杜審言

 傲慢の天才にして方外十友・文章四友・張易之左遷組の一員、杜審言についてざっくりとまとめます。



○基本情報

杜審言としんげん(六四六?~七〇八)

字は必簡ひっかん。襄州襄陽の人である。

晉の杜預の末裔にして、盛唐の杜甫の祖父。



○人物像

傲慢の一言に尽きる。文章四友・蘇味道への放言(文章四友の項目参照)だけでなく、王羲之や屈原・宋玉をも下に見た発言等、自分の才能を鼻にかけることに余念がない。

傲慢が過ぎるために同僚との折り合いも悪く、左遷先で冤罪にかけられて殺害されそうになった。その際、当時一三歳の息子が冤罪の首謀者を殺害し、息子もその場で殺害される。子は孝行息子だったようだ。

また、武則天に召し出されて起用されようとなったとき、嬉しいかと問われた杜審言は三拝九拝(何度も頭を下げる)したとされる。しっかり媚びるところは媚びる。


このとおりとてつもなく嫌われているかと思いきや、方外十友や文章四友とは長らく親交が続いており、上記、吉州に左遷される際の送別会には四五名もの詩人たちが参加した。ちなみに代表して送別序を書いたのは陳子昂である(「送吉州杜司户审言序」)。

付き合いの長い宋之問は、死に際の見舞いや遺児の養育等何かと杜審言を気にかけていた模様。杜審言の祭文も宋之問が作ってた。君たち仲良いね?


また杜審言の特筆すべきエピソードとして、文章四友の崔融が亡くなった際に喪に服したという話がある。



○官職時代

杜審言は六八九年頃から洛陽丞となったが、六九八年頃に罪に触れて吉州に左遷。上記の事件を経て洛陽に帰った。

武則天に献上した詩が気に入られ、 著作佐郎、膳部員外郎(従六品上)に上がる。 



○左遷組解体

七〇五年、パトロンの張易之が処刑されるのに連座して流刑になる。流刑地はベトナム北部の峰州。

ややあって都に帰り国子監主簿(従七品下)となる。その後、七〇八年に修文館学士となるも同年に亡くなる。李嶠らの願い出により著作郎(従五品上)を追贈される。

亡くなる前、宋之問と武平一が見舞いに訪れると、だいたい次のように言った。

「僕は神様が作ったあらゆる苦しみを味わい尽くしたんだ。その上で何を言うべきことがあるだろうか? だが僕が生きている間は、長らく君たちの頭を押さえつけていたね。今僕が死に行く身でほっとしただろうが、僕の後釜になる人間がいないことが残念だよ!」


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