合理的な因習

彼岸花

合理的な因習

 生ゴミが道端に散乱している。

 卵の殻だとか、野菜の切れ端だとか、不味かったカップ麺の中身だとか。兎も角色んなナマモノが、道路を横断するほど広々と散っていた。『俺』は今車の中にいるので、外がどんな空気かは分からないが……どんな臭いが漂っているかは分かる。ただでさえ雑多な臭いが混ざってきついのに、真夏である今の時期、数時間はこの状態だったであろうそれらは刺激臭を発している筈だ。例えるなら俺の家にある台所の三角コーナーに鼻を突っ込んだような、そんな気分にさせられるに違いない。

 いっそ昼間であれば、人間一人ぐらいコロリと殺せる日光により、生ゴミも全て干からびて多少臭いもマシだったかも知れない。しかし今は真夜中。暗くてジメジメした空気は、雑菌にとってさぞや増えやすい環境だろう。此処が山奥にある住宅地であり、間に大きな畑や林があるぐらい家と家が疎らで、人通りが殆どないのが唯一の救いか。

 何故こんな事になっているのか。

 原因はすぐに分かる。散らばるゴミを追っていけば、ゴミ捨て場に辿り着き……そこに積まれた多量のゴミ袋に穴が開いているのが確認出来た。穴は小さなもので、人間の指を突っ込めるかどうかぐらいの大きさ。『犯人』はそこから中身である生ゴミを雑に引っ張り出し、道路にぶち撒けたらしい。

 なんらかの動物にやられたのは明白。その正体も、俺達は知っている。


「まぁたカラスにやられてる……」


「やられていますね」


 俺が漏らしたぼやきに、隣の運転席に座る『先輩』も同意した。先輩は俺より五つ年上の、それでもまだ二十五歳の若い男。この仕事も長く、俺から見ればベテランだ。体格も俺より一回り大きくて立派な、頼れる兄貴分って感じの見た目をしている。

 俺達がただの通行人なら、このゴミに顔を顰めながらも跨いで横切るところ。しかし今の俺達はそういう訳にもいかない。

 俺達はゴミ捨て場に置かれたゴミを片付ける、ゴミ収集作業員なのだから。


「ですが何時もの事です。手早く済ませましょう」


 新人である俺より五年も長くやっている先輩は、散乱する生ゴミを前にしても全く気にしていない。俺も嫌悪感はあるが……躊躇いはない。

 すぐに仕事を始める。

 俺は車――――ゴミ収集車の助手席から降り、ゴミ捨て場へと向かう。予想通りの悪臭が鼻を突いたが、もうこの仕事をして何ヶ月も経っている。それに褒められた話じゃないが、俺の家の三角コーナーも似たような状態だ。怯むほどの事じゃない。

 まずはゴミ捨て場に積まれた生ゴミを手早く掴み、収集車後方にある回転する板(回転式というらしい)のところに投げ込む。板に運ばれ、ゴミは車体の中で圧縮されていく。ゴミ捨て場にあるゴミ袋の数はざっと十個程度。テキパキやれば五分どころか一分も掛からないで終わる。

 ゴミ収集場から袋がなくなったら、車内にいる先輩から箒と塵取りを受け取る。道路を手早く履いていき、ゴミを集めてまた車に投げ込む。

 次の収集があるので時間は掛けられない。此処の住民は割とそういうのは気にしねぇから、放置してもクレームは来ないだろう。だがマスコミやらSNSやらがこの状態を取り上げたら、会社が炎上しちまう。だから出来るだけ綺麗にしなけりゃならねぇ。

