姉妹喧嘩は、ピエロも笑えない
「あ」
大学構内のカフェのレジの列で、たまたま元カノが自分の前に並んでいることに気が付いた瞬間、思わず間抜けな声を漏らして、こちらを振り返った彼女に睨まれた。あ、この場合の「彼女」はあれね、ラバーじゃなくてシーの方ね。
相変わらず目に痛い茶髪と甘い香水、そして目新しい毒々しく真っ赤な爪。睫毛も、それ、マッチ何本乗るのっていうくらいに反り上がっていてちょっと笑ってしまったら、益々眉間の皺が濃くなった。
「なに? 喧嘩売ってるの」
「いやいやいや、久しぶりだなって」
彼女、里佳とは数ヶ月前までは恋人だった。そして数日前まで彼女の妹と恋人関係にあった。そう、つい先日まで。
「ふうん、そういえば、どうなの? あのじゃじゃうま」
「え? ああ、美佳ちゃん?」
実は一昨日別れたんですよ、という台詞をぐっと飲み込んで曖昧に返事をした。
里佳とは自分の下宿先と彼女の実家が近く、サークルが同じで仲良くなった。仲良くなるうちに、仲の悪い妹に家庭教師を探してるといわれ、家も近いし、まあいいかと引き受けた。
彼女の妹は、彼女にそっくりな顔と声と、そして姉に対する強烈なコンプレックスを持っていたのだ。
勉強中も、休憩中も何かにつけて、姉の大学生活について尋ね、それをどうにか否定するということを楽しみにしていた。うん、なかなかの性悪だ。
まあ、仲が悪いと知りながら「お姉ちゃん子だね」なんて言いつつ、里佳の話を聞かせた自分も大概だけれど。
そんな中、僕はとうとう里佳と付き合うことになった。付き合う前から薄々は気づいていたけれど、里佳のプライドはそれはもう高く、たびたびそのせいで喧嘩になった。
そして僕は美佳の授業中に零してしまったのだ。
「君のお姉ちゃんは、本当に疲れる人だね」
と。
その時の彼女の輝いた目といったら。付き合ってからは一度も見ることは叶わなかったけど、キラキラと輝かせた目で、得意げに言った。
「先生も、わかるのね」
その日から彼女の猛アピールは始まってしまったわけだが、僕は何となくいい気になりながら里佳とも付き合いを続けていた。里佳は美佳のアピールに気づいていたのか、僕に対して少し優しくなり、喧嘩の数もその頃は最初に比べてだいぶ減っていただろう。
自分でも嫌な奴だと自負しているが、二人の女に言い寄られ、悪い気はしなかった。
そんなある日だった。里佳が髪を明るい茶色にしてきたのは。
別に根っからの黒髪信仰だったわけではないのだけれど、なんだかその明るくなった髪と、それが似合う化粧に、僕は不信感を覚えてしまったのだ。
彼女らはそっくりだそっくりだと思っていたが、やはり別の人間なわけで里佳は黒髪よりも茶髪が似合い、美佳はそのままの黒髪が似合っていた。
もやもやとした気持ちを抱え、美佳の授業に来た僕を、彼女は見逃さなかった。
「ねぇ、せんせ? おねーちゃんがなんで茶髪にしたか、教えてあげよっか」
それはもう、的確な所作と声色と、タイミングで、
「あのね、こないだおねーちゃん本屋で雑誌を立ち読みしてたんだぁ。その内容が、目指せ! 小悪魔ガールっていう特集でね? あの人、先生以外の男に媚びてるのよ。見たでしょ? あの明るい髪の色。他の虫をおびき寄せるための灯りなんだよ」
今考えたら、まったくもってそんなことを里佳は思っていなかっただろう。ただ、美佳はうまかった。僕の心の隙間を見つけ、そして広げ。いとも容易く入ってきたのだ。
「おねーちゃんはね、たぶん先生のことが好きなんじゃなかったんだと思う。あの人は私の欲しいものを欲しがる人なの。だっていつも私から奪っていくのよ、無意識にね。だから私はいつも私のものを取り返さなくっちゃならなくなるの。ねぇ、せんせ」
先生のことも、私の方が先に好きになったのに。
首に回された腕も、揺れる黒髪も、シャンプーの匂いも。計算され尽くしたもののはずなのに、僕は里佳の茶髪と香水の香りの方を嫌悪した。
そして里佳に別れを告げる前に、彼女は僕を制止して言った。
「こっちから願い下げよ、あんたが黒髪信仰のヤバい奴だってわかったから。どういう神経してるかわかんないけどね。普通彼女の家でどうどうと妹に手出すかしら。ま、いいけどね。
あんたにもう、一ミリも興味ないから」
そう言って、彼女、里佳との関係は破綻した。しかし、里佳との関係の破綻は美佳との関係の終わりでもあった。
美佳は姉のものじゃなくなった僕に、一切の興味をなくした。やっと僕は気づいた、僕は、姉妹喧嘩に巻き込まれただけの、ただのピエロだったのだと。
「で? また家でよろしくやってるわけ? やめてよね不愉快だから」
「いや、うん、別れましたよ一昨日」
え、と一瞬びっくりした顔をして、すぐに彼女は無表情に戻った。
一昨日、彼女の部屋で突如言われたのだ、別れましょう先生、と。
「どうして?」
一昨日の僕と同じ台詞を里佳は口にし、そして僕は一昨日の美佳と、数ヶ月前の里佳と同じ台詞を口にした。
「僕に『もう、一ミリも興味ない』んだってさ」
やっぱり、姉妹だね、と精一杯の反撃を喰らわした僕に美佳は激昂したが、里佳はにやりと口角を上げて、
「あら、お似合いだったのに」
と勝利の笑みを浮かべたのだ。
この笑みを僕は知っている。そして「やっぱり姉妹だ」という言葉を奥歯で噛み殺し、彼女の綺麗に塗られた赤い爪を見詰めていた。
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