第22話・鳥かごを開けて

 俺の少し後、ちょうど六個後が、すずめさんです。

 席順はまだ出席番号順で、クラスは36人。すずめさんとはちょうど隣になるのです。


「じゃあ、次! すずめちゃん!」


 希望呼称、あるいは本名で呼ばれることを肯定していると知っているなら、茜先生は出席番号で呼んだりしません。アイデンティティを大切にするためだと推測しています。


「はい! え、えっと……いいの?」


 すずめさんは戸惑っていました。彼女がすずめを名乗る理由が今わかったのです。


「いいもなにも、本名で呼ばれたくないって子のための制度だよ? 呼ばれたくないよね?」


 茜先生はすずめさんに優しい声で語りかけます。

 すずめさんはどうやら雷人さんの一件で、少し過剰萎縮を起こしてしまったようです。自己評価が低ければ低いほど起こりやすいのです。だって、自分の動機に自信が持てませんから。

 高すぎても低すぎてもいけない。ただ、自分を信じていないと調整すらままならないのだと俺は思っています。なぜなら自己評価に対して投げかける修正案も信用できないからです。


「だって……適当に考えた……」


 とにかく自分の名前が、ルーツが愛せなかったのでしょう。だからといって俺たちはまだ高校生です。豊かな人生経験に支えられた、名付けの力があるわけでもなく、ましてやその感情すら正確に言語化できていないことだってあります。


「いいじゃん! 今はすずめちゃんで、本当に名前を変えるときは一緒に考えましょう! それより、適当って言うけど私は素敵だと思うな! なんですずめちゃんなの?」


 茜先生は感情を素直に口にします。とはいえ、否定的な感情は多くの場合内に秘められているでしょう。そして、肯定的な自分のありのままの感情を賞賛として相手にぶつけるのです。


「雀が……飛んでたから……」 


 それは、すずめさんの言語化出来た範囲でしょう。でも、絶対にそれだけではないのです。空を飛ぶ雀を見て、何かしらの感動を抱いたでしょう。そして、それはきっとあこがれのようなものでしょう。でもなければ、自分がそう呼ばれたいと思うとは考えにくいです。

 飛んでいた、きっとすずめさんは空を飛ぶ鳥が持つシンボルに憧れたのではないかと思います。鳩が飛べば平和、そして雀という鳥は小鳥です。だからきっと、それは自由なのかと考えます。


「うん! すっごい素敵! そのまま名前にしちゃってもいいと思うくらいにね! でもね、違う名前にするにしても、今はすずめちゃんでいいんです!」


 茜先生は堂々と宣言する。

 茜先生にとって雷人くんからの流れは、理想的だったかもしれない。


「いい……の?」


 声が揺らいでいるからと驚いてすずめさんを見てみると泣いていました。

 地獄が日常の人にとって緊張は日常なのです。その糸が緩む時こそ涙が流れるものなのです。心も凍てつく氷獄で涙を流しても、それが冷えて顔にへばりつくだけですから。


「もちろん! 一緒に考えましょう!」


 敬語とタメ口が混じった茜先生の口調は、協調と敬意を同時に表す。だからこそ、親しみやすいように感じてしまいます。

 いつだって涙を流すのは、その間にいる人です。本当につらい人は、涙を忘れてしまいます。


「皆さん! 希望名称は気軽に提案してください。私たち教員は、それを却下することもあるでしょう。でも、馬鹿にすることは決してありません。雷人君が言った思春期特有の希望名称は、私にとっては可愛いものでした。私が考える高校一年生の男の子像に沿っていて、解釈一致でした! 今はあだ名としてのそれも構いません。あだ名は学生的でそれもまた、解釈一致です!」


 茜先生はまるで演説のようにそれを宣言する。

 本当にいいことを言っているとは思うのです。でも、ところどころでヲタクが滲み出しているせいで台無しです。でも、それもまた、自由を強調するようでいいのかもしれません。


「はい! 次!」


 希望呼称の確認は次々と進んでいきます。各々が呼ばれたい名前を口にし、それは本名であったり、あるいはそうじゃなかったり。

 自分の名前が嫌いな人はこのクラスで七人もいました。それだけ、自分の過去を肯定できないと自分の名前を好きにはなれないということでしょう。

 そんなホームルームが終わり、茜先生は言います。


「自分の名前が嫌いなのは悪いことです。でも、それはあなたが悪いのではないんです。好きになってもらえるほどの由来を込められなかった、あるいは好きになってくれるように育てられなかった。そんなご両親が悪いんです。だから、あなたたちに責任はない。だから、名前を変えることができるんです」


 それは、数年前に内閣によって決定された法解釈です。毒親問題に取り組もうと政治家たちが動き出す最初の一歩でした。

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