Act.3 追憶の皇子・1
食事を終えた口直しに、バローロファレット・レーベルのグラスを掴み上げた時だった。
ネルガレーテのアッパートルソ右
「ネルガレーテ、そっちの方はどう?」
気怠そうに
「ちょっと足止めを食ってるの」
面白くもなさそうに、ネルガレーテがワイングラスを振って答えた。
「何かトラブル?」
「あ、そうじゃないの。国皇への報告に関しては無事終了」
ネルガレーテは取り繕うように言った。実際はこれから嵐が吹き荒れようとしている。
「なら何よ? この後の操船
んー、と唸ってから一瞬間を置いて、ネルガレーテが言った。
「今は込み入ってて、この通話では話せないの。アディもジィクも一緒よね?」
ローズブァドから1000キロ、時差がプラス1時間、窓から眺めるサンジェルスは、徐々に日が傾き始めていた。
「勿論よ。それよりネルガレーテの方は大丈夫なの?
「ん・・・悪いけど私抜きで進めて頂戴。問題ないでしょ?」
「ネルガレーテ・・・!」どことなく気が抜けたネルガレーテの返事に、案の定ユーマが怪しんだ。「あなたまさか、そっちの宮殿で飲めや歌えの大宴会を、独り占めしようって腹じゃないわよね?」
このユーマの突っ込みは、それとなく様子を窺うためのものだと、ネルガレーテは気が付いた。
「いくら
「自分で言う?
だからネルガレーテも素直に返し、ユーマもそれに素直に応じた。
「悪いわね、ユーマ。後でちゃんと説明するから」
いつものように、軽口を叩く気力が出ない。いずれ再びフロースガール皇からお呼びが掛かり、あの問い詰めに正面から応じなければならないと考えると、どうしても気は重い。
「良いわよ、ネルガレーテがそう言うなら。気にしないで」
ユーマの声音が、唐突に優しくなった。
やはりユーマだ。言葉のニュアンスと声のトーンから、ネルガレーテが厄介事を抱え込んでいることを、ちゃんと察知している。
「──あたしたちの助けが要る?」
「うーん・・・今はまだ、そこまで深刻じゃないわ、ありがとう」
この分別ある
「それとジィク、聞いているなら、くれぐれも羽目を外しちゃダメよ」
だからこそ此処で、いつもと変わらず、何とか突っ込みの一言をネルガレーテは返せるのだ。通信機の向こうでは、ユーマとジィクの目が合って、ジィクが口をヘの字に曲げて肩を
「──それよりネルガレーテ」少し気を取り戻したユーマが、改まった調子で言った。「念のために聞くけど、そっちで会った? メルツェーデス皇女殿下と」
意外な質問に、ネルガレーテは虚を突かれた。
「──メルツェーデス殿下って・・・?」
一瞬間が空いて、ネルガレーテが聞き返した。
「その口調じゃ、やっぱり会っていないようね」嘆息にも似たユーマの声だった。「実はね、こっちでもちょっと込み入った事態が発生しちゃってね・・・」
その思わせ振りなユーマの言葉に、ネルガレーテは思わず
ユーマは、川で花嫁衣裳を纏った娘を助け出した件から、説明し始めた。
「──それで、その
「リサ・・・?」
少し勿体付けたユーマの言い草に、ネルガレーテが
「聞き覚え、ない?」
ユーマが探り当てるような口調で言った刹那。
「あ・・・!」ネルガレーテの脳裏に記憶が蘇る。「ひょっとして・・・!」
「そう。あたしたちが関わった、ツィゴイネルワイゼンの事故」
「あの時の女の子?」
ネルガレーテが、埋もれていた2年前の苦い記憶を掘り起こす。
“確か、私とイェレで救けた、良い年ごろの若い
「なんだけどね・・・」ユーマが束の間言い淀んで、それから語気を強めて言った。「リサ、イェレの娘だって、知ってた・・・?」
「えッ? 何それ! リサって
ネルガレーテは一瞬、頭が真っ白になりかけた。
「間違いないわ。父親はイェレ・ドゥシーボ・ヴァンキッシュ、あたしたちグリフィンウッドマックの先代
