影踏みと、なつみれん

柚木有生

影踏みと、なつみれん

 外に干した洗濯物がハンガーと共に揺れている。その奥で夕日に染まる空を、椅子に座って眺めていた。


 夕暮れ時の空はオレンジ色よりも薄紅色に近い。前にアカリが、「白い雲まで無理やり赤色を含まされて可哀想」と言っていた。あの時はまた変なことを、と思ったが、今ならその気持ちも分からなくはない。


 そんな会話をしたのも確かこんな夏の夕暮れだった。懐かしい。記憶を振り返っていると、窓から流れ込んだ風が頬を撫でた。ちょっと生ぬるい。今度は鐘が鳴った。十七時を知らせる鐘だった。


 その音を聞いて、ぼくは慌てて立ち上がる。


 どうして、ぼくは今ここにいる?


 思うや否や部屋を出ようと体が動いた。勢いよく踏み出した足が椅子とぶつかる。後方で音が響いて、椅子が床に横たわったのだと知った。知ったけど、どうでもよかった。急がないと。


 玄関を飛び出し、一目散に走った。目的地は決まっている。


 家からそれほど距離の無い公園に着く頃には、力いっぱい走ったからか息があがっていた。息を整えながら入口をぬけ、隅に置かれたベンチへと歩く。


 大きな樹木の前に置かれたそれは、二人が座れば隙間がなくなる小さなベンチだった。でも、ぼくのお気に入りの場所だった。


 その隣に、アカリは一人で立っていた。

「いつまで外にいるの?」


 聞いてもアカリは質問に答えず、ぼくを見てため息をついた。わざとらしく肩まで落としている。


「慌てすぎでしょ」


 呆れた声に視線を下げ、足元からなぞるように自分を見ていく。急いで履いた靴のかかとは潰れ、格好は短パンにTシャツ。Tシャツに至っては襟がよれている。家着のまま急いでここへ来たのが丸わかりの格好だった。


「遅れそうだったんだから」

「残念、もう遅れてます」


 公園の時計は既に、十七時を十五分ほど過ぎた場所を針が示していた。家でチャイムを聞いたにしては早く着いた方だと思ったが、それは口にできなかった。口にすれば、約束を反故にするような人間だと思われかねない。


