第5話 強敵
デーツェと名乗った男は俺たちの前で不気味な笑みを浮かべている。そんな相手を前にして、デーツェが人間の身体を借りるのではなく、天使本体として活動していることが驚きだった。デーツェの佇まいはまさに強者のそれであり、直感で勝てないことを悟った。
「いきなり何の用だ?」
白峰はこんな相手を前にしても変わらない、ように見えたが、正確には鎧に包まれていて分からない。だが彼は明らかにデーツェに敵意を示しているのは声色から理解できた。
「実は私の生み出した鬼がどれほどのものか、観察に来ていたんですが……。」
デーツェが言葉を言い終えぬ内に白峰は刹那の間で奴との距離を詰めるために地面を蹴っていた。俺は突如巻き起こった突風のせいで身体がよろけそうになるのを必死に堪える。直後、白峰の渾身とも思えた拳がデーツェに繰り出される。直後、白峰の拳がデーツェに届いたと思われる衝撃が襲ってくる。それは轟音を響かせ、衝撃の大きさは彼が最初に地面を蹴った時よりも強いものと感じられた。だが、デーツェはその一撃を左手でいとも簡単に受け止めていた。
「何……!?」
「まだ私が喋っているでしょう? 人の話は最後まで聞くものですよ。」
あまりの出来事に、俺は初めて白峰の動揺するところを見た気がする。それに比べてデーツェはまるで生徒を諭す教師のように余裕の笑みを浮かべ続けている。俺は何も出来ぬまま二人の硬直状態というには圧倒的な力の差がある様子を固唾を飲んで見守ることしか出来ないでいた。そして数秒の間を置いて、デーツェは飽きたのか、白峰の拳を離した。彼はその瞬間に俺の元へと一度の跳躍で戻ってきた。
「今はあいつに絶対勝てないだろ。」
俺は珍しく感情的に見えた白峰を落ち着かせるように言葉をかけた。
「あぁ、悔しいが奴が本気でなくて助かった。」
白峰が冷や汗をかいているかのように見えた。それはデーツェが圧倒的実力差のある相手であることの証拠であり、初めて俺たちの命が他者の掌の上にあるのではと思わせられるような感覚になっていた。そんな絶望にも近い感情が湧き上がっていく中、デーツェは顔色一つ変えず、俺たちのことを脅威とは微塵も思っていない様子で話を続けている。
「それで、どうやら私の生み出した鬼は貴方がたさえ倒すことは出来なかったようですから、失敗作ですね。」
あの犬型の鬼が強さの意味で失敗作なのだとしたら奴の目標は今の俺からすればかなり高い場所にあることが想像できる。
「貴様の目的はなんだ。」
白峰は普段の声色で問うが、取り繕っていることが俺には分かった。いくら相手が強く、勝てない相手とはいえ、何もせずに引き下がれるほど彼のプライドは低いものでないらしい。
「そうですね。一言で言い表すならば、魄の解放、ですかね。」
あっさりとデーツェは自らの狙いを明かした。それは意外だったが、魄の解放というのが一体どういう事なのか俺には分からなかった。
「魄の解放……だと?」
俺の思ったことがそのまま言葉として口から出てきていたが、奴の狙いが決して俺にとって良いことではないだろうということだけは理解できた。それからもデーツェは意気揚々と話し出すのかと思っていたが、そうではなかった。
「今日はこれまで。それではお二人とも、またいずれ。」
奴は貴族のよう派手に頭を下げるような挨拶をしたかと思えば、奴は黒い靄に包まれ、その場から姿を消してしまった。具体的な狙いの内容までは聞けなかったが、奴との戦闘にならなかっただけ運が良かったのだと俺は思っていた。奴がいなくなったこの空間には懐かしさすら感じるほどに奴の存在感が大きかったのだと実感し、無事でいることが奇跡のようにすら思えた。何の言葉も発せずに立ち尽くしている俺に対し、最初に言葉をかけたのは白峰だった。
「玲司、悪いが次の会議には出席してもらうぞ。」
緊迫感のある彼の言葉に俺は従わざるをえない。実際デーツェと接触したのは俺と白峰が初めてだろうし、世間で言うところの重要参考人に値する。ならば出席するのは仕方のないことであり、それで俺たちの情報がデーツェという敵の打倒に近づけるのなら俺にとっては大きなメリットだ。
「あぁ、分かってる。」
俺は短く返事をしたが、俺たちの視線は先ほどまでデーツェがいた場所に釘付けになっていた。
その日の夜、俺は自室で課題に手をつけていた。あの後白峰とはそこで別れたが、それからというもの何をするにも上の空のようだった。
