陳子昂
初唐文壇の革命家にして方外十友の一員、陳子昂についてざっくりとまとめます。
○基本情報
字は
地方豪族の息子。父親の影響で昔から道教に興味があった。これは晩年、官職を辞めたくなってくる頃に強く意識するようになる。
容姿はぱっとしないが背丈が高かった。また、喘息気味で病気がち。
○親友・
陳子昂は天下によく知られた有名人だったが、それを自負して尊大ぶることはなかった。太っぱらで意志の強いひとではあったが、しかし決して人に逆らったことはない。施しをよくしたが、報いは求めなかった。酒はたしまなかったが、意気投合する人とあうと、たちどころに酔った。文を作るのが上手だったが、みだりにはかかなかった。その言わんとするところは王道と覇道の大略にのみあったが、同じ時代の人にはそれがわからなかった。
○人物像
上記のとおり謙虚で誠実な人物。
官職に就いてからは、自身より上の立場の者に対しても「歯に衣着せず正邪を論じ」ることが多く、正しさへの固執、あまり融通が効くタイプではなかった様子が伺える。しかし、陳子昂の政治的視点の根幹は「人を安んずる」ものであった。
○青年期
陳子昂は豪族の息子で、昔は血気に任せて振る舞っており十七〜八歳まで書物に触れたこともなかった。
ある時、村の学校に入ったことで自らの無学を知る。それをきっかけに門下の居候たちを追い出し、ひたすら古典の勉強に打ち込んだ。やがて数年の間に経書史書及び諸子百家の書をほとんど読みつくした。
大変上手に文章を作り、この時点で既に司馬相如や楊雄の風格があった。最初に詩を作った時、幽州の王適という人物がその詩を見て驚き、「この人は将来必ず文学の大家となるだろう」といった。
○上京
二一歳で初めて東の咸京(長安)にやってきて中央の大学に遊学し、多くの有名人を歴訪した。恐らくこの時期に方外十友と交流を持ち始めている。なお、この時陳子昂は洛陽での貢試に落第し、長安を経由して一度蜀に帰郷している。
陳子昂が進士の試験に優秀な成績で及第した頃、高宗大帝が洛陽宮で崩御し霊柩車が長安に帰ろうとしていたので、陳子昂は朝廷に書を奉った。書を見た中宗の宰相に召し出され「梓州の人陳子昂は、身分家柄すぐれ才気ある人物であり、その文章は立派である」と麟台正字の官を授けられた。
当時、洛中の人々は彼の書を書き写し、それがあちこちで売られたり吟誦されたことで遠くの地まで飛ぶように広がり流行した。
○官職時代
皇帝はしばしば陳子昂を召し出して政治について下問し、彼は歯に衣着せず正邪を論じたが、上奏文はそのつど取り上げられることはなかった。
継母の喪のために官を辞め、三年の喪が明けると右拾遺に任ぜられた。
宮仕えはしていたものの黙々として楽しまず、秘かに辞職したい意向を持っていた。
契丹の謀叛に際しては勅命によって幕僚となり作戦参謀となったが、この征伐においても上官に(正直な)諫言をしたために役職を下げられている。
○帰郷
兵火がやんでから、年老いた父への孝行を尽くしたいことを理由に辞職を願い出た。天子はそれを好ましく思い、陳子昂は在官待遇のまま帰ることを許された。
そうして射洪の西山に質素な家をかまえ、樹を植え薬草を採取して父に仕える日を送った。
陳子昂は「国史」が整理されていないことを残念がっており、その整理を検討していた頃に父が亡くなってしまう。書物は中断したままになったうえ悲しみのあまり痩せ衰えてしまった。
○非業の死
この地の県令は欲深くむごい人物であり、財産家であることに目をつけられた陳子昂は無実の罪を着せられ、金銭を要求される。
豪胆な人物であった陳子昂だが、父の死による精神的衰弱もあり、この要求を拒むことができなかった。しかし、金銭を支払ったにも関わらず陳子昂は捕らえられてしまう。
杖をついても立ち上がることが出来ないほど弱った陳子昂は、獄中で自らの運命を占い、卦が出たのを見ると「天は助けてくれない、自分はもうおしまいだ」と言い、天を仰いで絶命した。四二歳であった。
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