第28話・彼の2500年前より

 朝、俺は思わず面食らってしまいました。


「えっと……、ボクには分かりません。でも、反出生主義は悲しいです」


 慌てたように答える要さん。


「だよねぇ。でもさ、実際死んだら何もかも消えちゃうとしてさ、生まれてくるべきじゃなかったのかなって思っちゃうじゃん? でも、本能なのかな? 否定したいんだぁ……」


 少し物憂げにいうすずめさん。

 おふたりは一体なんという会話をしているのでしょう。とても哲学的というかなんというか……。

 でも、昨日とは少し会話の内容が違うのも気になります。それに……。


「おはようございます。すずめさん、なんだか太宰治のようなことを言っていますね」


 そう、彼も反出生主義を否定したいというようなことを、自身の著書の中に書き残しています。俺は、人間とは、生まれてよかったと、その結論にたどり着きたいように設計されているのだと思います。


「おはよアキラ! もしかして、アキラだったら答え知ってる?」


 すずめさんはまた昨日とは打って変わって元気のいい。このようにコロコロと態度が変わるのは、まるで小舟のようです。

 彼女の感情の船は、ようやくと人生の川を下り始めたところなのでしょう。


「答えは出ない問いです。ですが、私の願望を乗せた答えを聞いてください」


 そう、これは哲学なのです。人はなぜ生きるのか、そのような答えの出ない問題に対して考えるのが哲学です。

 答えがでないからといって、それは無意ではありません。そのような問いは、今や倫理学や心理学に大きな影響を与えているのです。アドラー心理学ですら、個人哲学とも呼ばれるほどなのです。


「仏教にはこれに対する明確な答えがあります。人間生まれ難し、今己に聞く。仏法聞き難し、今己に聞く。これは、こんなにも奇跡的に人として生まれたことをどうして喜ばないでいられるのか。そして、このような哲学的な問いに出会うことが希で、求めようとしなければ手に入らない仏教の言葉と出会うのは、また奇跡です。この言葉を聞くとき、私たちは二つの奇跡にであっています。このように私たちは、求める限り無限に成長しています。そこでそれを、近年の哲学者の提唱したシミュレーション仮説と照らし合わせてみます。では、このシミュレーションに参加した理由は何か? 俺は、成長のためであると感じます。人間は、生まれ、考えて、成長して、得た知見をシミュレーションする側に還元するために生まれたエージェントなのかもしれません。もちろん、科学的確証はありませんよ? ただ、勇気になれば幸いです」


 哲学に対しての独自の答えを説明するとき、その話は少し長くなります。なにせ明確な肯定も否定も存在しないのです。

 最も重要なのは、その答えに救われるかどうかでしょう。救いになる言葉は、心の中に留める価値があります。そんな価値のある言葉を生み出すための学問が哲学なのかもしれません。


「じゃあさ、その……自殺したらどうなるの?」


 すずめさんは訪ねました。これに対してもまた、自分なりの答えを返しましょう。


「報酬が減ると思います。もしも、この世界がシミュレーションなのであれば」


 ただ、キリスト教などが言うほど恐ろしいことにはならないと思います。このシミュレーションを作成するほどの文明であれば、きっと哲学の水準だって高いでしょう。どのように生きて、どのように苦しんだか。シミュレーションを中断してしまった責はあるとして、その苦しみを正しく情状酌量してくれると思います。


「なんか面白い!」


 すずめさんは俺のくだらない話を、そのように評価してくれました。


「でも、自殺なんてせずに済むようにお側におりますよ?」


 結局それが一番だと思うのです。


「ママだ……」


 要さんがポツリと呟きました。それは、茜先生によって不運にも広められてしまった俺の異名。


「私のママなの!」


 そう言ってすずめさんは俺に抱きつくのですが、本当にもう全くです……。


「男子高校生を捕まえて何をいうのですか? 私は将来立派なパパになるつもりですよ!」


 そう、まったくもって遺憾なのです。ですが、俺自身もトランスジェンダーというものをよくわかっていませんでした。その宣言は、要さんに悲しい顔をさせてしまったのです。


「アキラみたいに、包み込むような優しさをもって接する人を、人はママと呼ぶのです! アキラみたいなこと言ってみた!」


 ただ、不思議なことも起こるもので、その悲しい顔に晴れ間を与えたのはすずめさんの言葉でした。

 性別と、ママという称号を切り離したのです。


「すずめちゃん……」


 そんなすずめさんに要さんは少し救われたようでした。

 本当に、わからないものです。深く悩んでいる、感情の深海の中でも人は光を見つけるかのようです。


 だからこそ、デトリタスに浮かぶ光の線をたどるように、人は再起できるのでしょう。長期的に見れば、人の感情など移ろいゆくのです。光に包まれた海面付近では、見える景色は深海と全く違うのですから。

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