グッバイ赤い靴


 今日、赤い靴を捨てた。

 お気に入りだった、かかとが低めのキトゥンヒール。テカテカしたエナメル素材と、キュッと細く華奢なヒール部分、そして何よりその真っ赤な色に一目惚れして、勢いで購入してから早一年。

 

 ある日を境に、晴れの日も雨の日も雪の日だって、それこそ童話の『赤い靴』の少女のように、毎日同じ靴を履いた。とは言え、私は彼女と違っていい大人なので、まあ、さすがに冠婚葬祭はTPOを弁えた靴を履きましたけれど。

 

*

 

 それくらい、お気に入りだった靴を捨てた。ゴミ袋に詰めて、日常生活において排出された何の思い入れもないゴミと一緒に廃棄した。

 ゴミ袋に入れる前、まじまじと近くで眺めたその靴は、全体的に白くて細かい傷が付き、ところどころ赤い塗装が剥げて黒い色が見えていて、立っている時に見ていた筈の赤くてエナメルがピカピカしていた靴と同じとは思えなかったものだ。

 

 遠くから見た時は、まだまだ綺麗だと思っていたのに、こんなにボロボロになっていただなんて。

 遠くから見てる時は良かったのに、近付いたらがっかりするなんて、まるで彼にとっての私みたいね、と悲しくなった。

 

** 

 

 靴を捨てた数時間前、私は彼に捨てられた。その時、彼に言われた台詞はこうだ。

 

「お前も、距離が縮まるまでは、素敵な女だと思ってたんだけど」

 

 彼は、「だけど」の続きは言わなかった。しかし、言わなかった言葉が私を否定的に表すものだということは明白だった。

 思っていたものと違う。それは、腹が立つことだし、期待を裏切られたと思うことだろう。しかもそれが、思っていたものよりも悪いものであればなおのこと。

 

 彼は私に「素敵な女」を期待した。しかし、私は彼の期待する「素敵な女」ではなかった。だから、捨てられた。

 それはとても単純で、明快で、そして残酷な理由だ。

 

*** 

 

 私は、思い描いていなかったこと、しかもそれが予想外の悪いことだったとしても、好きなものであったなら丸ごと愛せた。だって、私はそれが本当に「愛する」ことだと思っていたから。


 例えば、この赤い靴。キトゥンヒールとは言えヒールだし、しかもピンヒールのように細いかかとだから、歩くと足が痛くなった。長時間歩くと靴擦れができて痛かったし、しかも、足の形が徐々に変わって、外反母趾みたくなった。

 真っ赤な色も、着ている服には合ってないことの方が多かったかもしれない。

 それでも、この靴が好きだった。好きだったから痛みも我慢できた。


 彼のことも一緒だ。好きだったから、酷いことを言われても許した。好きだったから、寂しくても責めたり我が儘を言ったりしなかった。彼は、そんな私の愛を「自分がない」と表現した。

 

**** 

 

 そもそも、どうして赤い靴を捨てたかですって? それは、あの子が壊れてしまったから。それは何の比喩表現でもなく、ボッキリかかとが折れてしまったのだ。

 途方に暮れて、折れたかかとと、かかとのない靴を見詰めていた私に、彼は吐き捨てるように言った。

 

「いや、もう使い道ないじゃん。さっさと捨てなよ、見ててイライラするからさあ」

 

 彼は、壊れたものは直そうとはせず、捨ててしまう派だった。そして、新しいものを買ってくるのだ。

 でも、でもね。

 

「これは、あなたが素敵だって言ってくれたものだったから」

 

 私が足を痛めながら履いていたこの赤い靴を、あなたは

 

「大人っぽくて素敵だね」

 

って言ってくれたの、私はずっと、覚えているの。それが誇らしくて、あの日から、馬鹿の一つ覚えのように、毎日履いたのよ。

 彼は、うんざりしたように、

 

「俺そんなこと言った? いや、言ったとしても、なにそれ、重すぎ。だから、嫌なんだよ、重たい女は」

 

なんて、酷い言葉を投げ掛けながら、私に手を差し出した。

 

「なに?」

「鍵、返して、ここの合鍵。別れよう、今ので完全に冷めた。もっと軽やかでないと、女は。お前も、距離が縮まるまでは、素敵な女だと思ってたんだけど」

 

 それは、あなたが今、私に隠れて付き合っている女の子みたいに? そんな言葉を飲み込んで、私は

 

