第15話 父
龍はほとんど学校に通ったことがないそうだ。
そんな話を聞いた時、月子はただ、
「そうなんだ」
と軽い相槌を打っただけだった。
「もっと驚くかと思ったのに」
笑う緋奈だったが、月子のそんな反応に好感を持ってしまう。この少女に出会ってから、彼女の不思議な魅力に、どんどん惹きつけられていくことを自覚していた。弟のことをからかってばかりいられない。
「龍は読み書きも出来るし、いろんなことを知ってるから。学校なんて行かなくても、困ってないんだろうなって分かるよ」
「学校に行くと、絶対いじめられたからね」
月子の隣に座ったまま、龍はさほど気にしていなさそうな声音で語った。
「母さんは気を揉んだけどね。家のこと手伝ってるほうが、伯母さんたちも機嫌良かったし」
伯母さんとは、彼の母の義姉である。病気がちで夫のいない龍の母を、子ども達共々家に住まわせてくれていたそうだが、親族として見放すわけにいかないという、最低限の義理と世間体を優先させてのことだ。緋奈と龍と血の繋がりのある伯父は既に他界していたこともあり、家の中に母子の味方はいなかった。
緋奈にも、まだ小さな子どもであった龍にも、問答無用できつい手伝いをさせたし、『不気味な姿を世間に晒すな』の言葉と共に、姉弟の行動範囲を厳しく制限していたのだ。
「……龍には辛い思いをさせてるわ。私が龍くらいの頃には、まだ父さんがいたもの。学校にも通ったし。そりゃ、からかわれることもあったけど。私は龍と違って、気性が荒いからね。やられたらやり返してた」
愉快そうに思い出を語る緋奈は、龍に読み書きを教えてあげたのは、自分だと付け足した。見世物小屋一座に引き取られてからは、悟や芸人たちが教師代わりなのだという。
「二人のお父さんって、どんな人だったの?」
月子は興味を持ったことに関して、躊躇わない。浮かんできた疑問を、ひたすら真っ直ぐに口にしていた。
「悟さんから、二人のお母さんは『それはそれは美しかった』って言ってたって聞いたよ。緋奈ちゃんは、お父さんのこと覚えてる?」
龍の視線も、いつの間にか姉に向いていた。
緋奈の灰青の瞳が、うっすらと細められた。無意識に斜め上へとその視線が上がったのは、過去を思い出している時の表情だ。
「確かに綺麗な人だった。でも、正直あまり覚えてないの。何故なのか分からないけど、思い出そうとするとぼんやりしちゃう……でもね、とても綺麗な手をしてるの。肌は小麦色に日焼けしてたけど、『本当は色白なのよ』って母さんが言ってた。漁師や百姓とも違う、力仕事なんてしたことないんじゃないかってくらい、磨かれた宝石みたいな手をしてたな……」
「肌の話は、僕も母さんから聞いたことがあるよ。普段は陽の光なんて届かない海の底にいるから、地上に出たらあっという間に日焼けしちゃうんだって」
龍が言葉を重ねた。
「父さんに抱っこされると、どんなに激しく泣いていても、赤ん坊の僕はすぐに泣き止んだんだらしいよ」
「そうそう。だから父さんがいなくなった後、母さんと二人であんたの夜泣きにはいっつも困らされてたわ」
緋奈と龍は笑いあった。
悲しい話をしている空気は、微塵も漂っていない。
「鱗は?」
月子は次の質問をした。
「お父さんにも、二人と同じような鱗が生えてたの?」
緋奈は首を傾げている。月子の言葉の直後に、一瞬だけはっとした表情を浮かべて、すぐに考え込むような顔になった。
「……やっぱりよく思い出せないけど、なかった気がする」
「なかった?」
「うん」
月子は龍を見たが、彼は一言、「僕は全然覚えてないや」と告げただけだった。
「父さんには、生えてなかったんじゃないかしら。それとも、上手く隠せていただけなのかな。瞳の色は私達と同じだったから、それで気味悪がられてたのはよく覚えてる。でも、鱗について言われてたのは、私と龍ばかりよ。父さんは……」
緋奈は唸って、やはり「だめだわ」と呟いた。
「思い出せない。たまに、誰も見てない時を狙って、父さんと二人で海で泳いだの。そういう時、私も父さんも服を脱いでたけど……その時だって……」
両目を瞑って、過去の映像を呼び戻す。緋奈の脳裏に浮かんだのは、深く潜る度に遠くなる地上の光と、鮮明になっていく海中の景色。そして、父の滑らかな肌だった。幼い緋奈を抱き寄せた裸体には、鱗など生えていなかったように思える。頬を寄せた父の肌は、柔らかくあたたかい、人の皮膚だったはずなのだ。
「不思議ね。どうして私と龍には、鱗があるのかしら」
「きっと僕たちが、半端者だからだよ」
きっぱり言い放った龍の顔は、清々しいものだった。
「人間でも海底人でもない。どちらでもない。どこにも行けない。その証なのさ」
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