「ごめん」

「まあ、いいよ」


 口では許してくれたものの、行動は決してそれに釣り合ってはいなかった。


「アカリ?」


 呼びかけても反応せず、彼女はどんどん離れていく。機嫌はまだ悪いらしい。


 元々今日の予定は、公園で待ち合わせをしてから二人でスーパーに行き、食材を購入したらぼくの家で鍋を食べてゆっくりと過ごすはずだった。


 人混みが苦手なぼくとしてはかなり魅力的な時間の過ごし方だが、アカリにしてみればその出だしすら遅刻で待たされていては腹も立つだろう。


 どうしたらいいものか迷っていると、入り口付近でアカリが立ち止まった。

 よし、背に腹はかえられない。


「今から何処かさ、美味しいもの食べに行こう。人気店でも大丈夫だよ」


 改めて声をかけるも、アカリは背を向けたまま顔を左右に振った。あからさまなご機嫌取りはお気に召さなかったらしい。


「じゃあ、何かしたいことある?」


 その問いかけにアカリは、振り向いてぼくを視線でとらえた。


「行きたいところがある」

「お店じゃなくて?」


 頷いて手を後ろで組むと、アカリは少し前屈みになる。


「違う。どこだと思う?」


 下から見上げるように問いかけてきた。先程までよりは機嫌が良い。そうでなければこんな挑発的ながらも試すような真似はしないはず。


 ぼくにはアカリの動きが、状況を楽しんでいるようにも見えた。


「分からない。降参」


 両手を上げて顔を横に振る。普段はしない海外ドラマのような大袈裟なリアクションに満足したのか、アカリはにんまりと笑った。でも、


「今日、夏祭りだよ」


 そう言った後の笑顔はどこか悲しげな色がぼんやりと塗られていて、ぼくはゆっくり目を背けてしまった。


 夏祭りの会場はここからだと少し距離がある。それでも今から向かえば、夜から打ち上がる花火にも充分間に合うはずだ。


「はい」


 差し出された手を握り、公園を出る。ちょうど正面から子どもが二人、こちらに向かって走ってきた。


 子どもは笑い声を上げながらぼくのすぐ両脇をぬけ、公園の砂場へと一直線に駆けていく。


 アカリは子どもの無邪気な姿に微笑んでいた胸が締め付けられ、思わず握った手に力を込める。アカリは何も反応を見せなかった。


 生ぬるい風が体を包み込むように通り過ぎ、葉が擦れ合う音が、耳に響いた。


 しばらく歩くと、神社を目前とする道に出た。神社の境内へと続くこの辺りから、出店もちらほらと見かける。


 横断歩道まで歩くと、周りには通行人が増えてきた。皆、祭りの熱にうかされているのか、どこか雰囲気が浮き足立っている。反対に、道路に車はそれほど見当たらなかった。近くで交通規制をかけているのかもしれない。


 祭りの準備をしている途中なのか、電柱の傍には色々な品が置かれていた。飲み物やお菓子、数が一番多い花束は、誰かの引退に渡す品だろうか。屋台にも引退式があるのか、ぼくには知る由もない。


 信号機の青色が点滅し、立ち止まる。無理に走って渡る必要は無い。夏祭り会場はもうもう目と鼻の先だ。横断歩道の先頭で、車がゆっくり左へと走っていくのを見送る。


 本当ならば今、信号機が青色になるのを横断歩道の先頭で待っているのはぼくらでは無く、浴衣姿の女性と甚平姿の男性のはずだった。


 彼らは信号機の色が赤に変わったのにも関わらず、小走りで横断歩道を渡っていった。交通規制をかけているから普段よりは安全かもしれないが、近くにいた交通誘導員には笛を鳴らされていた。


 その交通誘導員は今、横断歩道の中心で赤いライトを待つ手を忙しくなく動かしている。その動きを何の気なしに眺めていたら、手を強く握たれた。


「どうかした?」


 アカリの顔に、特に表情の違いは見られない。寧ろ、視線に気づいたアカリが微笑んだのに照れて、ぼくが表情を変えてしまった。


 信号が青になり横断歩道を渡っていると、途中で誘導員のおじさんと目が合った。一向に目線が外れないので会釈だけをして通り過ぎる。


 渡りきってから少し歩いたところで、アカリが足を止めた。後ろを振り向いて、何かをじっと見つめている。ぼくにはその視線の先に何があるのか皆目検討もつかなかった。誘導員のおじさんの動きが面白くてもう少し見たかったのか、それとも電柱の脇に置かれた品物が気になったのだろうか。


 考えていたら、今度はアカリから強く手を握られた。でも、表情に相変わらず変化はない。その無表情を崩したくなった。


「よし、夏祭り行こっか」


 今更伝えた遅すぎる言葉に、アカリは驚いたように目を開いた。でもすぐに、ふっ、と微笑んだ。


「当たり前でしょ。ここまで来たんだから」 


 再び歩き出した彼女の足取りは軽かった。それは手を繋いでいるからこそ気づく微妙な違いなのかもしれないが、それなら尚更嬉しかった。


 アカリと並んで歩くのは、もう、随分と久しぶりのことだった。




 神社の境内へ入ると、そこは既に別世界だった。


 りんご飴にチョコバナナ、カステラやラムネといった祭りのメジャーな食べ物を売る屋台は、境内の前につづく通りのだいぶ先から左右に長い列を作っていた。チーズタッカルビやタピオカと流行り物を売る出店までもがいくつも開かれている。