 手早く確実に。割と無茶な要求な気もするが、何ヶ月もやっていると案外出来るものだ。


「よしっ」


 我ながら中々綺麗に出来たところで、俺は収集車に戻る。俺が乗ったのを確認し、先輩は車を出す。

 これで此処での仕事は終わった。

 俺達が乗る収集車は、この後五ヶ所のゴミ捨て場を回る。最後に集めたゴミを集積所に運べば、仕事は一区切りだ。


「ご苦労さまです。大分手早く片付けられるようになりましたね」


「うっす。ありがとございますっ」


 先輩に褒められて、ちょっと嬉しく思う。世辞かも知れない言葉ではしゃぐなんてガキっぽいとは我ながら感じるが、嬉しいものは嬉しいのだから仕方ない。

 俺は見た目も言葉遣いも粗暴なもので、色んな人から『不良』扱いされてきた。実際勉強もあまり出来ないし、頭も良くはないと自覚している。

 なのにこの人は偏見もなく、俺に色々教えてくれた。話が分からなくて混乱しても、失敗しても、馬鹿にするような態度も取らない。そりゃあ内心どう思っているかは分からないが、大事なのは態度だ。

 こういう先輩と一緒に仕事が出来るのは、とても恵まれた事だと思う。

 仕事自体にも不満はない。ゴミ収集は3K、つまりキツイ、汚い、危険な仕事だと言われている。実際そうだとは俺も思う。だが俺は鼻が鈍いのか悪臭なら割と平気だし、ダチも似たような仕事に就いているから身体に臭いが付いてもあまり気にならねぇ。ゴミを運ぶのはかなりの重労働だが、身体が丈夫なのは数少ない自慢だ。どうって事はない。ここらの自治体だと民間委託されているからちょっと給料は安めだが、あくまで公務員と比べた場合だ。普通に食っていく分には問題ない。

 天職とまでは言わないが、俺にとっては向いている仕事だ。今のところ辞めたいとは思っていない。

 ……道端に散らばる生ゴミさえなければ、もっと良いんだがなぁ。


「あの生ゴミが散らばるのだけは、なんとかしてほしいんすけどねぇ……」


「中々難しいですね。この村の文化のようなものですから」


 俺が愚痴ると、先輩は直接的には肯定せず、しかし『どうにかしてほしい』とは受け取れる答えを返す。

 ――――先輩はこの村と言ったが、厳密には此処は『町』だ。

 ほんの十五年前ぐらいに、この村の人口減少を理由に隣町と合併したからだ。昔は黒羽村と呼ばれていた、山奥にある辺鄙な村である。主要産業、と呼べるかは知らねぇが、農業ぐらいしか仕事がない。

 そして此処黒羽村は、カラスが非常に多いのが特徴だ。

 そこかしこにカラスがいる。昼間はカラスの鳴き声が喧しく、昼寝も出来ないぐらい五月蝿い。先のゴミ捨て場のように、生ゴミを置けばたちまち食い荒らされてしまう。電線を見れば、スズメだかなんだかの代わりにカラスがいるぐらいカラスだらけだ。

 何故こんなにカラスがいるのか。ゴミをちゃんと出さないから、というのが直接の原因だが……ならどうしてゴミの出し方がなってないかと言えば、それはこの村が


「なんでしたっけ。黒羽様だったか」


「正確には、その神様の遣いと思われています。此処のカラス達は」


 なんでも、この村では黒羽様という神様が祀られているらしい。

 曰く、大昔この黒羽村には鬼がいた。鬼は人を喰うため、村人達は大層恐れていた。

 そんな村人達を哀れに思い、黒羽様は自らの遣いである黒い鳥、つまりカラスを飛ばした。カラス達は鬼の目玉やらなんやらを喰い、手酷くやられた鬼は山奥に身を隠した。こうして村に平和が戻った。

 しかし鬼は未だ死んでおらず、人を喰いたがっている。

 だが自分の目を喰ったカラスが怖い。だからカラスの前には姿を表さない。そのため村ではカラスがいなくならないよう、大事に保護している……らしい。今じゃカラスの事を黒羽様と呼んでいるほどだ。俺みたいな不良が覚えるにはちょっとばかり御伽噺チックな話だが、カラスを追い払おうとする度村のジジババ共から嫌味混じりに聞かされれば覚えもするというものだ。

