憂鬱な雨と奇跡の陽

KeeA

第1話

 雨の日は、ユウウツだ。特に台風の時期は最悪。


「…………」


 今、まさにその最悪な時期だった。朝起きて、まず窓の外を見る。窓が濡れているのを見た瞬間、即決断する。今日、大学へは行かない。


 大学へ行かなくても、誰も咎めない。そんな世の中になってから数年。ユウウツな日に出掛けなくてもいいから、かなり楽だ。


 土砂降りの雨の音が締め切った窓越しからでもよく聞こえる。このままだと洪水になりそうな勢いだ。レースカーテンをシャッ、と閉め、雨の音をかき消すように洋楽をかけた。


 通学時間が無くなった分、授業開始までまだ余裕がある。俺はベッドに寝転んで曲に合わせて歌を口ずさみ出した。いつかの雨の日を思い出し始めた。


 思えば、彼女と再会したのも雨の日だった――。


*****************


 単位を埋めるために取った授業。大して興味も無い授業内容だが、先輩によれば楽に単位が取れる、いわゆる「楽単らくたん」らしいので履修することにした。


 それにしても、やっぱり雨の日に来るんじゃなかった。濡れた傘が服に触れないように持ち、エレベーターを待つ人の列を避け、階段を上がる。初回なので来ないのもどうかと思い、来たまでだが。


 教室に入り、俺は固まった。見覚えのある、気だるげで眠そうな、特徴的な目。ああ、あの子、受かってたんだ。マスクをしていても彼女だと一目で分かった。でも、彼女は俺のことなんて、忘れてしまっているだろう――。


「隣、いい?」

「あ、はい。どうぞ」

「三年だよね?」

「え、はい」

「じゃあ、俺らタメだ」

「あ、そうなんだ」

「もしかしてあんたも楽単でこの授業取った?」

「えっと……友達に誘われて。この授業、楽単なんだ?」

「先輩から聞いた話だと」

「へえ~……」


 あれ、ちょっと警戒されてる感じ? まあ、そりゃそうだよな、初対面の人からいきなり話し掛けられて、この授業取った理由なんて聞かれたら。


「おはよ~天音あまね~」

「おはよう、莉那りな

「あれ、雨京うきょうじゃん」

「友達ってあんたのことだったのか」


 互いに互いの存在に驚きつつ、かつてのクラスメイトである莉那は彼女の方を見て、再び俺を見た。


「二人とも知り合い?」

「ううん、さっき知り会ったばかり」

「へえ、そうなんだ。もう仲良くなってるじゃん」

 

 そう言って目を細めた。正直言って、こいつの笑い方は苦手だ。ネコみたいに目を細めて笑うのが。


「まだ名前も知らないんだけどね……」

笠間雨京かさまうきょう

「え?」

「雨に京都の京って書いて、雨京。あんたは?」


 彼女は一瞬声を詰まらせた。


「……陽向ひなた天音あまね。天の音で天音、です」

「天音か。いい名前じゃん」


 俺がそう言うと天音は視線を逸らした。


「ていうかー、何で天音の隣に雨京が座ってるわけ? そこ、あたしが座る予定だったのに」

「座っていいか聞かれたから……それにまだ前の席は空いてるし」

「そんなの、断っちゃえばよかったのに! まあいいけどさ」


 文句を言いながらも莉那は天音の前の席に座った。


「それよりもさーちょっと聞いてよ! さっきエレベーター乗ったんだけどさ、めちゃめちゃ人が入ってきて、いろんな人の濡れた傘がスカートに付いちゃってさ~! おかげで嫌な感じに湿ってる~~お気に入りなのに~~!」