 種類が豊富なのは人も同じで、捻りはちまきに無精髭のおじさん、赤い法被に白短パンのお姉さん、制服の男子四人組とこちらもバラエティに富んでいる。


 目の前では浴衣姿の女性が、甚平を着た背の高い男性とひとつのかき氷を分け合って食べていた。横断歩道で見かけたカップルだ。


 人の数が多く熱気はこもっているが、夕暮れの薄暗い町並みに屋台の明かりが溶けているこの景色は、温かみを感じられて心地よかった。


「なに食べよっか」

「なんでも良いよ」


 そう言いながらも、アカリはひとつの屋台の前で足を止めていた。止めているのに、買おうとは言い出さない。


 こういう所が厄介で、また好きでもあった。


「じゃあ、リンゴ飴にしよう」

「食べたいなら食べてもいいけど」


 素直じゃないアカリをよそに、屋台の前にできた列の最後尾に並ぶ。間を置かず、アカリは隣をついてきた。


 列は長かったが、すぐに順番が回ってきた。一〇〇円玉三枚と交換して受け取ったりんご飴を、そのままアカリに手渡す。アカリはきょとんとし、首を傾げていた。


「食べないの?」

「一個もいいや。一口頂戴」


 財布から小銭を出すためにを離した手をもう一度握り、人の邪魔にならないように列から外れた場所まで歩く。


 途中、近づけられたりんご飴の甘い匂いに誘われて、一口齧る。食べて気づいた。一口頂戴は、りんご飴だと中々難しい。唇の端についたあめを、アカリはハンカチで拭いてくれた。


「ありがと」

「りんご飴買ってくれたお礼」


 その後もぼくらはお店を見ながら屋台通りを歩いた。少しして、アカリが足をトントン、と叩いて立ち止まって膝を曲げた。


「疲れたかも」


 探していた休憩場所はすぐに見つかった。神社の境内に置かれた小さなベンチが空いていたので、並んで座る。

 道中に買ったたこ焼きは、後で食べよう。


「熱いうちに食べなよ」

「いや、人酔いしたから後にする」


 座れてほっとしたのはぼくも同じだった。

 焼きそばやフランクフルトを焼く熱気と綿菓子の甘い匂いが人の多さに混ざり合い、人酔いの拍車をかけていた気がする。


「何でこんなに人多いんだろ」

「お祭りだからね」


 分かりきった問いに答えを返すと、アカリはジトっとした目で睨んできた。


「でも、メインはお祭りじゃなくてアレでしょ」

「アレ?」

「あれ、本当に分かってないんだ」


 首を傾げたアカリの顔を見ながら考えていたら、いきなり辺りが照らされた。照らされたと同時に響いた音。


 ああ、そっか。アレってコレのことか。


「始まったね」


 アカリの声を背に、空には続々と花火が打ち上げられていた。下から天空へと昇る白い光の粒が、消えた瞬間、夜空に大輪を咲かせる光景は、何度見ても綺麗だった。


 息を呑む鮮やかな夜空の花、照らされるアカリの横顔、どちらにも目を奪われていた。 


 今日が終わらなければ良いのに。


 考え出すと気分が沈みそうだったので、今は目の前の綺麗な光景に、ただ心を預けようと努めた。




 どれくらい静かに見ていたのだろう。


 背中に痛みがはしるまで、花火に集中していた。振り返ると、アカリが指で背中を押していた。少し頬をふくらませていている。


「そろそろ歩こ」


 もう少し座っていたいと思ったが、花火が空に上がる中、屋台を巡り歩くというのも悪くない。集中していたからか、いつの間にか人酔いも収まっている。


 おかげで射的に金魚すくいに輪投げと、さっきは出来なかった遊び系の屋台を一通りアカリと楽しめた。

 射的はひとつも当たらず、金魚すくいは水につけたまま作戦を考えたせいでポイがすぐに破れ、唯一成功した輪投げでさえ、獲得した商品は狐のお面だった。


「商品より成功したことが大事」


 狐のお面を手に持って強がるアカリが、本当は二つセットになった指輪を狙っていたのを知っていた。狙っていた時はおもちゃなのにと馬鹿にしていたけど、今ならおもちゃでも欲しいと思う。


