宋之問
初唐を代表する詩人にして方外十友・張易之左遷組の一員、宋之問についてざっくりとまとめます。
なお、宋之問に関しては史実が多いため、とりあえず人物観に焦点を置いてまとめています。官職等の事跡については参考文献にある高木論文もしくはWikipedia・百度百科を見てください(丸投げ)。
○基本情報
字は
宋之問と
容姿が優れていたとされ、官職時代は奉宸府(武則天が作ったハーレム部署)に所属していたこともあった。しかし性格は後述の有様である。
○人間関係
父・
方外十友の一員。
張易之左遷組の一員。
ここで触れられていない関係も多く、弊歴史創作で最も交友関係が広い男である。
○人物評
宋之問の性格は卑劣であった。それが窺える逸話は以下のようなものがある。
・閻朝隠と一緒になってパトロンの張易之に「溺器」を奉じる(察してください)。
・張易之の失脚に連座して左遷されるも、半年後に左遷先から脱走し洛陽に戻る。
・その際に匿ってくれたパトロンが武三思を謀殺しようとしているのをしるや否や兄の子(諸説あり)を使って通報し、自身の罪を免ぜられる。
・獪險盈惡(狡賢く悪事を重ねた)の罪により左遷される。その約半年後に死を命じられるがその際、死ぬことに動揺するあまり妻子に言葉を残すこともできなかった。
・従兄弟の劉希夷が詠んだ一句を所望したが断られ、従者を使って暗殺させた(これは逸話の性質が強い)。
など。
しかしながら、宋之問の人物像を一辺倒に片付けるわけにもいかない。
方外十友との交友(趙貞固の項に詳しい)や、張易之に連座して左遷される際に壁に書きつけた詩(「至端州驛見杜五審言沈三佺期閻五朝隱王二無競題壁慨然成詠」)、杜審言の遺児を養育していた点などからは友人たちへの情が確かに見受けられる。
また、高木(一九八七)が「彼がみずから敬慕する初唐の四傑の不遇の轍を踏むまいとすれば、彼には権倖に阿附するしか道が残っていなかった」と指摘していることを勘案すれば、宋之問の人間性が官界で過ごすうちに歪められていったことは想像に難くない。
しかもその時期はちょうど長安二年(702)頃、奇しくも趙貞固、陳子昂を見送った直後である。
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