19 腹を割る

 宿として指定されたのは古ぼけた旅館だった。

 例によって誰もいないし、古ぼけてはいるが、綺麗そうなところである。


 玄関にはサンダル、上がったところにはスリッパが並べられている。

 先ほどのアパートの件もあったが、宿泊場所で土足で歩き回るのも気が引けたのか、皆、靴を脱ぐ。ただし、下駄箱に入れずにそれぞれ手に携える。

 使い込まれたカウンターの上には部屋の鍵が一つ置いてある。

 呼び鈴が置いてあったが、押す気にはなれない。


 館内の案内図はない。

 正確に言えば、案内図は読めない代物だった。

 俺たちを部屋に導くのは例によって貼り紙の道案内だけである。


 部屋に入る。

 座卓の上に茶櫃ちゃびつとポットと盆、菓子はなかった。

 そして、また貼り紙がある。

 

 【たびのあせをおながしください】


 部屋の物入れの中には浴衣とタオル、入浴セットなどが入れられたビニール製の巾着袋があった。

 茶を飲むよりも先に体中にまとわりつく嫌な汗を流したいという相馬さんの提案は全員一致で可決された。


 貼り紙が俺たちを大浴場に案内する。


 「混浴じゃないのか」

 瀬能さんは男湯と書かれた暖簾の前ですでにシャツを脱いでいる。

 きたえているというだけあって、見事に割れた腹筋を見せつけてくる。

 

 「その腹筋、タトゥーで書いているとかじゃないんですよね」

 白田さんが、瀬能さんの体中にびっしりと描かれたタトゥーをちらちらと見ながら言う。

 佐藤さんがぐふっと笑った。


 「っ先生、びびりながらおもしれぇこと言うねぇ」

 釣られるようにして皆笑う。

 瀬能さんは一瞬だけと不機嫌そうな表情を見せたが、すぐ気を取り直したのか、女性陣に割れた腹筋を見せつける。


 「マジックとかで書いたんじゃないってわかるから、さわってみ」

 絢子は遠慮しているが、相馬さんは笑いながら触っている。

 恐ろしいことの連続だった。

 風呂も含めてリラックスできるのは良いのかもしれない。


 風呂は露天風呂まである豪華なものであった。

 かけ湯をしてから存分に堪能する。

 和彫りの佐藤さんとギャングっぽいタトゥーの瀬能さんが大浴場にいるのは普通ならば見かけられない光景であっただろう。

 俺は全員の特徴とエピソードを思い浮かべながら風呂につかる。

 大丈夫、増えていないし、減ってもいない、多分。


 「やたらとジロジロ見てるじゃねーか。お前、彼女と一緒なんだろ?」

 佐藤さんが女湯のほうを指さしながら俺にいぶかしげに問う。

 俺は昼間のアパートの一件以降、誰か見知らぬ者が紛れ込んでいないか確認するようにしてることを説明する。

 瀬能さんが笑いながら女湯のほうに叫ぶ。


 「帰山かえりやまくんが、人数数える時にそれぞれの特徴が必要だってさ。だから、乳首の色、教えてよー」

 バカという相馬さんの声のあとにお湯が向こうからふってくる。

 

 「じゃあ、帰山くん、君の知っている色だけで良いから教えろよ」

 教えてやるわけないだろう。

 俺はニコニコしながら、首を横に振る。


 瀬能さんはわざとらしく舌打ちをしたあとに、真面目な顔になる。

 「たださ、それだけ準備したって、増えてるときは気がついたら増えてるんじゃね? 乳首がピンク色の巨乳ちゃんてよ」

 確かにそのとおりだ。

 俺は今度は首を縦にふる。

 「気休めですよ気休め」


 「逆にな、あんたとか蒲田くんとか影薄くて消えてても気づかなさそうだな」


 「美人の彼女が横にいなければ、たしかにいてもいなくてもわからないよねぇ。どうやったの? 薬でも使った?」


 カラフルな二人が失礼なことを言うのを影の薄い二人の若者は黙って聞く。


 ちなみに露天風呂にはのぞき穴があって、方角的には女湯がのぞけるようであったが、さすがに瀬能さんですらのぞこうとしなかった。

 のぞいたらどうせろくでもないことが待っているということを俺たちは学習していた。

 警戒は怠らず、しかし、どこかのんびりと話をしながら湯を楽しんだ。白田さんが年に似合わない純情っぷりを発揮しているのが妙におかしかった。冷たそうに見えたり、面倒見が良さそうに見えたり、童貞丸出しに見えたり、どうにも掴みどころのない人である。


 俺たちが風呂から出ると、別の貼り紙が増えていた。


 【えんかいじょうにおしょくじのごよういができています】

 

 この貼り紙の通り、宴会場には温かい食事が用意されていた。

 刺し身に天ぷら、飾り塩をほどこされた焼き魚、小鉢の煮物や小鍋、それなりに豪華であった。

 いつ誰がつけたのか知らないが、一人用の小鍋の下の固形燃料にもしっかりと着火されている。


 「初日の乾パンに比べるとずいぶんと豪華になったな」

 佐藤さんは膳の前にどかっと座るとビール瓶をあけた。

 そのまま手酌でコップに注ぐとぐっと飲み干す。


 「先生、なんか気をつけることある?」

 瀬能さんが確認する。


 「どうでしょう? 狐か狸に化かされて、おはぎだと思って馬糞をくわされるなんていう古典的なものはありますし、それで言うとビールと偽って尿を……」

 佐藤さんがビールを盛大に吹き出した。絢子がハンカチを取り出して渡している。

 

 「まぁ、でも馬糞はともかく、尿はそこまで危険でないですし、大丈夫ではないでしょうか」

 へらへらと笑う白田さんに「そういう問題じゃねぇよ」と佐藤さんがぼやく。


 馬糞かどうかはわからないが、食べている間は少なくとも美味いし腹にもたまる。

 ここで気をつけてもしょうがないだろう。

 腹をくくった俺たちは目一杯食事を楽しむことにした。


 午後七時二七分。


 「まだ夜もはやいし、部屋でもう少し腹を割って話そうぜ」

 瀬能さんがビール瓶を両手に言う。

 俺たちは宴会場にあるコップと酒を拝借して、部屋へと戻った。

 この酒が小便でありませんように。

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