ユーマの声は腹が立つほど、ひどく落ち着いていた。
「何かの間違いじゃないの? リサって
ネルガレーテが珍しく取り乱していた。
「その時に、あたしとアディ、ジィクが救けた、リサと同い年位のもう1人の女の子、覚えてる?」
「──綺麗な
少しばかり早口に言ったネルガレーテは、明らかに泡を食って浮き足立っている。
「そう。その彼女こそ、この国の皇女メルツェーデスだったの」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと待ってよ」狼狽がそのまま態度に表れた。「何よそれ! 何で今更になって、昔のことがほじくり出てくるのよ!」
「それに覚えていたわ、彼女、リサは」妙に落ち着き払ったユーマが、追い討ちを掛けるように言葉を継ぐ。「イェレが最期に言い残した、リサを頼む、って一言」
「そんな・・・」驚くネルガレーテは、声を裏返らせた。「じゃあ、あの時、最期にイェレが救けたのって・・・!」
「そうなの。自分の娘だったの」
「なんて事・・・」
文字通り、ネルガレーテは言葉を失ってしまった。
「彼女、イェレに名前を聞かれて答えていたのよ、リサ・テスタロッサだって」ユーマは哀れむような口調だった。「──イェレ、判ったんじゃないかしら、自分が救けた目の前の娘が、自分の娘リサだって事」
「・・・・・・」
「ネルガレーテでも、知らなかったのね・・・」
「そんな話はまったく・・・」すっかり動転しているネルガレーテが、絞り出すように声を上げた。「先々代のエランなら知っていたかもしれないけど・・・まさか、イェレの娘が・・・」
束の間、2人の
「──それで、そのリサは、イェレの最期のことを・・・?」
ネルガレーテが訊き辛そうに言った。
「もう傍で見ていて堪えられないほど取り乱しちゃって・・・」
やはりこの
“これも見越しての、ノルン人からの名指しだったとしたら・・・”
「空港で名前を聞いたとき、なんか予感がしたのよね・・・」
ユーマの痛惜の言葉が、ネルガレーテの脳裏を上滑りして行く。
「リサと言う名前でもう少し気を回していれば、あんな唐突で残酷で悲しい思いをさせずに済んだかもしれないのに、なんて間抜けなのかしら、あたしたち・・・」
「仕方がないわ、あの時リサは
ネルガレーテは、今はそう言うしかなかった。他に言葉が浮かばない。
「皇女付きの侍従女御官してるくらいだから、相当な才媛の筈だけど、それでも彼女の、リサの心中を察するにあまりあるわ」
「それでリサは?」
「今はアディが傍に付いているけどね」
「アディが?」
含み笑いするユーマに、ネルガレーテは不安げに問い直した。
「ああ、大丈夫でしょ」
そう言ってから少し間が空いたのは、多分ユーマが横目でジィクを見たからだ。
「誰かさんと違って、すぐスキンシップで慰めようなんて考えないでしょうし」
ジィクの事だ、きっと
「──まあ、あのツィゴイネルワイゼンで最初に聞いた救助の声がアディだし、今日も川で溺れかけたところを救けたのもアディだったから、リサもアディには結構気を許してる風だし、案外アディの朴念仁っぷりが良いかもよ」
「そうね、そうかもね。私も会わないといけないわね、リサに・・・」咄嗟に口を
“あのイェレの一人娘、リサ・・・。そのリサとアディは以前に出会っていて、また今日と言う日に、出会った・・・”
憂患の予感にネルガレーテの頭の中は、追憶の過去がぐるぐると渦を巻き始めていた。
「巡り合わせ、ね・・・」
ユーマはユーマで、ネルガレーテのその口調に、何か別の含みがあるように感じていた。
「単なる独り言、気にしないで」
これ以上聞き咎められたくなかったネルガレーテが、慌てて誤魔化した。
「だったら良いけど」そんなネルガレーテの思惑を感じ取ったユーマだったが、まあ良いわ、という不承な口調で言い改まった。「──さっきメルツェーデス皇女の事、尋ねたでしょ?」
