第6話 銭湯帰りの黒いモヤ
最近、お狐さまは姿を見せない。毎月2回きちんとお参りをしているので、特に不満がないからだと僕はいいほうに解釈していた。
大学では明日からの大学祭に向けて、構内のあちこちで準備が進んでいた。グラウンドには仮設のステージが組まれ、立て看板やら模擬店やらを組み立てる学生の姿が目立つ。
「失恋の傷は少しは癒えたかな?」
熊谷はベニヤ板に釘を打ちながら言った。今日から講義は休みで、今、僕と熊谷は駐輪場の空きスペースで、クラスで出すおでんの模擬店の屋台をつくっている。
僕は熊谷の言葉には答えず無言でペンキを塗り続けた。
「お疲れ様。これ差し入れ」
クラス委員長の
「調理班におでん種を買いにいってもらったんだけど、量が多くて大変なの。ストック用のおでん種、森野君のところの冷蔵庫に置かせてもらってもいい?」
僕のアパートは大学に近いので、こういうときにいろいろ使われる。
「いいよ。今日持って帰るから」
「ありがとう、クーラーバッグに入れておくから」と紅林さんは忙し気に戻っていった。
「ほら、紅林さん、結構お前のタイプじゃね? 失恋の傷には新しい恋がいちばん効くんだよ」
「僕のことはいいから。お前こそお狐さまみたいな美女なんて、そうそう現実にはいないよ」
熊谷は女友達も多くて、その気になれば彼女の一人や二人はすぐにつくれそうなのに、妥協はしない主義らしい。
「言っただろ、俺は年上美人に覚醒したの。もう1回お狐さまに会いたいなあ」
「最近は出てこないよ。お狐さまも忙しいんじゃない?」
秋は日が暮れるのが早い。暗くなってきたので、僕たちはクラスの男子に手伝ってもらって屋台を建物の中に運び込んだ。調理台と看板の骨組みはでき上がったので、看板を塗り上げてしまったら、明日、上下のパーツを組み立てるだけだ。
看板も今日中に仕上げてしまおうということになって、僕と熊谷は残って作業を続けた。調理班のメンバーはこれから各自の家でおでんを仕込むというので、早めに帰るという。
夜の10時をまわったころどうにか看板は完成したので、道具類を片付け、僕と熊谷は帰ることにした。熊谷は明日の準備に供えて僕のアパートに泊まることになっている。どうもこいつは、僕の部屋に泊まればお狐さまに会えるかもしれないと期待している節がある。
僕のアパートにもユニットバスはあるけれど狭いので、どちらからともなく銭湯に寄っていこうという話になった。汗やペンキの汚れを洗い流し、広い湯舟に浸かるとすっかり生き返った気分だ。
銭湯を出るころにはそろそろ日付も変わろうかという時間で、途中の自販機で飲み物を買ったりしながら、僕たちはぶらぶら歩いていた。が、アパートに近づくにつれ、僕は違和感を覚え始める。何か変だ。
夜中の12時近くとはいえ、学生の多いこの街では人通りが途絶えるということは滅多にない。なのに、今はそこら一帯、人っ子ひとりいない。アパートに続く路地の角で、僕は足を止めた。
アパートの向かいの民家の塀に、何か真っ黒なかたまりがいる。かたまりの周辺はもやもやしていて、はっきりと輪郭はつかめない。
「あれ、見てみろ」小声で僕は熊谷に言った。
塀のすぐ脇に街灯が立っているのだが、なぜか黒いかたまりは光に照らされない。まるでブラックホールのように光を吸収してしまっている。
「何だ、あれ」熊谷は普通の声の大きさで答え、それを聞きつけた黒いかたまりが反応したような気がした。
黒いかたまりは、塀の上をすべるようにこっちに近づいてくる。まずい。理由は分からないけれども、とにかく逃げないといけない気がする。
「熊谷、走れ」
僕はきびすを返して大通りに向かって走り始めた。
「え? 何だよ」
熊谷も慌てて後をついてくる。
大通りに出ると、客を降ろしたばかりなのか、扉を開いたままのタクシーが目に入ったので、僕はとっさに飛び込んだ。後から転がり込むように熊谷が乗り込んでくる。
「とにかく出してください」
うわずった声で言って運転手を見ると、なんとお狐さまだった。
「あ、お狐さま」僕と熊谷の声が重なる。
お狐さまは、思い切りアクセルを踏み込み、タクシーはタイヤをきしませて急発進した。僕は思わず天井のバーをつかむ。
青信号なのをいいことに、タクシーは交差点を猛スピードで突っ切る。
「あの、スピード出し過ぎじゃないですか」
お狐さまは無言で、スピードを緩める気配はない。
たくみなハンドルさばきで車の波をどんどんすり抜けていく。遠くから、パトカーのサイレンが近づいてくる。言わんこっちゃない……。
お狐さまは構わずスピードを上げ、僕と熊谷は後部座席で身をすくませていた。そのとき、左側の側道から進入してきた大型トレーラーが視界に入り、僕は思わず叫んだ。
「あぶない、ぶつかる」
スローモーションのように情景がコマ送りになり、巨大なトレーラーのタイヤが目の前に迫ってくる。ここで死ぬのかな、と覚悟をして目をつぶった。が、1秒経ち、2秒経ち……。何も起こらない。
恐る恐る目を開けると、そこはタクシーの車内ではなく、僕と熊谷は枯れたススキ野原に立っていた。
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