10 よごれたおめしものをおきがえください
「他の人は大丈夫かなぁ」
俺たちは散り散りになった。
その一番の原因は口裂け女だが、それだけが原因ではない。
「あの貼り紙、矢印が三又ぐらいになっていましたよね」
俺は横で倒れたままの白田さんに確かめる。
さすがに走りどおしで話す気力がないのか、ただ首を縦に振って同意を示そうとする。それもしんどいのか、「あー」「うー」と呻いた。これが彼なりの賛意の示し方らしい。
「ふざけた道案内だけどよ、目的地が一つならば、どこかでまた合流できるわ」
佐藤さんという強面の中年男性が肩で息をしながら応じる。
彼は暑いにもかかわらず長袖のシャツを着込んでいる。そのせいでひどく暑そうだ。
ここにいるのは俺と絢子と白田さん、そしてこの佐藤さんに、顔を腫らした中年女性真田さんに女子大生二人組、田中さんと南田さんだ。
俺も含めて皆一様に汚い。
鼻が馬鹿になっているおかげで気にならないが、血と
住宅街を抜けて商店街のようなところにたどり着く。
アーケードの看板の文字はぐにゃりとして読むことができない。それどころか見ていると言いようのない不安をかきたて、足元もふらついてくるのだ。多分、他の者もそうなのだろう。文字列がありそうなところからはすぐに視線をそらしている。
道案内の貼り紙だけは普通に読める。
貼り紙にそって、アーケードの中に入ってみる。
休みの少ないスーパーマーケット、休みどころか二四時間営業であることが多かろうコンビニエンスストアも含めて常に暗く閉ざされている。
気味の悪いアーケードの中を歩んでいくと、明かりのともった店舗が見えた。
ほっとしたのは一瞬だけだ。冷静になると、とてつもなく気味の悪いものである。
一軒だけ明かりがついていることは何かしらの意図、そして仕掛けがあるわけだ。そして、その仕掛けはこれまでの様子から鑑みるに悪意に満ちたものに違いない。それに店名が他の店舗と違って読めるのだ。読めない文字は生理的に不安をかきたてるが、読めたら読めたでやはり不安はかきたてられるようである。
それでも【オレンアル洋装店】という店名とディスプレイは、血や汚物で薄汚れた服の俺たちには魅力的であった。
ツヤのない木材ににガラスをはめ込んだドアにはご丁寧に【よごれたおめしものをおきがえください】という貼り紙がはってある。
俺たちは頼りの白田さんをじっと見つめる。
「うーん、なんか引っかかりますが、中をのぞくぐらいならば大丈夫でしょう」
女性陣の目が輝いた。
いや、この表現は正確ではないだろう。強面の佐藤さんの目も輝いていた。
「すごいババクセェ服とか露出の高い服とかなかったりしてな」
佐藤さんがセクハラっぽい冗談を言ったが、誰も気にしていなかった。
じゃんけんで負けた俺は恐る恐るドアを開ける。
ドアをあけた瞬間得体の知れない化け物に中に引きずり込まれるということはなく、中は血塗れの異空間などということもなかった。開いた扉の先にひろがるこじんまりとした店内は扉同様落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
木目調の床にはチリ一つない。ピカピカに磨かれた床は上からの柔らかい光で鈍く光っている。
間接照明を多用した店内は明るすぎず、かといって薄暗くもない。
壁際に洋服が並び、反対側の壁には帽子やバッグなどの小物が並んでいる。
どれも手の込んだ高級そうな服である。
奥には試着室らしきカーテン。
合わせ鏡になった姿見の一つを指差しながら、白田さんが言う。
「僕はあんまり洋服屋さんに来ることがないのですけど、洋服屋さんは狭い店内にわざわざ合わせ鏡を設置するもんですか?」
女性陣がそろって首を横にふった。
「じゃあ、こいつは危ないかもしれませんね。ああ、田中さん、ピアスはやめておきましょうね。ピアスの穴という失明につながる都市伝説があるんですよ」
白田さんの注意に田中さんがびくっと手を引っ込める。
合わせ鏡は異界への入り口、ピアスから白い糸が出てきて、それを抜くと失明する。そのような都市伝説について嬉々として解説している白田さんを放って女性陣、いや俺たち男性陣も洋服の物色をはじめる。
男物はジャケットやワイシャツ、女性ものはワンピースなどが多かった。
「これかわいくない?」
南田さんがタータンチェックのロングスカートと白いシャツを手にして、田中さんに見せている。
試してみなよという返事に奥の試着室に向かおうとする南田さんに白田さんが鋭い声をかける。
「試着室はだめです。着替えるのなら、ここで着替えてください」
南田さんと田中さんが困惑した目で俺のほうを見る。
俺のほうを見られても困る。
白田さんとの付き合いは彼女たちとさほど変わらない。彼女たちより一、二時間程度はやく名前を知ったにすぎない。
「試着室の中に入るとさらわれますよ」
「いや、でもほら、その色々恥ずかしいし」
食い下がる南田さんに、強面の佐藤さんが気にするなと眼の前で着替えだした。
彼が長袖を着ていた理由がわかった。
ただ、今さらこのようなところで隠す必要もないと割り切ったのだろう。
タトゥーというよりは彫り物といったほうがふさわしい絵柄を見せつけながら、真珠がどうのと下卑た冗談をたれながしはじめた佐藤さんのせいで、南田さんの態度は硬化した。
「二人で一緒に入ればいいでしょ。それにこうして……絢子ちゃん、お願い」
南田さんは、姿見のそばに置いてあった巻き尺を取って、自分の手首に先を結びつけ、反対側を絢子に手渡した。
彼女は気乗りしなさそうな田中さんを引っ張って、試着室に入ってしまった。
「すぐ出てきてください!」
白田さんの言葉に南田さんの声が「大丈夫」と答える。
ずいぶんと時間がかかるようだったが、声をかけるたびに「迷ってるの」という返事が返ってきた。
「けっ、さっさと出てこいよ。女ってやつはこんなときでも迷いやがる」
とっくのとうに着替えを終えた佐藤さんが文句を言う。
「一度出てきてください」
「迷ってるの」
白田さんがまた声をかけたが返事は同じだった。
「選ばなかった方の服も持っていけば良いんですよ。ただなんですから」
「迷ってるの」
「私ってキレイ?」
白田さんが脈絡もなく変な質問をする。
「迷ってるの」
返事は同じだった。
おかしい。
皆がそう感じた瞬間、白田さんがカーテンをあける。
試着室の中には手首に巻き尺の紐をまきつけたマネキンが二体立っていた。
「なんだ、こりゃ?」
佐藤さんの言葉を質問と認識したのだろう。
マネキンの顔に貼られた札が「迷ってるの」という声を発した。
マネキンの札に書かれた読めない文字がさらにぐにゃりと形を変えると落ちるように消えていった。。
札、いや、今では白紙といったほうが正確な代物が試着室の床にはらりと落ちた。
絢子と真田さんが床にへなへなと座り込んだ。
悲鳴をあげることもできなかった。
結局、全員がその場で着替えた。
俺は着替える絢子を佐藤さんの視線からなるべく覆い隠すように努力した。
外に出る。
「どうせ、そのうちどっかで会えるわ。そんなに気にすんな」
佐藤さんが面倒くさそうに吐き捨てた。口調こそ投げやりであったが、うつむいて誰とも目を合わせずに言葉を放ったのは彼なりに後悔しているのだろう。
「会えるかもしれませんし、会えないかもしれません」
そういった後に白田さんはうつむいて続けた。
「会えないほうが、幸せだと思います。僕らにとって。いや、彼女たちにとっても」
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