09 君をずっと前から知っていた

 校門の外には【←こちらにすすんでください】という貼り紙を見つけた。

 これがブラックスーツの二人組のいう道案内というものらしい。

 

 貼り紙はところどころの壁や電柱に貼られていて、俺たちは今のところ迷っていないはずだ。

 電柱には現実世界同様に他の貼り紙もされていたが、それらの貼り紙はすべて文字が歪んでいて判読できなかった。街区や番地を示す緑のプレートの表示も判読できない。見つめていると不安になり、気分が悪くなる文字列らしきものをなるべく見ないようにと気をつけながら、俺たちはゆっくりと進んでいく。


 しばらく進むと十字路にたどり着いた。

 先頭を歩く男、確か瀬能という若者は立ち止まって、手をあげる。

 止まれという合図らしい。

 その合図の理由は一瞬で理解できた。


 十字路のそば、道案内が貼られた電柱のすぐ後ろにたたずむコート姿の女性。午前中とはいえ、かなり暑い中、コート着用とは随分季節外れである。

 彼女は半身だけこちらに見せるようにしてとどまっている。どこかしらおどおどした、それでいて不気味な気配を放つ姿がこちらを見つめている。


 地味な、そしてよく見ると薄汚れたベージュのコート。袖口にはなにかのシミが浮き出ており、袖口から伸びる骨ばった手の先端、つまり指先にはところどころ剥げたどぎつい赤色のマニキュアがかがやく。

 長い黒髪はぼさぼさでべたっと頭に貼り付いている。

 うつむいて前にしなだれおちる脂ぎった黒髪に目は隠れているが、こちらを凝視していることだけはわかった。妙に黒目だけが目立つ。

 足元はエナメルのところどころ剥げ落ちた赤いパンプス。マニキュアといい彼女の決めカラーはどぎつい赤色のようである。

 もちろん、そう、もちろんマスクで口元を覆い隠している。

 一度も遭遇したことないがずっと前からカノジョのことは知っている。見紛うことのない怪異、小学生のときにびびっていたあれである。


 誰かがツバを飲み込む音がやけに大きく聞こえた。


 「出ましたよ」

 

 白田さんの事前の説明だと、口裂け女は撃退できないと考えたほうが良いらしい。

 「あくまで『逃走』なんですよ。だから、油断してはいけません」というのが彼の念押しであった。


 ポケットのポマードの入れ物を確かめる。

 絢子の様子を見る。

 顔色は緊張と恐怖のせいか真っ青だが、こちらを見返す目はしっかりとしている。彼女もちゃんと彼女もポマードを確認している。


 「あたしってキレイ?」

 電柱の影から歩み出たそれは俺たちにゆっくりと問いかける。

 小学生のときのたわむれで何度も聞かされた有名な文句、それをはじめて実物の口から聞く。

 抑揚のない、カセットテープやレコードを逆回転させた時の音のような気持ちの悪い声だ。とても耳障りで、耳を覆いたくなる。


 白田さんによるとどう答えればよいかは諸説あるらしい。やってはいけないのは相手の言の否定だという。

 要するにブスとか言おうものなら一瞬で地獄行きというわけだ。

 逆に相手の言を否定さえしなければ、第一段階はクリアである。


 皆、それの問いかけに静かにうなずく。


 それは立ち止まる。

 それの骨ばってささくれだらけの指が、ずいぶん昔に塗ってそのまま剥げ落ちるにまかせたようなマニキュアで彩られた爪がゆっくりとマスクを外す。


 耳元まで避けた口が露わになる。ご丁寧に耳元までどぎつい赤色の口紅を塗りたくっている。やはり赤が好きらしい。


 「これでもキレイ?」

 気味の悪い声が再度俺たちに問いかけをおこなう。


 ここで逃走だ。

 俺たちはポマードを取り出す。

 これみよがしに掲げてゆっくりと歩き始める。


 怯むそれの横をゆっくりと抜けていく。

 それが口を大きく開けて息を吸い込むのがわかる。


 耳まで裂けた口を大きく開けて、天を仰ぐ。

 そして……。


 「ァァアアアァアアァアァアァァァアアアアアアアタシッテェェェェェキレイィィィィー?」


 びくっとしてポマードを取り落とした一人にそれが抱きつく。

 嫌な音とともに彼の首がくるりと回転する。


 「投げろ、逃げろっ!」

 誰かが叫んだ。


 「キレイキレイキレイキレイキレイキレイキレイ?」

 絶叫、何かが砕ける鈍い音。

 助けを求める声、痛みを訴える声はすぐに小さくなっていくのに、どういうわけか俺の鼓膜に届く。


 耳を塞ぎたくなるような音に襲われながら逃走する。


 俺たちは必死に駆け抜けた。

 絢子の手だけは離さないようにする。


 駆ける駆ける駆ける駆け続ける。


 ◆◆◆


 「はぐれたみたい」

 田中さんという女の子が肩で息をしながら、言った。

 白田さんが座り込んで腹を押さえている。

 

 絢子もごほごほと咳き込んでいる。

 俺は彼女の背中をさする。


 恐ろしい叫び声が聞こえなくなり、俺たちの息も切れ、動けなくなったとき、その場にいたのは七名だけであった。

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