第20話 汚れ

 宣言通り、龍は一歩も部屋から出なかった。食事もろくに口にしなかったので、最初のうちは晴子を始め家の者達も心配したが、次第に気にかける者は少なくなっていった。


 悟が龍の分まで働くと告げてその通りにしたのと、龍の外見を皆が知っていたからだ。彼の見た目――特に目の色は、事情を知らない者に見られるには、色々と都合が悪かった。


「あいつの目を見たか?」

「本当に日本人なのか?」

「脚を見たか? 化け物だ」

「あんなやつでも、兵隊になれるのか?」

「青白くて不健康そうだ。検査にひっかかるだろう」

「そもそも信用ならない」

「あんなのを受け入れて、こっちまで変な目で見られたらどうするんだ」

「憲兵に目をつけられたりしないだろうな」


 龍は出歩いてなどいないはずなのに、時折村の人々がそんな風に噂するのを、月子は知っていた。


――龍のことは前から知っているくせに。どうしてあんな意地悪を言うの?


 ムカムカしたが言葉にはしない。ぐっとこらえた。父が村の衆に話を通してくれていることを知っていた。一方的な陰口は、彼らの不安な気持ちのガス抜きなのだ。



***



「ちょっとは食べなよ、龍」


 小さなサツマイモだ。差し出されたそれをチラリと見てから、龍は首を振った。


「月ちゃんが食べな。僕は大丈夫」

「でも」

「僕はね、普通の人より食べて無くても平気なんだ」

「龍」

「本当だよ。何日も飲み食いしなくても気にならない。お腹も空かないし、衰弱もしない」


 その言葉をただの虚言とできないことは、彼を見ればすぐに分かる。

 疎開してきてから一月以上経過しているのに、龍の外見は変わらない。肥えることはもちろんないが、痩せたようにも見えなかった。最後に食物を口に入れているのを月子が見たのは、二週間前だった。


「知ってるよね。僕は人間じゃない」

「半分は人間でしょう」

「半分人間じゃなかったら、もう人間じゃないよ。化け物って皆言うけど、その通りだと思う」

「私は龍のこと、化け物だなんて思ったこと一度もないよ」

「月ちゃんは特別」


 何もない板の間に横になっていた身体を起こし、龍は月子のすぐ隣に腰をおろした。


「月ちゃんは最初から、全く怖がっていなかった」


 先程月子が窓を開け放ったので、室内は明るかった。この部屋は庭に面しているので、雨戸を全開にしても表から室内は見えない。姿を誰かに見られる心配はないのに、龍は月子がこうして窓を開放しなければ、ずっと締め切ったままで過ごしている。


「こうして君と話ができて、姿を見れる。それだけで十分なんだ。ここに疎開できて、本当に良かった。食べ物なんていらない。死なないんだから」


 艷やかな龍の髪が頬に触れた。月子が顔を向けると、彼の美しい瞳も月子を映していた。


「龍は化け物じゃないよ」


 諦めきった彼の表情が悔しくて、月子は鼻の奥がツンとした。


「どんな酷いことを言われたの? 会えない間、巡業で違う土地にいる時、東京にいる間、どうしてたの?」


 龍のシャツのボタンに手を掛けて、鱗を晒した。月子の目に飛び込んできたのは、やはり美しい色彩ばかりだ。


「君にだけだ。こんな色を見せるのは」

「何があったの」

「悟さんが言ってた。『人から罵られることに慣れるのは、その分自分の心も汚れていくってことだ』って。そうなっちゃっただけだよ」


 ボロボロと涙がこぼれた。

月子はそれが自分の涙だということを、なかなか認識できないでいた。それほど月子にとって泣くという行為は、稀有なことだった。

 出征していった村人の戦死を知った時も、その家族が泣き崩れる姿を見た時も、よく一緒に遊んでいた集落の子供が病気で死んでしまった時も。月子は泣けなかった。悲しいのに、泣けなかった。


「自分でも、久々にこんな色した鱗を見たんだ。ここに戻って来てからだ。君がいたから」

「……龍の心が汚れているなら、私だって、きっと汚れてる」


 ああ、これは涙だと心の中で呟きながら、月子はそんな言葉を口に出していた。


「私は変な子だから、きっと龍が言われる以上に普通じゃないよ。何がおかしいのか、自分ではよく分からないけれど、私は皆と同じじゃない。普通じゃない。普通が分からない。皆と同じようにできない。どうしたら同じになれるのかさえ、分からない」


 涙でぼやけた視界の中に、万彩の虹が広がる。龍の鱗が光を反射させた輝きだった。


「君が普通じゃなくて良かった。月ちゃんが普通じゃなかったおかげで、僕は救われているんだ」


 龍の声は、心から嬉しそうだった。


「好きだよ」


 明瞭になった視界の先で、龍が笑っていた。それが諦めた微笑ではなく、多幸感に溢れた表情だったので、月子はたった今自分が考えていた事柄を、すっかり忘れてしまったのだった。


「好きだよ、月子。君が好きだ」


 晴朗で単純で、素直な音の集合。その言葉が生まれる唇の持ち主が、月子の心を慰める色彩が生まれる場所でもあった。


「龍。私も」


 自分の声が自分のものではないように聞こえた。

 私の声は、こんなに甘い響きをしていただろうか?


 月子が考えこむ隙はなかった。

再び唇を開いて、「好き」という音がその場の二人に聞こえるやいなや、二人が言葉を紡ぐ場所は、お互いのものですっかり塞がれてしまっていたのだから。

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