第30話・泣かせてやった

 そして、その話を俺は今日は一人で職員室に持ち込むのです。


「こんにちは、先生。お加減いかがでしょうか?」


 拓海先生とは今日初めての対面です。彼の担当科目は数学で、今日はその授業がなかったのです。ひとつの授業が長いこの学校、数学がない日も当然あります。


「至って健康です。拝見する限り、アキラさんも元気そうですね。さて、今のあなたの担任は茜先生です。彼女をおたずねください」


 それはどこか卑下したかのような声でした。あれほど有能な先生が、すぐそばにいれば劣等感を感じることもあるでしょう。ただ、だからといって拓海先生が有能でない証拠はどこにもないのです。


「先生。俺は先生のお話も聞きたいのですが……」


 そう言葉にして、返事が返ってくるまでの間、記憶を漁って、先生の優れたところが発揮されたシーンを探していました。


「そう言ってくれるのはありがたいです。でも、どうしてでしょう? 私は、すずめさんをさらに追い込んでしまいました」


 それが偶然にもキーワードになって、思い起こされたのです。


「すずめさんの自傷に俺は気付けませんでしたから」


 拓海先生のすごいところ、それが言語化できました。彼はとても、注意力に優れているのです。


「そんな……。当たり前じゃ……」


 先生は面食らっていました。でも、それは決して当然ではありません。


「さすが先生ですよ。当たり前と思うほど、普段から周りに注意を向けているなんて尊敬します」


 だから、ありのまま思ったまま言葉にしました。だって、俺だってそんなに常に周囲を見ていない。あぁ、拓海先生はきっと、気付くせいで疲れてしまうのですね。


「アキラさん……。ありがとう……」


 拓海先生は、そう言って泣き出してしまったのです。

 ただ、先生が泣き出してしまうなんて、しかも泣きながら発する言葉がありがとうだなんて、そんな経験があるはずないのです。俺は思わず、オロオロと戸惑ってしまいました。


「え、えっと……先生!?」


 そんな時です。茜先生がそこにやってきて、うまく茶化してくれました。


「先生にまでママやるんですか!? 私も甘やかしてくださいよ!」


 まったくもって拓海先生にそんなことをしたつもりは全くないのですが。


「あの、先生が生徒捕まえて何言ってるんですか……」


 ともかく、それは冗談のたぐいです。呆れたふりをして、空気を弛緩させるにもってこいでした。


「すみません、アキラくん。取り乱しました」


 そのおかげで、拓海先生は平静を取り戻したのです。


「いえいえ。お気になさらず!」


 先生も人間。人間は杓子定規ではいけないのだと思っています。先生だから取り乱してはいけない。そんな法はありませんし、あったらくそくらえです。


「私も気づかなくてごめんなさい。拓海先生は拓海先生の良さがあるって思ってましたから!」


 なんて、茜先生が追い打ちを掛けるもので、また少し拓海先生は目頭を押さえていました。


「話を進めますね……。ごめんなさい、自己愛性障害の話は進んでいないのです。そもそも教師全体にも話が広がっていなくて……」


 いやもう、拓海先生半分泣いています。上を向いてしまっています。

 でも、あぁそうかと思うこともあったのです。年長者で時折人を泣かせたことを誇る人がいました。俺はずっとそれに反感を抱いていたのです。

 人を傷つけることになんの誇りがあるのかと。


 でも、これなら少しは誇っていいのでしょう。ひけらかす気にはなりませんが、心の淀みを自分の前に吐き出してもらえた。それは、少し嬉しいことです。

 泣かせてやったと誇ることは、これが出発点だったかもしれません。上手く泣けない人に、泣ける場所を提供することができたと。


「先生の中でも伝えたくない人もいるので、少し遅れているのをお詫びします」


 そうでしょう。お金のために、アイディアを利用しようと考える人は絶対にいる。それはどんなアイディアでもです。


「いえいえ、気にしないでください。一朝一夕で話が進むと思ってないですよ。ゆっくりやりましょう!」


 だからこそそれが基本スタンスです。無理して突貫工事すれば、どこかにほころびが出る。

 慎重を期したところで、綻びることもありますし。だから、焦ってはいけないと思っています。


「茜先生、彼は本当に高校生でしょうか?」

「疑わしいですね。もしかしたら、全人類の聖母かもしれません」


 なんて言われてしまうのです。

 高校生であることを疑われることまでは受け入れましょう。ですが、受け入れてはならないものがあります。


「全人類の聖母ってなんですか!?」


 キリスト教徒が聞いたら大激怒です。

 本題を切り出すまでに、随分と時間がかかったものでした。

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