第3話 光還者

 堕天使デーツェ、それが俺の平穏を乱している存在だ。俺はデーツェという名の天使について考えたことは時々あるが、会ったことがないためにただの時間の無駄にしか感じなかった。ただ、俺の平穏を脅かすのなら排除したい、という意志が明確に芽生えていた。それと同時に、デーツェのことを考えると、自ずと考えさせられる自分の思う平穏について思考を巡らせる。俺は小さい頃から平穏というものには縁遠い生活をしていたような気がする。幼い頃から鬼の存在をなんとなくではあったが認識し続け、どこからか聞こえる、耳を塞いでもそんなことは無意味だと嘲笑うかのように聞こえ続ける呪いのような声を俺は布団にくるまりながら泣きじゃくっていた記憶が今でも鮮明に思い出せた。当時はもちろん俺以外には聴こえない声であったため、親に相談しても軽く笑われ、それでもしつこく俺が泣きつくものだから心配した両親は俺を様々な病院に連れて行かれた。しかしどの医者に治せるわけでもなく、俺は半ばその声について諦めていた。だが、そんな状況に転機が訪れたのは小学生になったあたりからだ。それまでは誰かを呪う声や必死に助けをこう声ばかり聞こえていたが、明らかにそれではない声が聞こえてきた。

(やぁ、僕の名前はリアン、君を救う天使さ。)

 誇らしげに無垢な少女を思わせた声を聴いた時、俺は耳を疑い、これまで同様無視を貫くべきか悩んでいた。だがリアンとそれ以外の声には声色だけではない明確な違いがあった、会話が可能だったのだ。それは俺にとって幸運であり、奇跡のように感じられたが、それと同時に自分には周りと同じような人生を歩むことから遠ざかっていくような気がしていた。それにいきなり天使だと言われても信じられるはずもなく、さらにタチの悪い呪いの言葉の一種なのではと心のどこかで疑い続けていた。そんな疑念が払拭されたのは初めて鬼と対峙した時だ。

(玲司君を苦しませる存在を倒す気はある?)

 その天使から明るい声で発せられた悪魔のような提案を俺は特に何も考えず、反射的に承諾した。そして、それまで声しか知らなかった存在は明確に形を持って俺の前に現れる世界があることを知った。それが『狭界』、天使の能力を発動でき、現実世界とそれ以外の世界の狭間に存在する世界だ。そこで最初に鬼を見た時、俺は恐怖に震えたことを鮮明に記憶している。目が無いはずなのにこちらを見ているように感じる視線、そして震える俺の足、全身から噴き出る冷や汗や、自然と荒くなる呼吸。今すぐにでも逃げ出したい気持ちだったはずなのに不思議と本当に逃げることはしなかった。それはリアンの存在がいたからだろう。

(玲司君、あれが君を苦しませる声の主、鬼だ。)

 当時の俺よりも明らかに背の高い未知の存在を目の前にしていたというのにリアンはやけに冷静、もっと言えばこの状況を喜んでいるようにすら感じられた。

「お、鬼……?」

 俺は目に涙を浮かべ、リアンの声に縋るように耳を傾けていた。

「さぁ、背中の剣を握って。その剣はきっと君を助けてくれるはずだよ。」

 リアンは半泣き状態の俺に優しく語りかけた。俺は震える手で剣を背中に携えた鞘から引き抜く。当時の俺の身体に見合った小型の剣だった。俺はそれを両手で構えていた。対抗手段を手にしていたおかげで震えはマシになっていた気がする。それに戦い方が分からないはずなのだが、不思議と太刀筋のイメージはすんなりと湧いてきていた。俺は初めての経験に戸惑いながらも自然と呼吸は通常通りに、感情は凪のように静かになっていき、鬼への恐怖は消えていく。