(ねぇ、玲司。一応言うけど私のことは……)
突然リアンが話しかけてきたので何事かと思ったが、彼女が気にしていることが俺にはすぐに分かった。
「あぁ、わかってる。お前のことは言わないんでおくんだろ?」
(うん、よろしく。)
リアンの姿を直接見られる訳ではないが、彼女が安心したのだろうということを俺は感じ取った。リアンは自分の存在を白導院側に知られたくないのだという。その理由が何なのかは分からないが、俺にはどうでもいいことだった。
デーツェとの邂逅から数日後の週末、俺は友達と遊んでくると親に伝えてから、白峰に指定された駅へと向かった。都会の喧騒からは少し離れた静かな住宅街、駅の周りには商店街や有名飲食チェーン店が並んでいた。改札を出たところで白峰と合流した。相変わらずあの白い仕事服を着ており、彼に私服があるのかいよいよ俺は怪しく思い始める。
「白峰っていつもその服着てるけど、私服とか無いのか?」
俺はついに我慢できなくなり素朴な疑問をぶつけた。聞くこと自体は以前からも出来たのだが、そもそも白導院とあまり関わりを持ちたくない俺にとってこのような日常会話をすることは好ましくなかった。しかし、今日は会議に行かざるをえない状況になってしまったため、そのついでに初めて彼の服事情について聞くことにする。
「持ってるぞ、ただ今日は任務だから仕ご……。」
「あぁ、分かった分かった。任務だから仕事服を着てるんだろ?」
俺はもはやお決まりとなった白峰の解答を予測して先に答えた。
「そうだ。カフェはここからすぐだ、行くぞ。」
俺は軽くため息を吐いた。白峰とは何回か喋ったことはあるが、ここまで同じことを言い、最低限の会話しかしない人間がいるだろうか。いや俺が服のことばかり聞いているのが悪いのだ、いい加減学習しなければ、と反省した俺は彼の隣を歩いている間に服以外の質問をしようと考える。
「そういえば、白峰の好きな食べ物ってあるのか?」
あまりにベタな質問が出てきてしまい自分で自分を殴りたくなる衝動に駆られる。おまけに脳内ではリアンがブハッと抑えきれずに笑い出す声が聞こえてきたことで尚更恥ずかしかった。
「好きな食べ物……カレーだ。」
ありきたりなような気もするが、無いなんて言われるよりはよっぽどマシなのかもしれない。俺は会話の糸口を見つけたことに内心ホッとしながら、その話題を広げることにした。
「どんなカレーが好きなんだ?」
「野菜カレーだ。」
一言で終わってしまうと俺から質問することばかりになり、はっきり言って疲れる。俺は久しぶりに自分のコミュニケーション能力の低さを恨んだ。しかし、ここで諦めるのは何か癪だったので俺は珍しく意地を張るように質問を続ける。
「お気に入りの具材とかあるのか?」
「人参、じゃがいも、玉ねぎ、茄子だな。」
「どんくらいの頻度で食べるんだ?」
「週に3回ほど。」
「行きつけのお店とかあるのか?」
「特に無い、自分で作るからな。」
「こだわりとかあるのか?」
「話すと長くなる……。」
白峰から返ってくるのは単純で感情を置いてきたかのようなものばかりだった。内容としては今までで最も会話をしているはずだが、距離が縮まる気配は全くない。自分はそこまで口下手な気はしないのだが、白峰と話していると何故か自信をなくしかけてしまうのは白峰との会話がぎこちないからだろう、それもお互いにではなく俺だけが一方的に感じている類のものだ。というか話すと長くなる、と言うのはどういうことだろうか。こだわりがあるのは分かったが、内容が気になるのだから一つでも言ってくれればいいものを。そもそも俺は人と会話をすることが少なく、家族以外なら朽木くらいとしか普段は話さない。まぁ白峰とはいつもこんな感じになるだろうな、と俺は一瞬で手のひら返しをして諦めることにした。
(ほんとに白峰君って寡黙だよねぇ。)
脳内でリアンが苦笑いを浮かべながら話しかけてくるが、これに関して俺は心の中で激しく同意する。
「着いたぞ。」
目立った会話が無いまま俺たちは白導院本人が経営するというカフェに辿り着いた。住宅街に混じって建っているそれは洋風でかつ上品な雰囲気を醸し出しつつもあまり周りの住宅から浮くことがないように自然と溶け込んでいるようだった。
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