第36話 ヨハンの弱み

 クローゼは間諜からの定期報告を待ちながら、練兵に勤しんでいた。

 いまだにブロンクト公国軍副将軍ヨハンの情報が思ったほど集まらない。

 酒場には出入りするが酒は飲まないだとか、愛妻家で毎月花を贈っているだとか。占い師としてのヨハンに関する情報がいっさい入らないのである。

 ミロス王国とは違うとはいえ、素性のわからない人間を公職に就ける理由が見いだせない。

 そもそも将軍フィリップはなぜヨハンを連れて戦場に出たのか。その理由すらわからなかった。


 外形から判断するに、昔からの馴染みで、頼まれたら断れない間柄だったと判断できる。フィリップの弱みを握っているからこそ、ヨハンは従軍できたのだし、戦果もあげられた。

 そう考えれば無理はなさそうだが、実際問題フィリップが弱みを握られてるのなら権力を使ってヨハンを排除すればよいのだ。

 排除しようとした形跡がないのだから、弱みを握られていると判断するのは短慮である。


 そもそもフィリップとヨハンの出会いとそこからの交流も奇妙ではないか。

 名家の出であるフィリップが孤児のヨハンと盟友となれたその理由。それさえも謎である。

 おそらくふたりしか知らない出来事がもとなのだろうが、それがなにかわからなければ離間を謀ることもできない。

 クローゼはもたらされる情報を精査しては、ため息をつかざるをえなかった。


 このヨハンという人物。知れば知るほど謎が多い。

 そもそも孤児出身でたいした職にも就いていないのに結婚をしている。

 相手がよほどの変わり者なのかしっかり者なのかは知らないが、貧窮した生活を切り盛りできるほどすぐれた女性であることは確かだろう。

 ゆえにヨハンは家庭を計算に入れずに立ち振る舞うことができた。

 ということは、妻であるクラレンスを誘拐もしくは殺害してしまえば、ヨハンを弱体化できるのだろうか。

 いや、家庭を顧みない性格であれば、たとえ妻が殺されても、憤ることはあっても落胆はしないのではないか。

 であれば王国側の策略と見抜いて、打倒ミロス王国を強硬に主張するかもしれない。正面から戦って勝てるのなら、あえてそのような策を用いてヨハンの錯乱を誘う必要はないのだ。

 であれば、この策を考え出したクローゼは心の中でヨハンに勝てないと思っているのだろうか。


 物思いに耽る夫を見ていた妻シルビアは洗濯物を畳んで次々とタンスへしまっていく。

「あなた、なにか不安なことがあるのかしら。いつもの自信に満ちたあなたらしくもないですわよ」

「そうだな。君は無職で取り柄もない、いや取り柄はあるか、そういう男と結婚したいと思うかい」


「ずいぶんと急なお話ですわね。ですが、相手を好きになれば男女を問わず多少の困難は受け入れるものじゃなくて」

「となればその線も調べてみればなにか得られるかもしれないな」

「あら、無職で妻を持つ人のことをお調べになっていらっしゃるのかしら」

「まあそんなところだな」


 とにかく用兵におけるヨハンの手腕につながる情報があまりにもなさすぎる。

 交友関係も行動範囲も極端に狭い。だから公国を探っても得られる情報は少ないのだ。

 二十人に及ぶ間諜が闇で動いている割には噂話程度しか集まらない。

 もし最初からヨハンがこのような状況を想定していて、計画的に動きを絞っていたのなら、空恐ろしいほどの構想力と言わざるをえない。


「これから夕食を作りますが、なにかご希望はございまして」

「そうだな。あまり食欲も湧かないから、温かなスープがいいな。少しは栄養もとれるだろうし」

「そうですわね。今日は子牛の肉が手に入りましたから、それを入れたスープにしておきましょう」


 クローゼの生返事を聞いても、シルビアは微塵も気にした様子も見せずに台所へ向かった。

 そもそもクローゼがどんな仕事をしているのか。将軍であることは知っていても、それが具体的にどんな仕事なのかは知らないだろう。

 クローゼとシルビアは互いに職分を侵さない。だから長続きしているのだ。


 もしクローゼが兵を率いて人を殺してきていると知ったら、シルビアはどう出てくるのかわからない。おそらくそれくらいの知識は持ち合わせているだろう。

 しかし、軍を率いるというのは、詰まるところ少ない犠牲で多くの敵を殺すことだ。どんなに綺麗事を並べてもその事実は変わらない。

 そんな自分が英明なシルビアの伴侶にふさわしいのだろうか。


 今でもそう思わないことはない。だが、自惚れであっても、自分はシルビアが最も愛する人だと認識している。

 戦争に出て、もし自分が生還できないとしたら、彼女はどのような行動をとるのだろうか。

 クローゼの家系が断絶されて、シルビアは奴隷階級を免れても他の高官へと嫁ぐかもしれない。クローゼが最も恐れる事態である。

 だから自分は手足を奪われても必ず生還しなければならないと強く願っている。その思いを相手に見抜かれればどうなるか。

 おそらく今クローゼがやっているように、敵将ヨハンはクローゼの身辺を探らせているだろう。そうすれば弱点がシルビアにあることは明白だ。


 であれば、ヨハンにとって揺るぎない弱点とは妻クラレンスということになる。戦う前に妻を誘拐されればヨハンも満足に戦えないだろう。

 しかし孤児の出であれば孤独には慣れているかもしれない。愛する者を奪われたとしても、自分の任務は果たすのではないか。

 それに、もしヨハンがこちらを探っているのなら、シルビアを誘拐や殺害することもできるではないか。


 やめよう。

 クローゼもヨハンも戦場の人である。戦場外で人質をとるのは道義にもとる。

 あちらからこの手を使われないよう、こちらもその手は捨てるべきだ。

 やるのならヨハン個人を狙うべきだろう。クローゼも自らが狙われる覚悟は持っている。



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