第29話・意味は後あればこそ
そんな話は昼食時にも持ち越されました。
「もみじはさ、人ってなんで生まれると思う? アキラは仏教からいろいろ教えてくれたけど……」
もみじさんも自分の哲学を持つ方です。すずめさんの問いに必ず答えるでしょう。
「じゃあ私はちょっと仏教を否定しようかしら……。楽しむためよ! 人間は誰かに認めてもらえると嬉しくて気持ちよくて楽しいの。どっちも大切よ、今も過去も未来も。捨てていいものは何もないわ」
非常にもみじさんらしい答えだと思います。来世ばかり見ていては、今が救われません。
でもきっとブッダは、今を楽しんでいる人には来世も考えるように言うでしょう。来世ばかりを負う人には、今を楽しむ方法を教えるでしょう。
「じゃあ、ナツは?」
すずめさんは今、もう一度生きようとしているのかもしれません。これまでの人生の理由を、生きる意味に求めたのかもしれません。
「俺は、経験のためだと思ってる。あぁ、死んだら何も残んねぇってのはナシだ。それじゃあ、宇宙が消えたらそれで俺たちの痕跡は終わり。そんな悲しい話は、科学が実証しようが神がのたまおうが信じやしねぇ。だからな、経験のためだ。天国か地獄なら、幸せか不幸せに慣れちまう。んで、人生の中でもそりゃ同じだろうさ」
そして、その答えを与えたのはナツさんでした。
「じゃあ、幸せになるために?」
すずめさんは恐る恐る聞きます。
「おうよ! 不幸のどん底、地獄のどん詰りになれちまえば、あとはどこだって天国だろうさ! ちょっと幸せになった時に、それに気づくぜ」
生きるとは何か、それを考えたときに、この場で答えを持っている人はみんな死後の話をしました。それは俺たちが学生が故なのか、それともみんなそれを望んでいるのか、あるいは事実なのか。死後の世界なんて覚えていない俺には、わからないことです。
ただ、わかるのは、楽しく生きて損はないことです。
「無駄じゃなかったの?」
すずめさんはきっと否定を求めました。
「そうだ! と言いたいところだが、無駄だったって思ったまま終わっちまう奴もいる。例えば、要、焦るだろ?」
その問は、トランスジェンダーであり、心が女性であると叫んでいる人が感じる焦燥を浮き彫りにしました。
「はい……」
要さんは、それを聞いたときにとても焦った顔をしたのです。
「その焦燥感の内容。ここで言っていいか? 声は落とす」
それをナツさんはなぜ知っているのでしょう。そんな疑問を感じる内容だったのです。
「はい……」
それは要さんが承認したから語られ始めます。
「生物っていうのは女が基本形で、だからいっちばん最初は腹の中で女なんだよみんな。んで、男っていうのはそれが変化してなっていくものなんだ。そしてそれは生まれたあとも、大体30歳前後くらいまで続くか? だからな、治療が遅くなればなるほど、男になっちまうって感じちまう。そっからじゃもう、取り返しがつかないって感じちまう。それに、命短し恋せよ乙女っていうくらいだ。どうしたって、若くて綺麗なうちに女やりてぇって思っちまうんだよ。なのに手術費はバカみたいに高い。要で200万くらいか?」
未だ、トランスジェンダーに対する、性適合手術のガイドラインはどこかねじれたままです。一年以上のホルモン治療が必要で、それは自費負担になります。
性適合手術の保険適応は認められますが、ホルモン治療は認められません。よって混合治療は不可能となり、手術の負担は全額自費となるのです。
「ナツさんは……」
そして、女性だった人が男性となる際の手術はさらに費用が高い。
「ま、俺はいいさ。男っていうのは俺にとってはボーナス満載でな。年食ったらいぶし銀だぜ?」
彼女のように思える人ならいいでしょう。ですが、その手術費は本当に高いのです。乳房摘出手術に加え、子宮摘出、擬似的なものも作らなくてはいけません。
「これだけは本当に、差別だと思ったわよ。なっちゃんから聞いたときね……」
一応いくつかの医院で、ホルモン治療の保険適応は認められています。でも、本当に少ないのです。関東圏ですら性適合手術の保険適応までこぎつけるのは困難です。
ホルモン治療を保険適応で行ってくれる病院は、東京にしかないと聞きます。それも、東京内でしか乗り継げない駅にある病院です……。
せめて、直通の電車があるだけでも話はだいぶ違うでしょう……。
「私なんて……」
それを聞いてすずめさんは、自分が不幸であると語ったことを公開したのかもしれません。
「すずめさん、いかにつらい人がいようと、それはあなた自身の辛さを否定する理由にはなりません」
そう思ったから俺は、少しだけおせっかいを焼く。
「そうよ。みんな辛い。でも辛さは一人一人違う。言ってくれなきゃ、何も前に進まないわ!」
全くもみじさんの言うとおりだと思います。
辛いって言うばかりじゃ反発もあるかもしれないですが、辛い人にはそれ以外を言う余裕がないこともあるのです。手首に刃を、首に縄を、当てた人のみ余裕ないとおっしゃいなさいと思います。ただ、そんな人にも余裕あるときはあるものなのです。
「ちなみに悩んで苦しんでいるからといって、格好をつけちゃいけないわけでもありませんからね!」
だから余裕のある瞬間は格好をつけてもいいと思います。人間の感情は最長五日、短いものであれば30分で消え失せます。
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