逃走

「僕達、いつまで逃げ続ければ良いんだろう?」


果ての見えない。真っ白な通路の天上を見上げながら、僕は隣で仰向けに寝転び休んでいるロクロウに質問した。


「さあ?わかんねー」


ロクロウはそう言うと上半身を起こして人差し指を顔の高さにピンと立てた。


「ドント・シンク・フィール」


言葉のリズムに合わせて指を軽く振り、力無く腕を下ろしてぱんと膝を叩いた。


「俺はもう考えるのなんてやめちゃったよ。感じたことに従う」


「感じたこと?」


そう。と言うのに合わせてロクロウはかくんと首を折り口を尖らせる。


「あの化け物が目の前に表れた時、お前何を感じた?」


ロクロウの言葉で頬の皮膚が突っ張った。

四足歩行の醜い化け物。

いや、初めてあいつが僕達の前に姿を現した時は普通の、普通の人間の女性の姿をしていた。微笑んで、僕達を見ていた。

でも、その笑顔を僕は気持ち悪いと感じた。

多分ロクロウも同じ。

近寄りたくないと感じた。嫌な目をしていた。嫌な目というか、嫌いな目。

だから僕達は後ずさった。そしたらばたんと四つん這いになって、歯を剥き出しにして、手足をバラバラに動かしながら、あんな動かし方で走れるわけがないのにもの凄いスピードで僕達を追いかけて来た。気持ちの悪い音を発しながら。

恐ろしい。思い出すととても恐ろしいし、気持ち悪い。二度と会いたくないと心底思う。だけど...。


「ぶっ殺してやりたくなるんだよな」


ロクロウが冷たい声でそう言った。僕の気持ちが読まれたのかと思った。

ロクロウの声色と、遠くの景色をぼおっと眺めるような目が少し怖いと感じだけど、今の僕の声も顔も、たぶん彼と同じ。


「次あいつが出てきたら、二人でやってみるか?」


ロクロウが僕を見る。その目はぱっと切り替わって元の、なんと言ったら良いか分からないけど、心の宿った?いつもの目に戻っていた。


「でも、あいつとんでもなく強そうじゃない?怖いし」


「分かんないぞ?一発ぶん殴ったら案外ころっと死んじゃうかも」


そうかなあ。と言って僕は通路の先を見た。

かなりの距離を歩いて、時々あいつから逃げる為に走ってきたけど、この通路の先には一体何があるんだろう?

「何か」があるんだろうか?もしくは「何も」無くて、ずっとずっとこの白い通路が続くだけなんじゃないだろうか?

それに、僕達はどうやって、何が理由でこんな所に来てしまったんだろう?

立ち止まって休んでいると、疑問が次々と浮かぶ。

だけど、何故だか分からないけどここは不思議と落ち着くし、僕は自分でここに来ると決めてここにやって来た気がする。そう感じる。

延々と同じ。真っ白な通路が続いているだけだけど、来た道を戻ろうという気にはならない。それを考えると、なぜだか嫌な気持ちになる。感じたことに従う。

ロクロウの言う通り、それがここでの正しい行いなのかもしれない。


充分に休んだ。歩こっかという僕の言葉はロクロウの「来たぞ」に遮られた。

通路の先を見る。

天井に黒い染みのような物が広がっている。

そこから滴り落ちるように、べちゃりと化け物が降り立った。


総毛立った。さっきは殺してやるだの何だの話していたけど、そんな気持ちは一瞬で消え失せてしまった。

逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。

化け物がゆっくりと上体を起こし、こちらを見る。気持ちの悪い視線。


「ロクロウ逃げよう」


お腹の中にある重たい何かを全力で押し出すようにしたけど、その声は力無く震えた。

ロクロウは動かなかった。アイツを真正面から見据えて立っている。


「逃げるって?来た道を引き返すって?嫌だろ。嫌だって思うだろ?」


ほら。と言ってロクロウが僕に真黒い棒を放ってきた。

手に取る。僕の腰の高さ程の長さ。ひんやりとしている。

僕に投げ渡した棒と同じ物をロクロウもいつのまにか持っている。


「こんなのどこで?」


「だから考えるなって」


というや否やロクロウが雄叫びを上げて化け物に突進していく。

勢いそのままに振り下ろされた棒は化け物の頭部に命中し、深くめり込んだ。

奇怪な形をした腕がにゅにゅと伸びる。ロクロウが攻撃されると思い息を飲んだが、化け物は反撃するどころかその腕で打ち砕かれた頭部を庇うように覆い、何か懇願するような泣き声を上げる。


「ほらな!大したことないんだこいつ!」


ロクロウが化け物を叩きながら叫ぶ。

ロクロウのお前もやれ。という言葉の前に僕は駆け出していた。

振り上げては振り下ろす。振り上げては振り下ろす。一心不乱に。僕とロクロウに体を打たれ、半分黒い水溜りのようになった化け物の体に棒を振り下ろす。


「お前なんか大嫌いだ!お前のせいで僕は少しも楽しくなかった!」


「やりたいことが沢山あったのに。全て奪いやがって」


堰が壊れたみたいに、体の中から言葉が溢れてくる。

振り下ろす手にどんどんと力がこもる。

だけど、これはなんだ?僕の中から溢れてくるこの言葉はなんだ?この感情はなんだ?

僕の中にこれほどの憎しみが溜まったきっかけは思い出せないけど、これを抱く元凶になったのはこいつだ。という確信がある。

何かを思い出せそうな気がする。何かが思い出されてしまう気がする。ここにくる前の記憶が急速に僕に向かって迫ってきている気がする。怖い。

沸騰していた頭が、手が、心が、徐々に冷えていく。

僕は化け物を叩くのをやめた。化け物の体はは殆ど潰れてしまって、墨溜まりのようになっている。

視線を動かす。そこにロクロウはいなくて、彼の使っていた棒が転がっているだけだった。

背後で僕を呼ぶ声が聞こえた。振り向くとロクロウが通路の奥に立って僕を見ている。

顔の前で手を合わせて言った。


「ごめんな」


何が?と聞く前に僕の体に無数の黒い帯が巻き付いてきた。

仰向けに引き倒された僕の視界は少しずつ黒く塗りつぶされていく。

ずぶずぶと体が沈んでいく。遠く小さくなる白い光に両手を必死になって伸ばしたけど、その手が握られることはなかった。

暗転-----


✳︎

僕は病室のベッドで目を覚ました。

ベッドの傍の椅子に座って僕の顔を覗き込んでいた人間が声を上げる。

泣き笑い、僕の頬に触れて何かを言っている。

かさかさとした、疲れた指。

その声を聞きつけてか、ぞろぞろと数人が部屋の中に入ってきた。

皆僕の覚醒を喜んでいる。

皆が気持ちの悪い、いや、嫌いな笑みを浮かべている。

ああそうだった。僕はこの人達のいる世界から逃げ出したかったのだ。

でもそれは失敗に終わってしまった。

あの化け物...この人達の僕を呼ぶ声、意思に捕まって、僕はここに連れ戻されてしまったのだ。

ロクロウは、上手く逃げれただろうか?

もしかしたらまだ逃げている最中かもしれない。

それか、僕のような相棒を見つけて出し抜いて。という連鎖の中をずっとずっと彷徨い続けるのかもしれない。

まあ、まあそんなことはもう考えたって仕方がないことだ。

白枝のように細って上手く握れない手の中に、あの白い通路で化け物を殴りつけた感触がまだじんわりと残っている。

眼球だけを動かしてそいつらの方を見る。


逃げるのが、逃げるのが無理だったなら......




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る