「リアン、力を貸して。」

 今となっては考えられないほど、あの時の俺はリアンを信頼していた気がする。俺は地面を蹴り、鬼めがけて一直線に駆け出した。鬼も俺に敵意を剥き出しにして向かってくる。両者の攻撃がぶつかり合い、あたりにはその衝撃が短い風となって吹いた。鬼の腕と俺の剣は何度も激しくぶつかり合うが、まだまだ身体が成長してなかった俺は明らかに力負けしていた。力比べにならないよう俺は鬼の攻撃を弾きながら立ち回った。相手の攻撃を避け続けていくが、決定的な攻撃が出来ないことや身体が成長しきっていなかったことから、体力的にも厳しいものだった。明らかに危険だというのにこんな戦いに身を投じたのは六歳にして若気の至りと一言で片付けてしまってもいいのだが、自分を苦しめてきた鬼への復讐心や子供じみた非日常への憧れなどがあったのだろう。俺はアドレナリンの影響か、死への恐怖心を考えている暇は無く、ひたすら剣を奮い続けけた。

「よし、玲司君。骨と骨の繋ぎ目部分を狙うんだ!」

 俺が戦いに慣れていくことを見計らってか、リアンは助言を与えてきた。当時は最初から言えと心の中で毒を吐いたものだが、一度も戦ったことの無い人間にコツを教えたところで実践できることはほとんど無理なのだから、癪だがリアンの判断は正しかったと言える。俺はちょこまかと鬼の周りを無我夢中で駆け回り、必死に鬼の関節部分に攻撃を与えていった。数打てば当たるということか、何回目の斬撃かは分からないが、スパンと剣を振り抜くことに成功した時、鬼は体制を崩して倒れた。俺は束の間の喜びを得つつも攻撃の手を緩めることなく鬼に攻撃を仕掛け続け、もはや一方的な暴力に成り果てていた。俺は手を止め、ハァハァと肩で息をしたまま、霧散していく鬼をただ呆然と見つめ、鬼が悲痛な掠れ声のような悲鳴を上げていたのを聴いたためか、胸の内には罪悪感が生まれていた。そして目からは涙が一筋流れ、次第に滝のようにとめどなく溢れていた。鬼に何かしらの同情を抱き、まるで自分が人を殺してしまったのではないかという罪悪感に加えて自己嫌悪が俺の中を満たしていった。

「あ、あぁ……うわぁああああ!」

 俺はなんてことを、という後悔が当時は襲ってきた。そんな俺を励ましたのはやはりリアンだったのだ。

「大丈夫、玲司君は正しいことをしたんだ。だから泣かないで。」

 鬼を鎮める、当時のまだ状況を飲み込めていなかった俺に、まさに悪魔の所業にも思えた行為をさせたリアンだが、この時は本当に天使に思えた。

 それから、リアンは鬼についての説明をしてくれた。鬼とは人が死んだ際、強い未練を残してた場合に発生する存在であり、他人を祟ったり憑依したりすることで人間に危害を加えるということを聞かされた。だからこそ鬼を鎮めることは正しい行いであり、死人の意志の暴走を止めることにもなるのだという。

 それからも定期的に鬼を鎮め、中学生の時に『白導院教会』という鬼を鎮める組織の使いでやってきた白峰に出会った。教会に所属するメンバーは『光還者』と呼ばれ、普通は子供の頃から鬼と戦って鎮めるための訓練をしていくもので、鬼を鎮めるための家系があり、代々その役目を果たしているという。しかし、俺はそんな家系ではないので白導院からすればイレギュラーな存在だっただろう。そして俺をある日の放課後、スカウトしに来たのがあの白峰暁堅であり、彼に渡された携帯で白導院教会の人間と会話をした。

「君が丹羽玲司君だね? 私は白導院教会のリーダー、白導院真里だ。」

 そう名乗った女性の声は凛々しく、まさに大人の風格と呼ぶべき気迫が電話越しですら感じられた。

「はい、そうですが……。」

 俺は緊張したのを覚えている。そのせいで思考がまともに回らなかったのか、電話の相手が白導院教会という組織で一番偉い人物だということだけしか理解していなかった。ゴクリと唾を飲み込み、彼女からの次の言葉を恐れながらも待っていた。