「わかった」

 

と言いながら、彼の家の合鍵を返した。

 

***** 

 

 本当は捨てたくない。けれど、この子を捨てないと、前に進めないと思った。だから、ゴミ袋に詰めた。この子は、赤い靴は彼への想いの象徴だった。丁重に葬るのではなく、手元に置いておくのではなく、ゴミとして手放すことを選んだ。もう、彼に未練を抱かないように。

 そう頭では思っているのに、折れたかかとだけはどうしても捨てられず、そっと鞄に忍ばせた。

 

 その行為が、本当は彼と別れたくないという証拠だということは、見ないふりをして。

 

******

 

 靴の始末をして、私は私物を片付け始めた。そんな私を気に止めることもなく、彼はケータイを触っていたが、時計を一瞥して、時間が夕飯時なのを確認した途端、

 

「お前のものは適当にあとで宅配便で送ってやるからさ、何か作ってよ晩飯。これがいわゆる最後の晩餐ってやつだな」

 

と言った。私はのろのろ立ち上がって、台所へ向かった。

 彼は、女たるもの、かくあるべき、という理想が強い男だった。料理は女が作るもの。掃除は女がするもの。

 それは、別れを告げた後でもお構い無く適用されるもののようだ。

 

 いつからか、私は彼の唱える男女の理想像を聞くだけで、胃が痛くなった。彼のことを考えるだけで胸が締め付けられる。それは決して、恋の病ではなく、過度の緊張で呼吸がままならなくなり、脂汗と涙が止まらなくなった。

 それでも、私の体全部が彼を拒否しても、心だけは彼を愛していた。だから、足からどれだけ血が流れようと、足の形が変わろうと、赤い靴を履き続けた。無理して履いて、無理して歩いて、無理がたたってあの子は壊れてしまった。

 

*******

 

 元々、赤い色が好きで、口紅も真っ赤なのに憧れた。けれど、勇気が出なくて、真っ赤な口紅は買えなかった。鞄も、コートも、ワンピースだって、どれも真っ赤な色のものに憧れたけど、こんな自分にはそれらを身に付けるのは分不相応だと思えて、買うことすらできなかった。

 だけど、あの靴は、初めて勇気を出して買った、そして履いたのだ。そして、彼はそれを褒めてくれた。それだけで幸せだったのに。

 

 ぼんやりそんなことを考えながら包丁を使っていたものだから、誤って指先を切ってしまった。滲んだのは、私の好きな赤だ。

 そっと唇をなぞった。ああ、これで私、真っ赤なルージュを塗ったみたく、綺麗になっているんじゃないかしら。そんな馬鹿みたいな妄想を抱いた瞬間、私を襲ってきたのは怒りの感情だった。

 

********

 

 どうして、私ばかり大切なものを奪われないといけないの。ずるい。彼はずるい。私はあの子を失って、彼のことも失うのに、彼は何も失わない。そんなのおかしい。許せない。許さない。許さない。私だって奪ってやる、彼の大切なものを奪ってやる。

 彼の大切なものって何かしら。

 ああ、そうね、そうよ。それがいいわ。

 

 彼の大切な「男としての尊厳」を奪うのがいいわ。

 

********* 


 彼の言う「最後の晩餐」には、私が処方してもらった眠剤と、睡眠導入剤をたくさん混ぜこんだ。彼は何も気が付かず食べて、そして私に早く出ていくように言った。私が一口も食べていないことは気にもならないようだった。

 私は彼に自分のものの片付けだけさせてほしいと頼み込んで、渋々了承を得た。

 彼が一人で最後の晩餐を終え、その後片付けをしてリビングに戻ると、ソファーでうとうとしている彼の姿を見詰めた。

 

「眠たいならベッドで寝たら? 鍵はもう返したから、荷物をまとめたら勝手に出ていくから」

 

 耳元でそう声を吹き込めば、彼は素直にベッドで横になった。無防備に肢体を投げ出して。

 

 荷物をすべて纏めあげた後、ベッドに横たわる彼を見下ろした。

 仰向けに寝ている彼の、男としての象徴を見詰めながら、右手に折れたかかとを持って、力を込めた。

 

「さよなら」

 

 私の想いを踏みにじって壊した彼が、とても大切にしていた「男」としての尊厳を、踏みにじって、壊してくれと祈りと怒りを込めながら、かかとを振り下ろした。

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