 要するに、この村は昔話を信じてカラスを守っている。生ゴミを喰い荒らしても、それは黒羽様がこの場所に気に入ってくれた証という有り様だった。真夜中のゴミ収集はカラスに荒らされないようにという対策なのだが、わざわざ昼間にゴミを出し、カラスに食べられるようにする始末。

 そんな風習が他で受け入れられる訳もない。合併前、というか今でも、この村の連中は迷信深くて気味が悪いと言われていた。俺もこの村の隣町出身だが、正直気持ち悪くて嫌いだ。仕事じゃなけりゃあまり関わり合いになりたくない。


「全く、カラスが神様なんて迷信を信じて……なんでしたっけ、こういうの因習って言うんでしたっけ」


「……因習、ですか。確かに今では因習かも知れません」


 俺が言うと、先輩は少し言葉を濁すように話す。

 何か変な言い方だなと思って考えてみたところ、今は、という部分に引っ掛かる。

 まるで、昔は因習じゃなかったかのようだ。

 俺のそんな疑問を察したのか、先輩は穏やかな口調で話し始めた。


「そもそも、因習含めた風習というのは何故あると思いますか?」


「ん? そりゃあ、迷信とか御伽噺じゃないですか? 昔は科学も何もないから、変な事を信じていたーみたいな」


「そういうのもあります。ですが実際には、生活の知恵という面が大きいのですよ」


 先輩はこう話を続ける。

 例えばイスラム教では、豚は不浄な動物として食べない。宗派やらなんやらによって禁止の度合いは違う(外国ならOKとか他に食べるものがなければ良いとか)そうだが、基本的には食べないものだそうだ。

 イスラム教徒じゃない俺等からすれば実に馬鹿馬鹿しい話だが、大昔ではとても重要なものだったらしい。

 というのも、豚肉を食べるのは病気のリスクが高い。人と共通の病気に感染するため、同じ空間で生活すると伝染病が広がりやすいという。

 また豚は(俺もそう思っていたが)一般の認識と違い、草食動物ではない。肉や穀物も食べる雑食動物だ。大きく育てるためには、ある程度人間と同じものを与えないといけない。家畜は食べるために育てるのに、人間の食べ物を与えて育てるのは……食べ物が何時でも買える現代なら兎も角、食うに困る大昔じゃ馬鹿らしい事だ。あちこちに豚のエサとなるドングリなどが生えているヨーロッパと違い、中東ではそういったものがないため、より豚を育てるのには向いていない。


「そういった実害がある訳ですが、でも昔の人にその原因は分かりません。食性なら兎も角、菌とか寄生虫とかは見えませんからね」


「あー……確かに」


「原因は分からないけど食べるなと言われるのと、神様がそう言っていると言われるの、どちらの信憑性が高いと思いますか?」


「そりゃまぁ、科学とかないなら、神様ですかね」


 納得は出来ないかも知れない。しかし実際腹を壊す奴や死んだ奴を見れば、神様や祟りを信じるだろう。


「本当に有害な迷信というのは、後世に残らないものなのです。極端な話信じた人が皆死ねば、その集落は滅びてしまい、話も絶えてしまいますから。ですが逆に有益なら残ります。それはその社会を存続させる上で、とても大事なものですから」


「成程……つー事は、この村のカラスを大事にするやつも、なんか大事な意味があるという事っすか?」


「さぁ、どうでしょう。有益なら残ると言いましたが、無害でも残りはしますから」


 ……話の前提を覆されて、おいおい、と言いたくなる。

 ただ、まぁ、要するになんでもかんでも無闇に否定するなって事なのだろう。


「ちなみに意味があるとすれば、どんなんだと思います?」


「うーん、例えば死体処理でしょうか。死体は腐ると病原菌の温床になります。カラスはその死体を素早く食べて病気の拡散を抑えてくれるかも知れません。ネズミとか虫を食べる点では、益鳥でもあるでしょうね」


