青い傘
職場からの帰り道、バケツをひっくり返したように雨が降り出した。
慌てて近くの商店の屋根の下に避難する。
営業していれば傘を買って難を凌げたのだが、間の悪いことに今日は週に一度の定休日らしい。
鞄からハンカチを取り出して濡れた髪や体を拭いたけど、雨足はどんどんと強くなる。
もう少し待って弱まる気配がなければ走って帰るしかない。またびしょ濡れ。ハンカチの使い損。溜め息がこぼれる。天気予報大はずれ。最近ついてない......。
雨足が少しでも弱まることを期待してしばらく端末をいじって時間を潰したが、一向に弱まる気配は無い。
観念した私はそれを鞄にしまい、これから自分が行かねばならない道を睨みつけた。
こういうのは勢いが大事。ぬるっと行くとざあざあと降る雨に押し負けてしまう。
いちにのさんで飛び出して、そこからノンストップで駆け抜ける。私ならいける。
一人でぶつくさと呟いて一歩目を踏み出そうとした瞬間視界の隅に人が入り込んできた。
飛び出そうとした勢いとそれを無理矢理に押さえ込んだ反動で私の体は不安定に揺れる。
私の挙動に驚いたのか、その人は足を止めた。
見ると青い傘をさした女性。きょとんとした表情で私を見ている。雨音のせいか、全く気配を感じなかった。もしかして独り言も聞かれた?恥ずい。やべえ女だと思われただろうか?
「ご、ごめんなさい。傘を忘れちゃって、雨宿りしててそれで走り出そうとしたらちょうどあなたが」
しどろもどろな弁解をしていると彼女は目を丸くして満面の笑みを浮かべた。
まるで十年来の友達にでもあったかのような、ぱあっと咲くような笑顔。
あれ、知り合い?と思い改めて彼女の顔をまじまじと見たけど、全く記憶に無い顔。まるで知らない人。だと思うんだけど。
いや、もしかしたら向こうが勘違いしてる?
いずれにせよこのまま無言は気まずい。
こういう時には日本人全員が習得している無難な言葉で事なきを得るか。
「あ、あの以前どこかで」
お会いしましたかね...という言葉はどんどんと先細り、しまいに雨音にかき消されてしまった。
彼女の大きな瞳の中に、私自身が鮮明に映り込んでいる。
ちゃちな合成写真のようではなくて、彼女の黒い瞳の内側、空洞になった硝子体の中に私が居て、角膜の窓からこっちを見ているような、不思議な...不思議な光景。
鼻の頭に何かが当たる。我に帰ると彼女の顔が眼前にあった。
わ。と声を上げ両の手で体を庇うようにすると、彼女は跡形もなく消えてしまった。
ぼん。と彼女の青い傘が開いたまま地に落ちる。
えっと、なに?頭の中をなんとか整理しようとしたが強い風。
風をはらんだ傘の体がふわっと浮く。私は咄嗟にそれを手に取り骨が折れないように傘の頭で雨風を受けた。
持ち手はじんわりと暖かかった。
目の前でぱっと消えた幻のような女性。その人の温もりが残った傘。幽霊?でもその幽霊の握っていた傘を私も握れている。本物の傘を握った幽霊?もう何がなんだか。
靴の中に雨が染み込み冷たさが這い上がってくる。考えるのは後だ。いや、後でいいのか?
もやもやとした頭のままで、私は走り出した。
✳︎
傘をたたんでエレベーターのスイッチを押す。私は畳んだ青い傘を入り口の隣に立てかけた。
この傘のおかげで雨風を凌げたのはありがたいけど、幽霊かもしれない女が使っていた傘を持っておくのは気味が悪過ぎる。
これはここに置いていこう。誰かが持っていくか、処分してくれるだろう。
でもありがとう。あなたのおかげで私はぬれずにすんだぞ。
不意に近くの部屋のドアが開いて、中年のおばちゃんが出てきた。
私は今置いた傘を、そのまま置いておけばいいものの反射で拾い上げてしまった。
「あらー!○○ちゃんじゃないの」
「こ、こんにちは」
この人はおしゃべり好きで有名なおばちゃんで、この人の話に付き合っていると日が暮れてしまうから即刻逃げろ。というのが、このマンションの住人の掟だ。
適当に相槌を打って凌いでいるとエレベーターが到着した。
「すいません!これで!」と話を切り上げると、私はエレベーターの中に体を滑り込ませた。
離脱成功。とそれは良いのだが、手にはまだ例の傘を握ったままだ。
まあ、少しタイミングがずれただけ。この傘はエレベーターの中に置いていこう。
かちり。と体が固まった。背後にぴったりと張り付くようにして誰かの気配。
ゆったりと、私の両腕の上から体を包むようにして青白い腕がニ本回り込んできた。片方の手の指が私の顎に添えられくっと持ち上げられる。
エレベーターの窓に映ったのは私と、さっき目の前で消えた女。
私の顔のすぐ横に女の微笑みが並んでいる。
窓に映っている女と目が合ってしまった。そしてまた、瞳の中を見てしまった。
硝子体の中に今度は私と女が一緒に入っていて、窓からこっちを見ている。
同じ空間に閉じ込められたような、捕えられてしまったような気がして私は「もう逃げられない」と悟った。
女が私の頭を自分とは反対側にゆるく傾ける。首の左側がぴんと張る。
このまま首をへし折られるんだろうか?
怖くてたまらないのに、体はぴくりとも動かず涙も流せない。
女が私に見せつけるようにして口を開いた。
真白い歯の列。ニ本の鋭い犬歯が見える。
あ、違う。噛まれる。
女の顔が前方に倒れ、淡い痛み。
固まった体の中でぐっと押し込められていたものを全て吐き出すかのような、絶叫。
半ば私の体を支えるようにしたりと張り付いていた女の気配が消え、私は尻餅をついた。
体が動く。エレベーターは私の部屋がある階に到着していた。
私はほとんど這うようにしてエレベーターから脱出した。
振り返ると扉がゆるっと閉まり、階下へとおりていく。
強張った右手の中には未だに青い傘。
一体化してしまったように傘を握る手をもう片方の手で引き剥がして遠くに放る。
よろよろと立ち上がり、左の首筋に触れる。
血は出ていない。けど、なんだろう。
火傷のようにずくずくと疼くような感覚がある。でもこれは痛みではなくて...
腕、それと背中も。彼女が触れていた部分全てが同じような熱を帯びている。
恐怖心が薄れていく、いやそれによって掻き消されているだけだ。誤魔化されているだけ。
痺れが全身に広がり脳まで達する。
頭蓋骨の中身が真綿に変わっていくような感覚。
私はふわふわと青い傘に近寄り、それを拾い上げた。
このままだと彼女を部屋に招き入れることになる。取り憑かれてしまうかもしれない。人生が一変してしまうかもしれない。
さっきはこの程度で済んだけど、今度は酷く痛い目にあうかもしれない。
みるみる小さくなっていく理性が私に最後の警告をしたけど無駄だった。
そんなこと、どうでもいいよ。
私はまた、彼女に触れてもらいたい。
がちゃ ばたん
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