「我々としては君を教会の一員として登録したい。」

 唐突に白導院だの光還者だの言われても当時の俺にはちんぷんかんぷんだった。

「どうしてですか?」

 訳も分からず、半ば反射的に聞いたのを覚えている。

「本来、天使の力を使うのは厳正に選ばれた血筋の人間のみだ。君のようなどこの誰かも分からない人間に使われることは好ましくないのだよ。」

 彼女の言葉は中学生の俺には冷淡に思えたが、それだけではない優しさのようなものも同時に感じ取られた。だからこそ、そこから俺は恐れることなく会話できたのだと思う。

「だから私たちは君を監視対象にすることも兼ねて光還者として白導院に迎え入れたい。」

「断るって言ったらどうするんですか?」

 今となっては恥ずかしくて身体が裂けそうになるが、俺は漫画やアニメでお決まりの言葉を伝えた。

「なら仕方ない、力ずくでもやらせてもらう。」

 彼女の一変した凄みのある脅迫とも言える言葉を受け、俺はちらりと携帯を渡してきた白峰を見た。彼は俺と同じくらいの年齢のように見えたが、当時から俺を見下ろせるほどに背は高かった。

「分かりました、俺は白導院教会の一員になります。でも条件があります。」

 俺は降参するように彼女の提案を了承したが、ささいな抵抗と言わんばかりに条件を付けた。それが教会側との不干渉だった。具体的に言えば、俺は学校に通っているため、鬼への対応は迅速でなく、普通なら白峰のような専門の光還者が対処すればいいから俺の出る幕は本来無いはずなのだ。そして白導院教会に所属するとなれば面倒なことが待ち受けているような気がしてなならなかった。これはリアンからの提案であり、俺もそれに賛同した。白導院は数秒の沈黙の後に分かった、と一言だけ呟いて電話を切った。そこから携帯を白峰に渡し、彼が俺に一礼してから立ち去ったが、彼が視界から完全に消えるまで緊張は解けなかった。

 その頃から、俺にとって平穏という言葉の意味が分かりにくくなっており、今でも同じだ。かつては鬼の存在自体が俺の平穏を乱していたが、もう自分で鎮められる今となってはそこまでの脅威ではない。平穏というものは、絶対的なものではなく、時が経つにつれ移り変わっていくものなのだと実感した。では白峰たち光還者の存在はどうか、今は俺の生活に深く関わらない条件での付き合いなので、そこまで平穏を乱しているわけではないが、鬱陶しさはあった。しかし、今一番の問題はデーツェであることに間違いは無い。

「リアン、今いいか?」

 俺はリアンに話しかけた。ふと気になることができたからだ。

(ん? どしたの?)

 リアンは家の中で話すことが久しぶりだったのか、驚きと同時に嬉しさが込み上げたような声でリアンは応答した。

「このデーツェという天使、お前は会ったことあるのか?」

 会議資料にはデーツェの過去が記されている。以前は地上に降り、白導院と協力して鬼を鎮めていたということだが、何らかの方法で人間の身体から離れ、行方をくらませていたという。それから天界に戻ったわけではないのだという。

「いや、天界でも私は直接会ったことがあるわけじゃないよ。確教会側は鬼の頻発にはデーツェが絡んでるんじゃないかって推測してるんだよね。」

 リアンは俺の視界を通してパソコンの画面を覗いていたようだ。仮にデーツェが本当に鬼の発生を増やしているとしたら目的はなんなのか、そもそも鬼を意図的に生み出すことが可能なのか、考えればキリのないことが俺の思考回路に流れ込んでくる。俺は腕を組んで考えてみるが、結論を出すには材料が少なすぎた。

「本当にデーツェってのが黒幕だとしたら、俺はそいつを倒せるのか?」

 端的に俺はリアンに聞いた。勝てるなら今すぐにでも探し出したいところだが、それがリアンに分かる可能性は低いだろう。それにこれまで白導院がデーツェを発見できていなかったことを考えると奴は強敵だ、俺の出る幕は無いと願いたい。