「……死体をカラスに食べさせるって」


「いえいえ、これは結構有力かも知れませんよ。鳥葬は世界の色んなところでやられていますが、これを国が止めさせたら河川が汚染されたとか、火葬の煙で大気が汚染されたとかいう実害が出ています。その土地に合った方法なのですよ」


 あれこれと語る先輩はちょっと楽しそうだ。どうやらこういった分野が好きらしい。

 俺にはちょっとばかり難しいが、土地によって適した生き方があるってのは、なんとなく分かる。この土地のカラス好きも、そういう適した生き方の一つなのだろう。

 ……しかし、だ。


「でもそれ、結局のところ今は関係ないっすよね? あの村で人が死んでも、今なら普通に火葬だろうし」


「でしょうね。風習なんてそんなものです」


 あっさりと、今では意味がないと先輩も認めた。


「でも今でも信じているというポーズは大事かも知れませんよ。こういうものも売っていますから」


 先輩はそう言うと、車のコンソールボックス(運転席と助手席の間にある収納スペース)を開ける。

 そこにはカラスの羽根が仕舞われていた。

 いや、羽根型のアクセサリーだろうか? 妙に艶々としている。


「カラスの羽根を加工して作ったアクセサリーだそうです。この村のとある女性団体がネットで販売したところ思っていたより売上上々で、近々法人化の予定とかなんとか」


「因習村の癖してハイテクかつ資本主義的な儲け方してんな……つか、なんでこんなの持ってるんすか」


「知り合いのお婆さんが分けてくれましてね。黒羽様が休む夜は鬼が出るから、これを持っておきなさいって言われましたよ」


 先輩は、あくまでババァの善意だという言い方をしているが……横顔は明らかに困惑している。バタンッとコンソールボックスを力強く閉じたのは、あまりあの羽根を見たくないからか。

 アクセサリーだから可愛らしいが、渡す理由が完全にカルト宗教のそれだからな。これが聖書とか十字架とか水素水とかなら多分断っているだろう。

 ……そうだ。金やらなんやらがあまり動いてないから実感がないが、こんなのは教祖のいないカルト宗教みたいなもんだろう。

 なのにどうしてか、『信者』は増えている。

 移住者の多くが、黒羽様を信じているのだ。そりゃ全員ではないが、半分も信じているのは、二十一世紀も四分の一が過ぎようとしている今の日本としては異様だろう。村の子供だって、今ならスマホでなんでも調べられるのに、殆ど、というか俺が知る限り全員が黒羽様を信じているのも変だ。あと小さな村なのに時々行方不明者が出るのも、割と気持ち悪い。

 ……なんて言うのも、ある意味踊らされているのかも知れない。行方不明者なんて日本中でいくらでもいるし、信じているなんて言っても口だけだ。誰が聞いているか分からない時に、表立って信じてませんとは中々言えんだろう。ガキも案外こういうルールには敏感で、守ろうとするもんだ。

 所詮は、その程度の事という訳だな。


「さて、次のゴミ捨て場です。ここも手早く済ませましょう」


 話がいい感じに一段落したところで、次のゴミ捨て場に辿り着く。周りにあるのは畑と電柱と家、それと街路樹? みたいに植わっているなんかの木だけ。

 収集車の中から見たところ、今回はあまり、いや、殆どゴミは散らばっていない。どうやらカラスの襲撃を受けなかったようだ。

 これは珍しい。カラスだらけのこの村で、襲撃を受けないゴミ捨て場なんて殆どない。余程運が良かったか、はたまたゴミだらけでカラスも満腹になったのか。

 なんにせよ道が綺麗なのは良い事だ。片付けの手間がない分、早く終わる。


「これはツイていますね。早いところ終わらせましょうか」


「うっす」


 先輩が車を止めたら、すぐに俺は降りてゴミ捨て場に向かう。

 生ゴミの入ったゴミ袋を両手に持ち、手早く収集車の後方へと向かう。後ろ側は街灯の明かりも届かないが、テカテカと輝く車のライトのお陰で暗くはない。安全に距離を取りつつ、ぐるぐる回る版目掛けてゴミを放り投げた