「ああ、こっちで会ったかって、訊いていたわよね? それが?」
「ツィゴイネルワイゼンの救助の時、あたしとアディ、ジィクが救けたリサとは別の女の子、覚えてる?」
「綺麗な
「そう。その彼女、実はこの国の皇女メルツェーデスだったの」
「──彼女が・・・!」ネルガレーテは驚きを通り越して、呆れてさえいた。「あのツィゴイネルワイゼンには、リサと皇女が2人して乗っていたって事?」
「まあ、そうね」ユーマが一段と落ち着き払って言った。「んで、リサがね、何で川で溺れる羽目に会ったかっていうとね──」
とユーマは前置きして、皇女メルツェーデスに纏わり付く護衛を煙に巻くために身代わり役をやった事、ところがその皇女を護衛していた衙衛官が怪我をして戻って来た、その彼が話すにはサンジェルスに行こうとしていた皇女が、
「んじゃあ、その皇女って攫われたの? 結局は?」ネルガレーテは思わず頭を抱えた。「それに獣人って・・・アルケラオスって怪物ランドでもあるの?」
“なんて因縁めいた成り行きなのよ・・・!”
メルツェーデス皇女、と言うなら、それはフロースガール皇から問われた、
こっちはこっちで、目に見えない何かの力が、ネルガレーテを強烈に巻き込んでいるようだった。しかもその渦は、もがいてももがいても抜け出せそうにはない。
「けどね、ネルガレーテ」さらに改まった風のユーマは、声の調子を一層下げた。「そのメルツェーデス皇女、あたしたちグリフィンウッドマックに会いに行こうとしていたのよ」
「え・・・ッ?」
ネルガレーテはそう言った切り絶句した。
「皇女が何故、あたしたちに会いたがったのか、解る?」
「・・・・・・」
何となく解った──ネルガレーテは、危うくそう言い掛けた。
「メルツェーデスには、兄がいるの、実は」ユーマが一呼吸置く。「シン、と言う名の皇子」
“やはり・・・!”
ユーマの言葉に、ネルガレーテの体に雷が
“一体、何に追い詰められているって言うの、私は──”
それを
「ただ、この兄皇子、16年前に父皇と共に不慮の死を遂げたとされてるんだけど、どうも真相が曖昧なのよ」ユーマは明らかに探り口調だった。「メルツェーデス皇女はどうしても、その真相を知りたがっていたの」
「・・・・・・」
「16年前の出来事の時、シン皇子とその父、当時の今上国皇だったエッジセーク皇と、最後まで一緒だったのが、グリフィンウッドマックって本当?」ユーマがいきなり、ずばりと核心を突く。「メルツェーデスは、そうだと確信をもっているみたいだけど?」
「──ユーマ・・・!」
思わずネルガレーテが取り乱した。
「いえ、メルツェーデスがあたしたちに聞きたかったのは、真相じゃなくて、その
「・・・・・・」
「アディ曰く、16年前の事ならイェレと、あなたの祖父エラン・グリフィンウッドマックの時代だって言うんだけど、ネルガレーテ、あなた、何か知ってる?」
「ユーマ・・・」
さらりと言ってのけたユーマに、ネルガレーテの全身から力が脱けた。
「──やっぱり」ユーマはどことなく同情的だった。「その口調、何か知ってるわね? ネルガレーテ」
何も返してこないネルガレーテに、ユーマが嘆息すると再び語り掛けた。
「イェレがリサの父親であるなら、16年前の当時ならイェレは
ヒリつくような束の間の沈黙があって、ネルガレーテが重そうに口を開いた。
「ユーマ・・・」ネルガレーテはの声は、疲れ切ったように濁っていた。「──ジィクのほかに、周りに誰かいる?」
「いいえ、あたしたちだけ」
「そう」短く一言答えると、ネルガレーテが意を決したように言った。「あなたが、あなたたちが探り当てた事柄は、間違ってはいないわ」
「・・・・・・」
ユーマが、同じくジィクが、黙ってじっと傍耳立てている気配をひしひしと感じた。