 少しばかり悲しい気持ちになっていたら、


「あれ!」


 アカリが勢いよくひとつの屋台を指さした。

 その屋台にはお面が幾つも板に掛けられている。どうやらお面専門の屋台らしい。

 近づくと、アカリは目を輝かせながらお面を眺め始めた。


「商品より、成功したことが大事なんじゃないの?」


 意地悪を言ったぼくをからかうように、アカリはニヤリと口角を上げる。


「成功の次に、商品も大事」


 購入した全く同じ狐のお面は、アカリと、そしてぼくのそれぞれの頭に斜めになるようにのせた。


 花火を見ながら歩く人とアカリがぶつかりそうになったので、また手を繋いで歩く。


「もうすぐ花火終わるかも」


 アカリが寂しそうに言うから、ぼくも寂しくなった。


 花火が終われば、祭りも終わる。


 河川敷に出ると近くに柵があったので、二人でもたれかかる。


「残りの花火ここで見てこっか」


 頷くアカリも俯きがちになっていた。だからこそ伝えるしかなかった。


「終わらないよ、ずっと」


 嘘だ。それはアカリも分かっているはず。分かっていて、笑っていた。


「だね」


 頭の仮面を撫でるアカリが、花火に照らされた。


「あ、たこ焼き」


 レジ袋に入れて持ち歩いていたパックを取り出す。まだ手がつけられていないたこ焼きを見ると、急にお腹がすいた。


 そういえば今日はまだ、りんご飴しか食べてない。それも一口。


 パックにテープで留められていた爪楊枝で、たこ焼きを一個刺す。口へ放り込もうとしたけど、アカリが口を開けていたので、方向転換してそのまま彼女の口へ。どうやらまだ冷めていなかったらしく、ハフハフ言いながら悶えている。


「熱かった?」


 ペットボトルを渡しながら聞くと、アカリはさっとそれを奪い取って、豪快に喉を動かした。


「全然冷めてないじゃん」


 余程熱かったのか、目元が潤んでいる。でもおかしいな。買ってからもう随分と経つのに、まだ冷めていないのか。不思議に思いながらたこ焼きを頬張ると、ぼくのは全く熱くなかった。どうしてだろう。


「ね?熱かったでしょ?」


 それでもアカリがそう言っているのなら、それが正しい。この時間ではアカリのすべててがすべての事実だ。


 頷いて微笑むと、彼女も笑ってくれた。  


 最後の花火は一目見て分かった。他のに比べて打ち上げられた数も規模も明らかに違う。


「終わりだね」


 アカリが呟いてすぐ、夜空を背景に壮大な花火が咲いた。


「そんな事言わないでよ。」


 今日一番の大きな花火が、ぼくの戯言を隠してくれていたらいいなと思う。




「すっかり暗くなったね」


 花火も終わり、ぞろぞろと帰路につく人を見ながらアカリが言った。


「そりゃあ夜だから」


 また当たり前の答えを返したけれど、今度のアカリは何も言わず微笑んだ。


 河川敷にはブルーシートがいくつか敷かれっぱなしになっていた。屋台ではつい先程まで五〇〇円だった焼きそばが、今は二〇〇円で売られている。お腹はもう充たされていたので、お得だが買わなかった。


 まだアカリの手には、一回り小さくなったりんご飴が握られている。


「食べきれる?」


 りんご飴を口にしながら、アカリは頷いた。


 道の脇に何個もダンボールが置かれていた。分別収集を目的としたゴミ箱なのに、どのダンボールにも空き缶が入っている。持っていたパックは、まだたこ焼きが余っていたから捨てられなかった。


 ペットボトルは、アカリのは中身がまだ入っていたので、自分のだけ捨てた。キャップもペットボトルも、軽い音がして箱の中を転がった。


 祭りで買ったものを減らしていく作業は、祭りの終わりを強く意識させた。


 しばらく歩いて横断歩道の前へ出ると、通行人の数がどっと増えた。祭りの熱にうかされた、独特の残滓が夜道に充満している。


「もう帰るの?」


 隣を歩くアカリが、ふいに呟いた。


「もう遅いし、帰るよ」

「いつまで?」


 間髪を入れずに問いかけてきたアカリの方を見る。彼女は、じっとぼくの目を見つめていた。


 見られても、質問の意味が分からない。


「何が?」

「私、いつまでここに来るの?」


 アカリはぼくを見ている。それなのに、いっこうに視線が交わらない。


 気づくと、握っていた手の感触が無くなっていた。それなのに手元には確かにアカリに手があった。ぼくの手を握っていた。でも、彼女の両手はまっすぐ地面にも向かって伸びてもいた。