「ぎゃっ!?」


 瞬間、誰かの悲鳴が聞こえた。


「? なんだ?」


 仕事に意識が向いていたので、ちゃんとは聞き取れなかったが……男の声だったような気がする。

 正直面倒事は勘弁だし、いくら夜型生活の身とはいえ真夜中にぎゃーぎゃー騒ぎたくはない。出来ればさっさと離れたいが、どうにも今の声はかなり近かった。変に動くと騒ぎに巻き込まれるかも知れない。

 声はもう聞こえないが、大体の位置を思い出してみる。確かあれは……

 収集車の、先頭付近だったろうか。


「……先輩? さっき、声がしませんでしたか?」


 先輩に呼び掛けてみる。

 しかし返事はない。

 ――――心臓が、バクバクと音を鳴らす。

 猛烈に嫌な予感がする。いや、確信と言った方が良い。一体何があったのかは見当も付かないが、絶対にろくでもない事だ。

 逃げた方が良い。此処から、全速力で。

 そうは思うが、だがいくら不良の俺でも常識ってものがある。嫌な感じがしたからって、仕事を放り出して逃げ出すなんて、大人としてあまりにも恥ずかしい。先輩はこういう事で馬鹿にはしないと思うが、尊敬するからこそ情けない姿は見せたくない。

 仮に、本当に嫌な予感が当たったとして……だとしても、やはり此処から走り出すのではなく、車の中に入るべきだろう。予感の相手がクマだろうが殺人鬼だろうが、車内にいれば安全だ。動物相手なら、いざとなれば轢き殺してしまえば良い。こんな立派な武器を捨てるなんて、それこそ判断ミスだろう。

 落ち着いて考えれば、逃げるより車に戻る方が良さそうだ。そう考えた俺はゴミ収集の手を一旦止めて、車に戻ろうとする。収集車の横を通り、助手席側のドアを開けた

 直後、何かが飛び出す。

 出てきたのは、先輩だった。

 


「……ッ! ……………!」


「せ、せんぱ……!?」


 何故先輩がそんな体勢でいるのか、その手はなんなのか。訳が分からず棒立ちしている間に、先輩は車の中に

 混乱していた原因が見えなくなった事で、落ち着きを取り戻した俺はすぐに車内へと向かう。が、そこに先輩の姿はない。空っぽの運転席があるだけ。

 反対側の扉が開いていたが、あっちから連れ去られたのか。だが俺が此処を覗き込むまで、そんなに時間は掛かっていない。精々五秒ぐらいだ。

 先輩は五年間もゴミ収集の仕事をしてきた男だ。大柄な身体から分かるように、抵抗すればそれなりに強く、例え無抵抗でも体重だけでかなり重いから簡単には引っ張れない筈。それをあっという間に引っ張ったとしたら、先輩を襲った何かは相当力が強いのだろう。

 人間業じゃない。だとしたら、マジでクマとかだろうか。


「な、なんだか分からないが、ヤバい……!」


 ぞわぞわとした悪寒が、背筋を駆け抜けていく。

 兎に角、助けるにしても逃げるにしても、素手ではどうにもならない。せめて何か、棒でもあればと辺りを見回し――――

 それと、

 それは反対側の、開いたドアからこちらを覗き込んでいた。

 二つの大きな目があった。いや、目のような窪みだろうか。人間の目よりずっと大きな黒い穴が、瞬き一つせずこちらを見ている。

 身体もある。頭が凄く大きい。全身が真っ黒だが輪郭はハッキリしていて、人間よりも一回りも二回りも大きいように見える。大きな頭には口もあり、半開きの口はこっちの事など簡単に丸飲みにしそうなぐらい大きく、中には白い歯がずらりと並んでいて、人間ほどの太さしかない腕の先には三本の指があって、全身は毛だらけに見えるけどもやもやした不気味で不確定な


