのに、胸が痛くなるのは、なぜだろう。

 

 ……わたし、馬鹿だ。

 赤の他人なのに、今日会ったばかりのあの子のことが、心配でたまらないの。

 

 黙れよって、なにがわかんだよって、返されるかもしれない。

 それでもわたしは、真弦くんの跡を追ってしまったんだ。

 

 息が切れる。汗がしたたる。

 おかしいかもしれないけれど、でも、わたしは本当に彼を助けたいの。


 だって、お店のフロアで挨拶をしてくれた真弦くんは—あの執事サマは、とってもキラキラしていたんだから!

 

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