「雨の日にお気に入りの服着てくるか、普通?」

「は? ジメジメした雨の日こそお気に入りの服着て気分上げたいんですぅ」

「風邪、引かないようにね?」

「天音、優しぃ~~」


 ぎゅううぅ、と擬音が聞こえてきそうなほど莉那は机越しに天音を抱きしめた。


 そんな様子を横目で見ながら俺はマスクをずらし、ペットボトルに口をつけた。再びマスクを着けて目線を戻すと、なぜか天音がこちらを凝視していた。


「俺の顔に何かついてる?」

「あ、ううん。別にそういう訳じゃない。ごめんね、気にしないで」

「そう?」

「いや、目と鼻と口と眉毛はもちろんついてるよ?」


 一瞬、天音の言ったことが理解できなかった。


「……いや、そりゃそうだろ」

「あぁごめんねぇ~この子、ちょっとこういう天然というか、生真面目なところがあるんだよねぇ」

「はあ」


 当の本人は天然発言をした自覚が無いのか、特に気にする様子も無く、莉那にされるがまま頭を撫でられていた。


「あ、そうだ。インスタ交換しようぜ」

「えっと、ごめん。私SNSどれもやってなくて」

「マジか。LINEはいける?」

「うん、大丈夫」


 天音のプロフィールを見ると、「AV. DE LAPIN BLANC」と書かれた道標がホーム画面になっていた。


「……何の看板、これ」

「え? ああ、フランスのマルセイユで撮ったやつだよ」

「なんでこれ?」

「直訳すると『白うさぎ通り』って意味らしいんだけど、面白いなぁって思って」

「へえ。そんな名前の通りがあるんだな」

「うん。フランスって全部の通りに名前が付いててね、どんなに細い道でも名前があるんだって」

「ふ~ん、面白いな」



 天音とはその日から少しずつ話すようになり、話すたびに「ちょっと変わってるな」と思っていた。でも、そんな「ちょっと変わった子」に、心が惹かれていくようになっていった。


 数年前、同じ学部学科を受験した女の子の受験票を拾った。そして今年、偶然にもその子と同じ授業を取った。


 そんな奇跡のような再会を果たしてから、あと数か月で一年が経とうとしていた。


*****************


「ごめん! 待った?」

「んー三十分くらい」

「え! 寒いからお店の中で待っていればよかったのに」

「天音が迷わないように待ってたんだよ。変に方向音痴だから」

「そ、それは、反論の余地がない……!」

「まあ、俺が楽しみすぎて早く着いちゃっただけだから。気にすんな」


 俺は天音の頭をくしゃっと撫でた。彼女はマフラーの下ではにかんだ。


「ん」


 俺は天音に手を差し出した。


「……え? 何か返さなきゃいけないものあったっけ……?」

「ちげーよ。あんた、本当に変なところで鈍いよな」


 小首を傾げた姿も可愛いと思いつつ、天音の無防備な手を取った。


「あ……」

「行くか」

「…………い」

「ん? 何か言ったか?」

「いつも余裕そうでずるいって言ったの!」

「え? 何で怒ってんの」

「怒ってない! 思ってることを言っただけ! ていうか、にやにやしないで!」

「ふふ……天音には俺がいつも通り余裕そうに見えるんだ?」

「逆に違うの?」

「さーあ? どうでしょう」

「もう、雨京くんのいじわるっ」


 確かに、普段通りに振る舞っているが、久々のデートということで実は相当浮かれている。昨日の夜も、天音にかっこいいと思って欲しくて、未だかつてないほど時間をかけて服を選び、今朝も気合を入れて髪をセットしてきた。今日の降水確率は二十パーセントだから、髪型が崩れる心配もないし、最高のコンディションだ。……一応、最悪の場合を考えて折りたたみ傘は鞄の中に忍ばせてある。


 天音が以前より気になっていたという、ステンドグラスの窓が綺麗なカフェで昼を食べ、幸せな気持ちで腹を満たした。ふと窓の外を見た天音が心配そうに言った。


「ねえねえ。なんかちょっと雨降りそうじゃない?」


 空を見ると、分厚そうな暗灰色の雲が風に乗って流れてきていた。


「確かに。降る前に移動するか」


 しかし、店を出た途端、タイミングを見計らったかのように雨が降り出した。


「雨、降ってきちゃったね」

「……今日の降水確率、いくつだっけ」

「二十パーセント」

「だよなぁ。あーあ、よりによって今か~」


 セットした髪も、俺の心みたいに落ち込んでいるようだ。前髪をいじりながら、前を通る人々を目で追った。


 傘を持っていないのか、バッグを雨よけ代わりにして急いで屋根の下に走る人。諦めたのか、それともすぐ止むと思っているのか、ペースを崩さずに歩く人。小走りで通行する人。