「う、うわああぁあっ!?」


 目にした異形が理解出来ず、驚くだけでも数秒と掛かる。

 仰け反った身体はバランスを崩し、俺はへたり込むように車外に転がり出てしまう。

 不味い、と思った。しかし転んでしまった身体は、今更どうにもならない。俺が身動き出来ない間にそいつは車内を通り、俺の目の前に近付いてくる。

 二度目の顔合わせだ。今度はさっきよりは幾分落ち着いてその姿を見る事が出来る。

 しかしそれでも寒気がするほどに、そいつはおぞましい姿をしていた。例えば目のような大きな窪みだと思ったもの。実際は、黒目しかない巨大な眼球だった。人間よりも遥かに大きなその目が、こちらをじっと見つめている。

 身体は毛に覆われているのか、もじゃもじゃとしていた。しかしそれでも輪郭が分かるぐらい、体型はハッキリとした、極めて歪なものをしている。

 頭は人間の三倍ぐらいありそうなのに、身体は半分ぐらいの細さしかない。腕も手足も人間より細い。それでいて長く、ガリガリに痩せているようにも見える……その手で掴んだ車体の一部が、べこっと凹むところを見れば、見た目に惑わされる事はないだろうが。

 何処からどう見ても化け物だ。クマなんかより余程恐ろしい。

 戦うなんて出来っこない。


「ひ、ひぃっ」


 慌てて立ち上がり、逃げようとした。

 したが、身体が思うように動かせない。恐怖で強張っていて、まるで氷の上にでもいるかのように滑ってしまう。

 化け物は俺の間抜けな姿を見て、逃がす心配はないとでも思ったのだろうか。飛び掛かる事もなく、ついに車外へと出て、こちらにゆっくりと歩み寄ってくる。歩いているのに、足音は聞こえてこない。

 ヤバい、とは思う。

 だけど身体は思うように動かず、何時までも地べたを這いずるばかり。いや、仮に立ち上がったところで、この化け物がちょっと駆け出せば簡単に追い付かれてしまう。

 逃げるのは駄目だ。せめて怯ませないと……


「こ、このっ!」


 俺は辺りに手を伸ばし、掴んだ何か……多分石だろう……を化け物目掛けて投げた。狙いは目玉。上手く当たれば怯むかも知れない……

 そんな期待を抱いていたが、石は化け物をするりとすり抜けた。

 ……そりゃ確かに化け物だとは思ったけどよ。すり抜けるって、もう化け物じゃなくて、お化けとかじゃないか。

 あまりの事に唖然となり、動けなくなったと確信したからか。いよいよ化け物は俺に迫ってきた。我を取り戻した時には、化け物は俺の足をその細い手で掴む。

 メキメキと、骨が軋んだ。

 すぐに砕けたと分かるほどの激痛が、足から頭目掛けて駆け上ってくる。


「ひ、ぎぃいいいいっ!?」


 足の骨を掴んで潰されるなんて、そんな経験はした事がない。子供のように泣き叫び、手足をバタつかせた。何回かはこの化け物の身体に当たった筈なのに、実際には素通りするだけ。

 なんでだよ、コイツ俺の足を掴んでるじゃないか。俺の蹴りだけ当たらないなんてズルだ――――心の中でどう叫んでも、化け物は知らんぷり。

 ぱくりと大きな口を開け、人間のような白い歯が並んだ中身を見せてきた。

 ……コイツがなんなのか、どんな事を考えているのかなんて分からない。だけど今この瞬間に限れば、俺はコイツが何をするつもりかは理解出来た。

 食うつもりだ。

 コイツは、人食い鬼なんだ。


「た、た、たす、助けてくれぇ!?」


 誰か来てくれ、助けてくれ。そう願って叫ぶが、誰も来やしない。確かにここは山奥のクソ田舎だが、此処はゴミ捨て場だ。疎らとはいえ、周りには家なんていくらでもあるのに。