 いつの間にか、握られていたりんご飴も無くなっている。


 視線が定まらない、息が荒い、自分の呼吸が乱れているのか、苦しい。 ぶれる視界の中で、アカリが離れていくのが分かった。段々と小さくなっていく。


 嫌だ、行くな。


 心で念じてもアカリは離れていく。

 まだ夏祭りは終わってない。二人で帰るまで、絶対に終わらせない。


 アカリを追って足を動かした。今ならまだ間に合うかもしれない。


 アカリの姿がすぐ近くに見えた時、思いきり手を伸ばした。確かに袖を掴んだ。ぼくの目では確かに掴んだ。 


 どうして感触がない。


 耳をつんざく音がした。クラクションだ。正面からトラックが走ってくる。ヘッドライトに照らされる。 余りの眩しさに目を開けていられなかった。瞼を閉じる瞬間、確かにぼくは見た。


 白く細い腕の先にりんご飴を持った、狐のお面を頭にのせた少女を。




 痛い、身体中が痛い、動かない。


 笛の音が聞こえて、交通誘導のおじさんが近寄ってきた。悲鳴が聞こえて、見えている景色の下側が、奥に向かって赤色染まっていく。


 散乱しているのは、ぼくが持っていたものか。


  一口だけで齧られたりんご飴、飲みかけのペットボトル、半分だけ中身の減ったたこ焼き。


 お面は二枚とも、握った部分の色が汗で剥げていた。





 生ぬるい空気に誘われて、ぼくは玄関を飛び出した。なぜだか見たくなったんだ、君と過ごした場所たちを。


 家から徒歩数分で着く公園に、アカリは一人で立っていた。


「アカリ、いつまで外にいるの?」


 質問に答えないまま、アカリはうつむいていた。時折聞こえる嗚咽のような音が、今年もまた、心を揺さぶって消えてくれない。 


 淀みのように溜まってゆく怖さをを押し殺して、努めて明るく声をかける。


「どうしたの?大丈夫?」


 アカリは顔を横に振って、ゆっくりと顔を上げた。車イスに座るぼくを見て、その瞳が揺れた。震える唇に呼応するように流れた涙を、頬を伝う前に指で拭っている。


「もう、いないよ」


 アカリは屈んで、精一杯の微笑みを向けてきた。 目線の高さを合わせて向けられた笑顔。嬉しいはずなのに、止めてくれと言いたくて、でも、声が出ない。


 喉が苦しい。どうかそれ以上、言わないで。


「もう、いない」


 アカリが交通事故に遭ってからも、ぼくにだけは見えていたはずのあの笑顔は、もうそこに無かった。


 その声を聞いて、居ないはずの顔を見て、いつの間にかぼくの頬にも伝っていた涙が地面に落ちた。


「いないんだよ」


 夏祭りから帰る途中の横断歩道でアカリが死んでから、もう六年の歳月が経つ。それなのに毎年、ぼくはアカリと夏祭りを楽しんでいた。


 別れ際に必ずアカリに叱られるのも、毎年のことだった。


 在りもしない世界に喜んで、急に現実に引きずり下ろされ続けていた。


 お菓子も、リンゴアメもお面も水風船も、すべてアカリの分はここにある。だからお願い、早く戻ってきてよ。そっちの世界に簡単に行けるなら、こっちの世界も簡単に来れるだろ。


 気づくと、目の前に居たはずのアカリの姿が消えていた。


「アカリ!!」


 声は一際うるさいセミの鳴き声にかき消された。


 もう夜が近いのか、空が赤く染まり始めている。車椅子から見上げる空は、例年よりもほんの少しだけ遠く感じられた。


 公園をあとにしようと入口へ向かう。正面から走ってきた子どもが二人、両脇をすれすれに走りぬけていった。


 子どもの背中を見送りながら、振り返った公園に手を振る。砂場に屈んだ子どもは、ぼくに手を振り返してくれた。


 今もまだ残っている。鼻をすすり嗚咽をもらす、か細い声は耳に残っている。


「私のせいで、ごめんね」


 樹木の前には、誰も座っていないベンチだけが置かれていた。


 長かった夏も、もう終わりが近いのかもしれない。

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影踏みと、なつみれん 柚木有生 @yuki_noyuki

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