「……今日、いつもと雰囲気違うね」

「え?」

「髪……すごく似合ってる。あと服も。いつもかっこいいんだけど、今日はなんて言うか、十割増しでかっこいい……です」


 天音はそう言いながら、顔を赤らめた。何なんだ、この可愛い生き物は。耳まで真っ赤にして。


「十割り増しってことは、普段の二倍かっこいいってことか? ……普段もこれで大学行こうかな」

「それはだめ!」

「え」

「あ、いや、違くてっ……いつもよりかっこいい雨京くんを見られるのは、私だけでいい、というか……」

「っ…………」

「でも! 普段もかっこいいから、普段通りでよくて――」

「抱きしめてもいい?」

「え?」


 天音の返事を待つ前に、俺は彼女を腕の中に閉じ込めた。


「雨京、くん……?」

「はぁ……何で俺の彼女はこんなにも可愛いのか……」

「…………」

「……天音? 息してる?」

「っぷは!! はぁ……いつの間にか止めてた……」

「くく……そろそろ慣れて下さいよ、おねーさん」

「ぜ、善処します……」


 胃のあたりに天音の鼓動が伝わってくる。誰かの鼓動でさえ愛おしいと感じる日が来るなんて、思いもよらなかった。


 腕を解き、二人で並んで雨空を見上げた。


「雨、やまないね」

「だな。通り雨だと思ったんだけどなぁ……まあでも、ある意味祝福の雨かなぁ」


 反応が無かったので天音を見ると、眉間に皺を寄せていた。


「……何?」

「……もしかして雨で頭おかしくなっちゃってる?」

「そんな訳あるか」

「じゃあ、今日は何かの記念日なの?」

「記念日ってほどでもないけど」

「ん~~……あ! じゃあ、今日は『アンバースデー何でもない日』だ」

「何それ」

「『鏡の国のアリス』でハンプティ・ダンプティが誕生日じゃない日にプレゼントを貰った話をするんだけど、そのプレゼントのことを『アンバースデープレゼント誕生日じゃない日の贈り物』って説明するの」

「ふ~ん」


 俺は雨粒がとめどなく落ちてくる空を見上げた。


「今日は何でもない日じゃないよ」


 しばらくの沈黙の後、天音が遠慮がちに聞いた。


「……もしかして、雨、関係ある?」

「まあ、大分」


 天音の方を見ると、彼女はとても心配そうな、複雑な表情をしていた。


「そんな顔すんなって」


 俺は天音の眉間をつついた。


「天音が思ってるような日じゃないよ、多分。むしろ逆。三年前の今日、雨の中で受験票を落とした誰かさんと同じ大学の同じ学部学科に合格した日」


 俺がそう言うと、天音は文字通り目を丸くした。その目にはいつものミステリアスな雰囲気を醸し出す気だるさが一切無かった。


「お、覚えてたの……」

「何を?」

「私の受験票拾ってくれたの」

「…………まあな」

「エッ、もしかして、最初の授業の日から気付いてた……?!」

「はっ、自意識過剰すぎ。…………まあ、そうだけど」


 俺たちはしばらく、しとしとと降る雨を眺めていた。


「……実はさ、私もなんだよね。あの時より少し大人っぽくなってたけど、涙みたいな黒子の子だ、って」


 天音が手を伸ばす気配がしたので、振り向くと、俺の頬、正確には両頬の黒子に触れた。俺は天音の目を見つめた。


「……俺たち、相思相愛だな」

「……それ、言ってて恥ずかしくないの」

「後で思い出した時になるかも。……うーん、このまま待っててもあれだし、移動するか」

「傘、無いけど……」


 俺は折りたたみ傘をバッグから取り出した。


「え、持ってたの?!」

「今日は雨が降る気がして。……まあ、俺が降らせてるんだけど」

「また冗談言って」

「ふっ、ははは」


 天音に小突かれ、痛がるふりをして腕をさすった。


「……じゃあ、今日は、もう帰る?」


 天音は上目遣いで俺を見つめた。その瞳の中には、少し寂しさが混ざっているようにも見えた。


「天音はどうしたい?」


 天音は目をしばたたかせた後、今よりもさらに距離を詰め、二人にしか聞こえない声で呟いた。


「……もうちょっとだけ、雨の中にいたい」

「……ん」


 俺は前触れもなく天音の手を掴んで引き、傘も差さずに雨の中に飛び出した。


「ちょっと雨京くん! そういう意味じゃないって!! 冷たっ!」


 文句を言いながらも、天音は嬉しそうに俺の手を強く握り返した。もう片方の手も掴み、俺たちはそのまま、くるくると踊るように回った。


「きゃー! 風邪引いたら雨京くんのせいだからね!」

「そうしたら俺が看病してやるよっ!」


 しとしと降っていた雨はやがて雪に姿を変え、アスファルトに落ちる雨粒の音は聞こえなくなった。俺たちは足を止めた。


「雪ってさ、雨みたいな音はしないけど、全く音が無いわけでもないと思うんだよな」

「……うん。逆に、雨が降る音の中にも、静けさはあるよ」

「……ふ~ん」

「今度雨が降った時に聞いてみてね」

「……雨が降るたびに天音のこと思い出しちゃうなぁ」


 そう言うと、天音は顔をほころばせた。


「そうだったら嬉しい」


 天音は言葉を続けようとしたが、俺が何か言いたそうにしていることに気が付いたのか、口をつぐんだ。本当に、こういう時は察しがいい。


「ずっと好きだった。……今も、これからも、好き」


 キスには満たない、ついばむような仕草で軽く、優しく唇に触れた。

 顔を離すと、一粒の雪が天音の鼻先に舞い落ちた。


「くしゅんっ」

「……風邪引く前に俺の家行くか。おうちデートってやつに予定変更だな」


 天音は満面の笑みでこくりと頷いた。


 あんたとだったら、雨の日も悪くないかもな。

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