 まるで何が起きているのか知っているかのように、誰一人出てこない。

 ……ああ、そりゃそうか。知っているよな、人食い鬼だもんな。

 昔から、いるって言われていたもんな。


「ひ、ひ、ひぃ、ひっ」


 呼吸が乱れる。どうにかする方法なんて思い付かない。

 化け物の方も、時間を掛けるつもりはないのだろう。足を掴んだまま、俺の頭の方に迫ってくる。

 もう、俺にはひたすら手足を暴れさせる事しか出来ない。それも効かなくて、咄嗟に掴んだ、近くにあった空き缶を放り投げる。

 それだって痛みと混乱でろくにコントロールなんて出来なくて、何処か遠くに飛んでいってしまった。街灯周り以外は真っ暗で、空き缶が何処まで飛んだのかも分からない。


「ガァッ!」


 勿論何に当たったのか、そしてその『鳴き声』が誰のものなのかも知りようがない。

 怪物の仲間でもいたのか。そんな不安からますます俺の身体は強張ったが、緊張は案外すぐに解けた。

 化け物が俺の足を手放し、おろおろし始めたからだ。まるで何かを怖がるかのように。

 自由になった俺も、何がなんだか分からなくて、何より足が死ぬほど痛くて動けない。そうこうしていると、ガァガァという声が辺りから五月蝿いほど聞こえてくる。

 これだけ聞けば、嫌でも気付く。

 カラスだ。どうやら投げた空き缶は、木か電柱かは知らないが、寝ていたカラス達の近くに当たったらしい。獣にでも襲われたと思ったのか、カラスはパニック状態のようだ。

 ついにはバサバサと羽ばたく音がする。

 余程激しく羽ばたいているようで、鳴き声よりも五月蝿く聞こえた。すると空からひらりと、細長いものが落ちてくる。

 カラスの羽根だ。

 なんの変哲もない羽根だった。少なくとも俺にとってはそうだ。

 ところが化け物にとっては違うのか。

 化け物は声など出さない。しかし大きく飛び上がり、目をひん剥く様は恐怖と呼ぶのも生温い。さながらついさっきまでの俺のように、両手両足を暴れさせ、それでバランスを崩してすっ転ぶ。

 ついには俺の事など目もくれず、大慌てで逃げ出した。

 ……瞬く間の事だった。

 何が起きたのか。俺にはさっぱり分からない。いや、誰なら分かるのだろうか。カラスが飛び回るだけで、人を食いそうな鬼が逃げていくなんて。そもそも科学で説明出来るのかも分からない。

 それでも言える事があるとすれば、二つある。

 一つは、どうやら命は助かったらしいという事。

 そしてもう一つは。


「く、黒羽様……」


 カラスがいなければ、今頃俺はアイツの腹の中だったという事だけだ。
















 ……あの日以来、先輩は『行方不明』になった。

 すぐに警察が調べに来た。俺も当然事情聴取を受けた。そりゃあ、一緒に車に乗っていたからな。あと一応通報したし。だって何も言わずに帰ったら、俺が疑われるからな。

 取り調べには正直に答えた。訳の分からない何かに襲われた。先輩は攫われて、俺はどうにか助かった……ああ、嘘は言ってない。あれがなんなのか俺には分からないし、先輩がどうなったかも知らないのだから。

