トモコ

朝は憂鬱だ。布団から体を引き剥がすように起こして、身支度が進むにつれて体はどんどんと重くなる。

好きなアーティストの曲をイヤホンで聴く。少しだけ元気になったような気になるけど、どうせ玄関から一歩出た瞬間に効力を失ってしまう。


冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いで三回に分けて飲み干す。

これが私の朝食。

母の期待に応えられる人間ではないと母に判断された日の翌朝。


「朝食、作った方が良い?」


と母に聞かれた。何でそんなことを聞くんだろう?私は母の作る朝食が好きだし、一度も食べ残したり今日はいいかな。と断ったことも無いのに。と一瞬考えたけど、私はその理由をすぐに察した。

作って欲しい。という気持ちはあった。けど喉の所でつっかえて言葉に出来なかった。


「朝ごはん、もう作らなくて良いでしょ?あんたなんかの為に」


私は、母の言葉をそういう風に解釈した。


「うん」


私がそう言うと、母は微かな笑みを浮かべてありがとう。と言ってきた。

母の笑顔に反射的に嬉しくなったけど、意味の無くなった手間が一つ減った嬉しさによるものだと理解して、悲しく、寂しくなった。

空になったコップをさっと洗って乾拭きし、元の場所へ戻す。

聞かれたのは朝食のことだけだったけど、もう、こういうことも自分でした方が良いのかも。と何となく思った。洗濯も、部屋の掃除も。


通学路を歩く私を、何人もの同じ制服を来た生徒が追い越していく。

何でみんな、あんなに軽やかに歩けるんだろう?

学校という場所に何であんなに嬉々として向かうことができるんだろう?


「トモコ!」


背後で同じクラスの子の声が聞こえた。魚の跳ねるような元気な声。

私の名前はトモコ。飯島友子。だけど私のことじゃない。

彼女が呼んだのはもう一人の「トモコ」橘智子のこと。

私のクラスには二人のトモコが居る。でも、トモコと呼ばれるのは橘さんだけ。

私は「飯島さん」母からは「あんた」


声の主が通りやすいように道を開ける。

日向から街路樹の日陰へ。ここにずっと居たいなと毎日思う。

その子は私を全く意識すること無く、少し前を歩いていたトモコを中心とした輪の中に飛び込んで行った。

トモコが新たに加わった子に何かを言って、その子を含めた全員が笑う。

トモコおはよう。トモコ髪切った?トモコ、トモコ、トモコ。

一人、また一人と輪に加わっていく。人数が増えたせいか、グループの進みが遅くなる。

追い越そうとすると何か言われるような気がして、私も歩みを遅らせる。声を掛けられる筈も無いのに。

学校に着くまでに私と同じ名前が何度も何度も聞こえたけど、誰一人私を呼んでいない。

トモコは二人いるようで、一人だけ。

私は、何なんだろう?


授業の内容が、あの日から頭に入ってこない。

ノートも全然取らなくなってしまった。

隣の席の子もノートを取らない。その代わり、ずうっと絵を描いている。紙の中に入り込んでしまうんじゃないかってくらいに顔を寄せて。

私も何か描いてみようかなとシャープペンを紙面に当ててみた。


「そんなことして、何の意味があるの?」


母の言葉が頭に浮かび、手が強張った。

芯がぼきりと折れて、黒い点が一つ。

その言葉を振り払うように何かを描こうと思ったけど、私の手は動かなかった。

絵を描くのは大好きだったし、楽しかった。

ということは思い出せる。

でも、今の私の中にあの時の感情は湧いてこない。

描きたい物が、何一つ浮かんでこない。

無理矢理やめさせられた、捨てさせられた好きなこと。

隣の子に再度目をやる。良いな。羨ましいなと思う。

もしかしたら私の捨てた「絵を描きたい」という思いをこの子が拾って自分の物にしちゃったのかな?なんて思う始末。

私の視線に気づいたのか、その子が気まずそうに手元を隠す。

私は慌てて視線を戻した。

何かを書く素振りをして誤魔化そうと思ったけど、私の手は相変わらず動かない。


「あんたもう、自分の好きにしなさい」


私を諦めた母に言われた言葉。今まで散々好きなことから無理やり遠ざけてきたくせに、勝手だよ。頭に血が上っていく感覚。だけど、私の手はこれっぽっちも動いてくれない。

ああ、空っぽだ。

空っぽなのに、何でこの心には何も入らないんだろう?

何も入っていないのに、なんでこの体は、こんなに重いんだろう?


昼休憩。私は自分で作ったお弁当を持って屋上へと向かう。彼に会いに行くのだ。

彼は屋上の錆びついたフェンスに鼻先が付くかつかないかの所に立って、ジッと遠くの景色を眺めている。

話しかけても、触れてみても、私に一瞥もくれずずっとそうしている。

この学校に伝わる怪談話。

屋上から飛び降りて死んだ生徒の霊が、成仏できずに屋上にいる。

好奇心旺盛な生徒達が何人もこの場所を訪れた。だけど誰一人彼の姿を見ることができた子はいなかったらしい。私を除いて。

それがなんだか嬉しくて、彼を見つけて以来私は毎日昼休憩になるとここに来て、昼食をとる。

弁当箱を布で包み、彼の隣に立って屋上からの景色を眺める。

そこから見える景色の美しさに、私はうんざりした。

お腹の中に溜まった泥が、どんよりと全身に広がっていく感覚。どうしようもなく苦しくなって、私は彼の手を握った。

冷たくもなく、温かくもない。ただ物体を掴んでいるという感覚だけがある。

彼は、手を握り返してはくれなかった。


「トモちゃん何してるの?!」


背後で声がした。

振り返ると、トモコが立っていた。

眉根を寄せて、悲しいような険しいような顔で私を見ている。


「大丈夫だよ。飛び降りたりなんかしない」


小さく息、強張っていた肩の力が抜けてトモコの表情が和らいだ。ずっと息を止めていたんだろうか?

本気で私を心配してくれていたんだろう。

トモコ、橘智子は全員に優しい。本当に。

トモコは私の方しか見ていない。彼の姿はトモコには見えていないようだった。

やっぱり彼は、私にしか見えないらしい。優越感。


「トモちゃん、あのね」


トモコが何か言いかけたところで、吹き上げるような突風。咄嗟に手で顔を庇う。

極限まで狭まった視界の中で私は見た。

トモコを背後から抱きしめるように手を回し、穏やかな笑顔を浮かべた彼の姿を。


なんで?


風が止む。トモコがコンクリートの上に力無く横たわっている。傍には桜色の弁当箱。


トモコ、橘智子は死んだ。

そして、その日以来彼を見ることは無かった。

卒業するまで、トモコという名前が呼ばれることも無かった。

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