「けど今は話せないの、とても通信なんかでは」
いずれ、真相を明らかにしなければならないのは、必定だった。だが話すにしても、順序がある。今ここで、先にユーマたちに話してしまう訳にはいかない。
「──実はこっちでも波風が立ち始めてるんだけど、それも16年前のそのことに端を発しているのよ・・・」
そう告げるネルガレーテの声は、心底気怠そうだった。
「そのせいで足止めを食っているのね?」
「まあ、そういうところ、ね」ネルガレーテが大きく息を
「本当にそう思う?」
ユーマがさらりと聞いて来た。
「そう期待している、って言うのが本音」
ぽいっと放り出すような口調で言った矢先、ネルガレーテの背後でノックの音が響いた。
「──悪いわね。思った通り、再びお声が掛かったみたい。メルツェーデス皇女の事は、それとなく聞いてみるわ」
それだけ言うと、ネルガレーテはユーマとの通信を切った。
年季の入った2人の、小太刀を差した禁中宿侍が、慇懃無礼に顔を出す。
「陛下がネルガレーテさまに、お越しくださるように、とのことです」
「ドレスも何も持ってきていないんだけど? こんな格好で良いのかしら?」
禁中宿侍は答えない。ネルガレーテは小さく首を
2人の宿侍に挟まれるように案内された。
禁中宿侍は、陛下御在所である城内
そんな禁中の筈だが、ネルガレーテは道すがらに何度か、肩に黒いプロテクタの付いた制服の武官を見掛けた。
“ついさっきの雰囲気とは、がらりと変わっている”
軟禁されている間に、何かあったのか──ネルガレーテは気重ながらも用心し始めた。
小振りだが全面に緻密な彫刻を施したオークの扉を、宿侍が2度ノックして開く。
ネルガレーテの目の前に、華やかだが品のある空間が開けた。
白を基調にした清廉な設えで、優美なシャンデリアが下がっている。
奥の大きな窓に面した、ロココ調の応接セットの優雅な曲線を描く肘掛け椅子に、フロースガール皇はその身を深く預けている。
「参ったか、ネルガレーテ」
背を向けていた皇が、首を巡らせる。ちらりと見えた横顔は、なにやら沈欝な陰を帯びていた。
「お呼び立てのほど給わりました」
歩みを進めるネルガレーテに、脇の女性がゆっくりと面を上げて柔和に微笑む。皇の重苦しい雰囲気とは対照的だ。
「
「はい、皇陛下。胃袋がひっくり返りそうでした」
皇の脇で侍するネルガレーテに、フロースガールは苦笑いを見せた。
「どうした、早う座れ。婦人を立たせておくのは心苦しいのでな」
テーブルの上には、大皿に並べられたカナッペとワインクーラーに入ったボトル、皇と女性の前には淡い
どこからともなく側仕えが姿を見せ、ネルガレーテの前にグラスを置くと、透き通る宝石のようなワインを注ぐ。老皇に一礼するネルガレーテの右手が、すっとグラスのステムを掴む。軽く香りを嗅いでから、ネルガレーテはついっとグラスを傾けた。
「──シャルツホーフベルガー・レーベルのアウスレーゼとは、禍福の至り」
ネルガレーテは小さく長い息を吐き出すと、口角を上げて顔を綻ばせた。
「ほう、
老皇が小さく硬い笑みを見せた。
「女の嗜みですわ、良い
軽妙な言葉の遣り取りの筈なのに、どこか重苦しい雰囲気に包まれている。
「余は、今ほどエッジセークとシンに生きていて欲しいと願ったことはなかった」
何の前置きも、儀礼的な飾り言葉もなく、フロースガール皇が唐突に口火を切った。
「エッジセークは本当に
深い憂慮と尽きない悲しみを乗せ、老皇が我が子の閉ざされた行く末を、改めて問うた。
「御意」
望みを
★Act.3 追憶の皇子・1/次Act.3 追憶の皇子・2
written by サザン
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