 幸いこの話は、俺も酷い怪我をしていた事もあって信じてもらえた。クマか犯罪組織かといった線で、警察や先輩の親族は今でも先輩の行方を追っている。

 そして俺はあの日以降――――十年間、ゴミ収集の仕事を続けていた。此処、元黒羽村だった地域の。

 今日は、入社して三ヶ月目の新人と一緒にゴミ収集に回っている。運転手は俺。新人が、ゴミ収集と掃除をする役割だ。


「はああ……」


 その新人くんは、大きなため息を吐いている。

 どうやらこの現場での仕事に大分嫌気が差しているようだ。そういう奴は珍しくない。ゴミ回収ぐらいと思ってやると、結構キツいからな。


「おう、デカいため息なんて吐いてどうした」


「どうしたもこうしたも……この村、誰もゴミ捨てルール守らないじゃないですか。もう夏だから、生ゴミが臭くて臭くて……」


「慣れろ。俺はすぐに慣れたし、十年もやれば誰でも慣れる」


 新人の甘えをばさりと切り捨てる。先輩は優しく励ましてくれたが、俺には真似出来ないやり方だ。

 新人はまたため息を吐く。


「そりゃあ、先輩はこの村に住むぐらいですし、平気でしょうけど」


 新人からすれば、この村に住んでいる俺の意見なんて当てにならないと思うのも仕方ないだろう。

 そう。俺は今、この村に住んでいる。

 あんな危険な目に遭ったのにどうして? 事情を知る奴がいれば、そう尋ねてくるかも知れない。確かに、俺も最初はこんな村に近付きたくもないと思った。しかし夜が来る度、前の家ではこう感じていた。

 此処にカラスはいない、と。

 十年前に出会ったアイツがなんなのかは未だ分からない。分からないが、この村だけにいるとは限らない。この村にいる事すら知らなかったのに、どうして他の町にいないと言えるのか。

 そしてもしも出会った時、助かるにはどうすれば良いのか。

 考えた末に、カラスがいる場所に行けば良いのだと気付いた。奴はカラスが苦手なんだ。だったらそこら中にカラスがいる、この村の中で暮らすのが一番安全だ。きっと、この村に移住した連中の考えも似たようなものだろう。

 何より、理由が分かれば因習やそれに伴う弊害も理解が出来る。カラスに生ゴミをぶち撒けられるのと、なんだか分からない化け物に喰われるの。どちらがマシかは、言うまでもない。


「此処の良さなんて一生知らない方が幸せだろうさ」


「……なんですそれ。哲学とか似合わないですよ」


「うるせー。俺と一緒が嫌ならさっさと配置換えを申請しろ」


 忠告したら小馬鹿にされた。やっぱ俺に先輩みたいな真似は出来ないらしい。

 そもそもこの新人は俺なんかより余程筋が良くて、テキパキと素早く散らばったゴミを片付ける。お陰で何時も仕事が早く済む。あれこれアドバイスなんてしなくても、大概の事は分かっている。

 慣れない事はするもんじゃない――――三十近くになって今更な教訓を得たところで、次のゴミ捨て場が見えてきた。

 ……だからこそ、俺は思わず生唾を飲む。


「あ、今回はゴミが散らばってないですね」


 新人が言うように、そこはゴミが道路に散らばっていない。

 つまり、場所だ。


「……ああ」


「此処が最後でしたよね。じゃあ、ささっと片付けて」


「待て」


 ようやく仕事が終わるからか、ウキウキしながら出ようとする新人を、俺は強い口調で止める。

 我ながら普段らしからぬ真面目な呼び方だったからか、新人はキョトンとしながら固まっていた。俺はすかさずコンソールボックスからあるものを取り出す。

 それはカラスの羽根だ。アクセサリー加工されたものではなく、本物の。

 これを新人に差し出す。


「よく効くお守りだ。持っていけ」


「……嫌ですよ、カラスの羽根なんて気持ち悪い。あとそういう迷信は真似もしたくないので遠慮します」


 そう言うと新人は呆れ顔になりながら、カラスの羽根を持たずに出て行ってしまう。

 俺は無理に引き止めない。

 少なくとも、俺は新人が来たら必ずこれを教えている。先輩から教わった中で、今日まで俺の命を助けてくれたあの教え。

 それを聞かなかった以上、ここで引き止めたところで、何時かそうなる。なら、無理をしても意味はない。


「因習に思えたとしても、その土地にとっては大切な風習で、意味があるもんなんだがな」


 車内での呟きを漏らす。しかしその声が新人に届く事はない。

 『何か』が新人を暗闇の中に引きずり込んだのだから。あっという間に新人の姿は見えなくなり、悲鳴が上がり、すぐに途絶えた。

 なんとも恐ろしい出来事だが、俺の心は乱れない。

 車の中でカラスの羽根を握り締める今の俺には、関係ない話なのだから。

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