第5話 お狐さまとの「ご縁」
お盆期間の1週間、僕はバイト先に休みをもらって、帰省した。
8月15日のお狐さまへのお参りは熊谷に代行を頼んだわけだが、熊谷からは「お狐さまは来てくれなかった」とメッセージがきた。
「自分の前にも姿を見せてください」とお願いしたが、お狐さまは現れなかったという。僕は「動機が不純だからだ」と返しておいた。
お盆は親戚がおばあちゃんの家に集まり、墓参りに行くのが恒例行事だ。夕方からはみんなで宴会になる。
おばあちゃんは、昔から世間話をするように不思議な体験を話す人で、今日も「あそこに山が見えるだろう。昔はあの峰に沿って、狐火が出たんだよ」などと言っている。
到底人が歩けるはずもないところに、夜になるとかがり火のようなものが一列になって行列していたのをよく見たのだという。従兄弟たちは「へー」と聞き流しているが、僕はおばちゃんの言うことを信じる。なにしろ、お狐さまを目の当たりにしたのだから。世の中には、常識では説明のつかないこともあるのだ。
やがて夏休みが終わり、帰省していた学生が続々と戻ってきて、美緒ちゃんもバイト先に顔を出した。久しぶりに見る美緒ちゃんは何だかぐっと大人っぽくなっていた。僕は妙な胸騒ぎを覚えながら、美緒ちゃんに声をかけた。
「夏休み、どうだった」
「楽しかったよ。高校のときの同級生と会ったりして」
後日、僕は桜沢さんから、美緒ちゃんが高校の同級生と付き合い始めたと聞いた。キューッと胃のあたりを締め付けられるような後悔の感覚。熊谷の言うとおり、煮え切らないでぐずぐずしていたために、戦わずして玉砕してしまった。
「だから言ったろ。とろいんだよ、お前は」
学食で大盛りカレーを食べながら、熊谷は言った。傷口にグサグサと熊谷の言葉が突き刺さる。僕は目の前のざるそばに目を落とした。
食欲がないのでざるそばにしたのだが、そのざるそばさえ食べる気がしない。
「食わないんだったら、食ってやるぞ」
僕は黙ってざるそばを熊谷のほうに押しやった。
心はズタズタだったのだが、僕は表面はいつもどおりバイトに通っていた。さすがに美緒ちゃんの顔を見るのがつらいので、なるべく美緒ちゃんとシフトが重ならないように、店長には適当な理由をつけてシフトをずらしてもらったりした。
傷心を抱えたまま10月に入ったある日、僕は大学の廊下ですれ違った脇坂という教授に呼び止められた。脇坂教授は民俗学が専門で、僕も彼の講義を取っている。
「君、森野くんだったよね」
「はい」
「最近、どこかお稲荷さんにお参りしたかい?」
いきなりの質問に面食らったが、僕は大学裏手のお狐さまにお供えをしている、と簡単に答えた。お供えをするようになったいきさつは話さなかった。とても信じてもらえないだろうから。
「なるほど」と脇坂教授は納得したようにうなずいた。
「どうしてそんなことを聞くんですか」
「今、少し時間があるかな」
研究室に来るように言われ、僕は何だろうと思いながら教授の後に従った。
脇坂教授の研究室は、ほかの教授の部屋と同様、壁一面の書棚はもちろん、至るところに本と資料が積み上げられて雑然としているが、ひとつ他の研究室と違うのは、教授の机の後ろの壁に神棚があることだった。神棚の両脇には青々とした榊が生けられている。
「変なことを言うようだけれど、最近、講義をしていると、たまに君の頭の上に狐の姿が見えるんだよ」
教授はいわゆる「
ふんふんと頷きながら話を聞き終えた教授は、
「君はお狐さまに気に入られたんだね」と言った。
「そうでしょうか」
「多分、君は自分でも知らないうちに、お狐さまとのご縁を結んでいたと思うよ。ここのお狐さまというわけでなく、お稲荷さま全般の話としてね。どこかのお寺か神社を参拝したときに、ご縁ができたんだね。それで、ここのお狐さまも声をかけやすかったんだろう」
僕は子供の頃、おばあちゃんに連れられて、あちこちの寺や神社をお参りしていたことを思い出した。そのときに拝んだどこかのお稲荷さんとご縁ができたのだろうか。
「自分ではまったく分かりません」
「それでいいんだよ。お狐さまへのお参りは続けるといい」
研究室を出て歩き出した僕は、お狐さまが僕の前に現れた理由が分かったような気がして、少し気が楽になった。ずっと「なぜ、僕なのだろう」という疑問が引っ掛かっていた。熊谷の前にお狐さまが現れなかったのは、動機が不純だからというだけでなく、教授の言う「ご縁」がないからだろう。
4階の廊下の窓から裏門のあたりを見ると、穏やかな秋の日差しを浴びて、お狐さまの小さな赤い鳥居が見える。僕はなんとなく温かい気持ちになって研究室棟を後にした。
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