アカンサスのトラゴーディア
アカンサスの花が咲く頃に、僕はいつも思い出す。僕の心を締め付け続ける、一生ほどくことのできない、固いかたい罪の結び目を。
◇
「ねえ、ルーカス、見て頂戴? 私のアカンサスの花がこんなに綺麗に咲いたのよ」
エマノエルにも自慢しなくちゃ、と無邪気に微笑む自分の婚約者になんとも言えない気分になってしまった。
アカンサは、僕と彼女の幼なじみであるエマノエルに好意を寄せていた。それに対しエマノエルも、そしてこの僕も彼女を、アカンサを愛していたのだった。
こんなチープな三角関係は、なんの悲劇性も生まず、貧しい暮らしのアカンサを富豪な僕が娶るという形で収まった。エマノエルはアカンサほど苦しい家計ではなかったが、芸術家という安定しない職業も手伝ってか、アカンサと僕の幸せを何一つ咎めることもなく祝福してくれたのだ。
婚約も済ませ、式の日取りも決めて恙無く、滞りなく進む幸せへの道のりに、僕はすっかり浮かれてしまっていた。けれど、心の奥底では、金に物を言わせて二人の中を裂いたことに罪悪感を覚えていたのかもしれない。
「ねえ、ルーカス? 顔色が悪いわ、大丈夫? 式は明日なのよ」
心配そうなアカンサに、大丈夫だと笑って、君こそ準備はできているのか、と尋ねたら、
「任せて! 準備万端よ、きっとあなた、私の晴れ姿にうっとりしちゃうんだから」
と、笑顔で答えてくれた。それは何より僕を、罪悪感や不安から救ってくれる微笑みだった。
「今からエマノエルのところに明日の打ち合わせをしに行くつもり。未来の大物芸術家が手がけたティアラを、あなたとの結婚式で身につけられて、私、幸せよ」
まだ駆け出しで無名の芸術家だけれど、他でもない幼なじみの結婚式だから、是非自分にウエディングドレスに見合うティアラを作らせてほしい。ささやかながら、祝福の印にと、彼は言ってくれた。
そこまでしてくれる幼なじみの友人に対して、感謝の気持ちだけではなく、まだアカンサのことが好きなんじゃないのか、と疑いを抱いてしまう自分は本当に矮小だが、やはり心配なものは心配で、僕はこっそりとエマノエルの元へ向かうアカンサの後をつけていった。
「綺麗だよ、アカンサ。明日の式が楽しみだね」
「ありがとう、エマノエル。私、ううん、私たち、きっと幸せになるわ」
「そうしてくれよ。そうでないと、僕も幸せになれないからね。君とルーカスの幸せ以上に、僕にとっての幸せなことはないよ」
出来上がったティアラを載せたアカンサは本当に美しく、窓から盗み見ながら思わず見惚れてしまった。ティアラは彼女の美しさをこの上なく引き出しているように感じられて、きっとエマノエルの彼女に対する想いの深さを表しているのだろう。
そして、僕は自分を恥じた。自分たちを祝福してくれている友と、幸せを信じて嫁いでくれる彼女を疑っていただなんて。
二人に見つからないよう、帰ろうと踵を返したその時だった。アカンサの悲鳴が聞こえたのは。
「どうしたんだ! アカンサ! エマノエル!」
僕は慌てて、エマノエルのアトリエに駆け込んだ。
「やあ、ルーカス」
いつもと変わらない呑気な挨拶をする彼の手には、赤く染まった石切ナイフと三本の傷跡があった。
「これ、綺麗だろ? アカンサが引っ掻いて作ったんだ」
愛おしそうにその傷を撫でるエマノエルの視線は虚ろなまま、床に落とされている。
何を、見ているのか。アカンサに何かあったのか。そもそもアカンサはどこにいる? その傷が何だっていうんだ。手に持っているそれは、何に――。
様々な疑問が喉につっかえて出てこない。それくらいカラカラに乾いた喉で、アカンサは、と絞り出すと彼は漸く目線を上げた。
「何言ってるんだ、ルーカス。そこにいるじゃないか、ほら。いっつも君は僕の欲しいものを持ってる。そのくせ、僕の持ってるものばっかり欲しがっただろ? 玩具も、本も、アカンサも。だから返してもらったのさ。僕が好きだった、僕を好きだった頃のアカンサを。このアカンサはもう君を好きになった彼女じゃない。戻ったんだ、僕のアカンサに。僕は彼女にそのティアラを贈った。そしてこの傷が彼女のお返しさ。
わかるかい、ルーカス。これは彼女からの最期の贈り物で、それを受け取ったのは君じゃなく、この僕なんだ」
そこまで聞いて、次に我に返った時には、床に転がる赤い肉塊は二つになっていて、自分の手にエマノエルの石切ナイフが握られていた。
◇
エマノエルとアカンサは二人で逃げおおせ、愛の逃避行をまんまと成功させたのだと周りの人々は僕に同情した。
僕はエマノエルがいなくなったアトリエの敷地を買い取り、アカンサスの花畑を作った。可哀相に、花にアカンサを重ねて自分を慰めているのだろう、彼女はあの花が大好きだったからと、誰も僕の行為を不審がったり、咎めはしなかった。
薄いピンクや白、ベージュの可愛らしい花は、まるでアカンサをそのまま表しているようで、僕の心を癒してくれた。
ただある一カ所、毎年何かを吸い取ったように一輪だけ赤く咲くアカンサスの花を見る度に、僕のこころはじくじくと締め付けられるのだ。
あの花びらの『赤』は、あそこに埋まっているからこそ真っ赤な花びらを開き、そして。未だ僕を恨んでいるだろうか。
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