はみ出たルージュを舌でぬぐって

「あっ」

 

 間抜けな声が隣から聞こえてきて、少し苛立った。助手席のあさひが、さっきからポーチをごそごそ漁って、手鏡を取り出していたから、きっとこの暗い車中で化粧でもしようとしていたのだろう。大方、口紅がはみ出したとか、マスカラが瞼についたとか、そういうところか。

 

「あーん、グロスはみ出しちゃった、ね、歩美くぅん、見て、これぇ!」

 

 ほらね。

 本当にあさひは緊張感のない奴だ。果たして僕の決断は正しかったのか不安になるから、今はそういう愚行は控えてほしい。

 

「運転中だから今は無理だよ。見てほしかったら車止めるまでそのままにしといてよ」

「わかったぁ」

 

 間延びした返事に、皮肉が通じない相手に何を言っても、そのまま文面通り受け取られるんだなと、感心すら混じった諦念に到達した。

 

 

 あさひと僕は、駆け落ち中だった。

 あさひの家族に気付かれないよう、夜中の三時にあさひん家に車で迎えに行き、今、県外の僕の家に向かっている。まあ、家賃二万のボロアパートなので、持ち家ではないから、正しくは「僕の借りている家」に向かっているか。

 

 あさひん家は結構なお金持ちで、勿論でっかい持ち家だ。弁護士の父、看護師の母、医者を目指してる兄貴も、石かつ、でっかちな頭で、偏見に満ち満ちた人たちだった。だから、僕はあさひと一緒にいるために、あの家から連れ出す他なかったのだ。


「あさひ着いたよ」

「ここが歩美くんのお家なのね! 可愛い!」


 何が可愛いのかと問えば、サイズ! と返ってきて、こいつはやっぱり生粋のお嬢様育ちなんだなあと頭が痛くなる。

 いいかい、あさひ。この君の家より小さいアパートの、一室だけが僕らの住むところなんだよ。


「すみませんね、お嬢様のお部屋より狭い家に連れてきてしまって」

「そんなことより、ほら、はみ出してるでしょう?」


 ん! と、つき出された可愛らしい唇は、暗いから何色に塗られたのかも、どこらへんがはみ出してるかわからない。


「んっ、なんでチューするのぉ!」

「これではみ出たとこもとれたんじゃない? まあ、はみ出てないとこもとれたかもだけど」


 僕は、一人称こそ「僕」だが、心身ともにれっきとした女だ。ただ愛した相手が同性であっただけ。そのことを、あさひの家族に知られた時、まるで法律違反をしたかのような反応と言葉を投げつけられた。


 あさひは、今までお付き合いしたことがあるのは男だけで、僕が初めての同性の恋人だったらしい。


「歩美くんは、今まで付き合った男の子と違って、あさひに優しいから大好き!」


 こんな馬鹿みたいな言葉を真に受けて、僕にはこの子しかいないなんて思うくらいには、あさひに夢中であった。


 かわいい、あさひ。

 少し頭が弱くて、股が緩かったあさひ。

 そんなあさひが可愛くて堪らず心配で、きつく家に縛りつけて歪んだ愛情を注ぐ家族と、それが苦しいあさひ。

 本当は、兄のせいで性行為に抵抗があるあさひ。

 僕が男になりたい女だと勘違いしているあさひ。

 そんな僕なら、他の男と違って性行為を強要しないことを知っている打算的なあさひ。

 そして、そんな僕が、過保護で窮屈で苦しくて堪らない実家から自分を連れ出してくれると信じて疑わないあさひ。

 かわいそうな、あさひ。


 これから君は、思い知るんだ。

 人間は、あったものが失くなるのが一番辛いということを。

 僕から与えられる愛は、君の生活水準を保障できない。今までみたいに二、三回使ってどこに置いたかわからなくなった口紅を、気軽に買い足せる生活が終わるのだ。


「いいよぉ、また塗り直すから」

「……またはみ出したら、僕がぬぐってあげるよ」


 屈託なく笑うあさひは、これからの生活が幸せなものになると信じている。

 きっと、ここから終わりに向かうと、心の中で思っている僕との生活を。


「今度は、真っ赤なルージュにするよ」


 そしたら、チューしてもなかなかとれないから。

 そう言ってまだ、紅を塗り直していない唇が頬に触れる。

 

 好きだ、あさひを失いたくない。


 込み上げる不安を押し退けた、紛れもない自分の今の本心に、泣き出しそうで、声が上擦らないように注意して


「行こう」


と、あさひの手をとった。困ったように


「痛いよぅ、歩美くん」


なんて、あさひに言われるくらい、離すまいと強く握って。

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