32 エレベータに向かって走れ

 教室の扉を開ける。開けた先から風が吹いてくる。

 俺が一歩踏み出した先は小学校の廊下ではなく、古い団地の長い共用廊下であった。

 外は薄暗く、生暖かい風とともに水滴がぱらぱらと振り込んでくる。

 じめっとした雨のにおいが鼻孔をくすぐる。


 道案内の貼り紙はもうない。

 もうまっすぐ進めばいいだけだ。

 俺は血塗れの腕を押さえながら廊下をゆっくりと歩む。

 表札は当然、どれも読めない。

 長い、とても長い廊下の先にエレベータの扉が小さく見える。


 歩く歩く歩く。

 どの表札もぐにゃりとして何が書いてあるかわからない。

 なるべく見ないようにして歩く。


 少し先でドアノブを回す音がした。

 油を差していない古いドアノブが金属のこすれる嫌な音を奏でる。

 表札に目がいってしまう。


 【白田路】


 ああ、逃げなければならない。

 俺は走り出す。


 ドアが開く。

 俺の前にバタリとなにかが倒れてくる。

 見覚えのある鳥の巣のようなぼさぼさ頭が見える。


 俺は彼を飛び越える。

 足をつかまれる。

 倒れ込んだ俺は体をひねって仰向けに倒れる。


 うつぶせになった白田さんだったものが手をのばす。

 必死で蹴り飛ばして立ち上がる。


 「マッテクダサイヨ。オイテイカナイデクダサイヨ。イタインデスヨ」


 匍匐ほふく前進だ。両の足首から下が切り落とされているので歩けないのだろう。

 それなのにものすごいスピードで、彼だったものは迫ってくる。

 白いフケをあたりに撒き散らしながら迫ってくる。


 俺は必死で走る。


 長い廊下の先で再び、ドアノブが回る音がする。


 表札に目をやらずにはいられない。

 

 【西田絢子】


 彼女は……彼女の住まいはこんなところではなかった。

 出てくるのは絢子ではない。絢子ではないんだ。


 俺はドアが開き切る前に駆け抜ける。

 

 後ろでバキバキと音がする。

 

 白田さんなら見るなの禁忌ですよと笑うのだろう。

 絢子ならば、ふりかえったりしないで逃げないとだめだよと優しく微笑んでくれるだろう。


 ふりかえった俺はバランスを崩して転倒する。

 俺の目の前で繰り広げられていたのは恐ろしいというより悲しい光景であった。


 匍匐前進で歩もうとする白田さんであったモノに見覚えのある後ろ姿が襲いかかっている。

 

 「イタイイタイイタイイタイイタイ」

 襲われた方のそれは叫びながら鳥の巣頭と腕を振り回す。

 咆哮する見覚えのある姿から何かが落ちて転がってくる。

 目が合う。廊下に転がったやや茶色い瞳が俺の目を覗き込む。

 俺はただ泣き叫ぶことしかできない。


 後ろ姿が白田さんの姿をしたそれにかぶりつく。顔は見えない。

 咀嚼そしゃく音がする。

 肉を噛みちぎる音の合間に「イタイイタイイタイ」という悲痛な声、骨を噛み砕く音の合間に「ユルシテユルシテユルシテ」という哀願するような声。


 カノジョは俺を助けてくれようとしているのだろうか。

 それとも、自分こそが俺を地獄に引きずり落とすのにふさわしいと思っているのだろうか。

 地面に転がる茶色い瞳は何も答えてくれない。


 いいや、考えるな。

 あれは絢子ではない。

 彼女の魂は別のところで俺を待っている。 

 俺は逃げなければいけないと自分に言い聞かせる。


 ゆっくりと立ち上がって後ずさりする。


 白田さんであったものが音を発しなくなり、動きをとめたところでカノジョはゆっくりと立ち上がる。

 振り返る。


 ずたずたの肉片の中、唇という覆いをなくしむき出しになった口と舌がゆっくりと動く。

 肉片をすする音のあと、カノジョは口を開く。虚ろな眼孔が俺に向けられる。

 

 「ネェニゲナイデオイテイカナイデ」


 ああ、このままカノジョに貪り食われたらどれほど楽であろうか。

 俺はすべてを投げ出して生きたまま喰われる。

 愛しい彼女だったものに抱きしめられ、絶叫しながら咀嚼される。

 もう、それで良いじゃないか。


 俺は自分の頬を張る。

 腕から流れ出た血がかたまったものだろうか。べたっとしたものが頬にはりついた。

 もう一度自分の頬を張る。


 だめだ。

 まだ駄目だ。

 今はだめなんだ。


 俺は必死に走り出す。

 絢子だった者が追ってくる。


 俺は逃げる。逃げなければならない。

 ここにはいつでも戻ってこられるのだ。


 エレベータが見える。

 ドアは開いている。

 

 俺はエレベータに飛び込む。

 四階のボタンを押す。

 カノジョは追いすがってくる。

 

 「ごめん! ごめん!」

 追いすがるカノジョの手を蹴り飛ばす。

 ずっと抱きしめていたかったカノジョの体を渾身こんしんの力をこめて蹴り飛ばす。

 ごろごろと転がったカノジョがゆっくりと立ち上がる。


 「ネェ、オイテイカナイデ」


 エレベータの「閉」ボタンを押す。

 扉が閉まっていく。

 小窓からこちらを覗き込む肉片と皮のぶさらがった顔が上に消えていく。


 四階についたら、二階のボタンを押す。

 同じ要領で六階、二階、一〇階と移動する。


 一〇階でさらに五階のボタンを押す。

 扉が開く。

 エレベータの小窓の先に見えるのは白いワンピースの女性。

 黒く長い髪が顔を覆い隠している。

 俺は下を向いたまま歯を食いしばる。


 ワンピースが揺れる。

 女が俺の顔を覗き込む。

 血走った目、黒目が一切なく毛細血管だけが血走った目が俺の顔を覗き込む。

 黒目がないのに、俺の目を食い入るように見つめていることだけはわかった。

 

 目をそらしてはいけない。

 声を出してもいけない。

 足が震える。


 女の顔が消える。

 俺はそっと顔をあげて、一階のボタンを押す。


 エレベータは一階にくだるのではなく逆に上に上がっていく。

 そう地獄一歩手前、ほとんど地獄から現世へと上がっていく。


 首筋に吐きかけられていた女の吐息が消えた。

 エレベータの表示が読めないものに変わった。


 エレベータが開く。


 真っ白い部屋に俺は降りたった。

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