「天使を倒すのは容易なことじゃないよ。それにもしかしたら戦うのは天使本人じゃなくて……。」

 リアンが言おうとしていることを俺は代弁する。

「天使の力を行使する人間、かもな。」

 人間と戦うとなれば鬼とは勝手が変わってくるだろう。それにきっと初めて鬼を倒した時のような罪悪感をまた抱くことになる。一応会議に関する資料にはその可能性についても言及されている、というより恐らくその可能性の方が高い。なぜなら天使は地上の世界において、天界の規則により力の行使はほとんど出来ないからだ。だからこそ人間の身体を借り、人間は天使の力を借りて鬼を鎮めるのだという。

(それに、もし鬼を意図的に発生させられるのだとしたら、それはもはや天使の力じゃない。)

 リアンは気になることを指摘した。天使の力ではない、それがどういうことを意味するのか理解できないが、良いことではないと直感できた。

「ならどうしてデーツェはこんなことが出来るんだと思う?」

 俺はリアンからさらに多くの情報を聞き出せないかとさらに質問を重ねる。

(私には分かんないよ。教会だったら何か掴んでいるかもしれないけれど。)

 俺はパソコンの画面をじっと見つめながらリアンの返答を聞いていた。

(でも資料には何も記載が無いってことは白導院もそこまで分かっていないということでしょ? それにそもそも玲司には関係ないんじゃない? 専門家に任せるべきだよ。)

 リアンにも教会にも分からない未知の方法で鬼を発生させるデーツェという堕天使に遭遇する可能性を考慮しながらも、俺には関係無いと割り切った。そもそもそこまでの相手ならば白導院が対処するはずだからで、俺の出る幕は無いだろう。俺はそこで思考を止め、学校で出された課題を済ませるためにノートを机の上に広げた。

 白峰からUSBメモリを受け取ってから一週間後、放課後にまた彼は俺の前に姿を現した。今度は俺の家の最寄り駅前に仁王立ちで立っていた。俺はそれを見ながら立ち尽くし、先日と同様ため息をついたが、それも最早馬鹿らしく感じていた。白峰暁堅はUSBメモリを返してもらうという白導院の仕事のためにわざわざ仕事服を着て外へ出るという馬鹿がつく真面目なのだと俺は理解し、彼にUSBメモリを素直に渡すと、今度は俺の方から会話を持ちかけた。

「白峰はその服以外に服は無いのか?」

 いたって素朴な疑問、こんなふうに白導院の人間とやり取りをするのは白峰が初めてだった。そもそも俺に会議資料を渡すということ自体異例だろうが、関わるなら私服であってほしいと俺は思っていた。白峰は顔色一つ変えることなく俺を見下ろしながら言った。

「いや、仕事服以外の服は持っている。しかしこれは光還者としての仕事だ、この服を着るのは当たり前のことじゃないのか?」

 やはり頑固だ、と言いたいところだが、それ以外に服が無いというのはどういうことだろうか。彼は私服でどこかへ出かけることが無いのなら普段は何をやっているんだろうか、俺は疑問を持ち始めた。

「白峰は普段何をやってるんだ?」

 俺は彼の日常に興味を持っていた。学校には通っているのか、どこに住んでいるのかなどだ。

「普段は白導院さんが経営しているカフェで働いている。鬼が発生した場合はすぐに対処に向かっているがな。」

 俺は自分の生活と彼の生活を比較し、気になることを質問していくことにした。

「白峰以外に光還者はいるのか?」

 俺は教会側の人間を白峰と白導院しか知らなかった。

「あぁ、いるぞ。俺は彼らと共に生活し、白導院の一員としての責務を果たしている。」

 やはりか、と俺は合点がいった。そもそも電話で白導院は組織の中で白峰の上司にあたる人物だと感じられた。なら白導院の部下が白峰だけとは考えにくい。

「俺は剣を使って鬼を鎮めてる。白峰は何を使うんだ?」

「俺はよ……。」

 何か答えようとした瞬間、時が止まったように白峰が硬直した。だが直後に、突然彼はその場から勢いよく走り出す。

「お、おい!?」

 俺は訳が分からず、急いで彼を追いかけた。すると脳内にリアンの声が響く。

(玲司、鬼だ!)

「マジか、全然気づかなかったぞ!」

 俺は反射的に返し、白峰の背中を必死に追いかけた。

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