08 ポケットにポマードを

 午前六時三七分。

 

 俺は絢子と白田さんと並んで体育館裏で壁に手をついて、嘔吐おうとしていた。

 嘔吐しながら、自分のゲロにダイブしようとする白田さんを支える。

 まぁ、彼はすでに俺のゲロまみれなのだが、それでもさらに汚れることはない。直接謝ることのできない俺なりの罪滅ぼしである。


 「私、帰ったらね。一生飲まない。お酒なんか嫌い」

 絢子はそう言うとえずいた。

 ごぼごぼと胃の内容物をぶちまける。


 「脳みそをとりはずして、ホルマリンで洗浄したい。血管を揉み洗いしたい……」

 そういった後にごぼっと吐いた白田さんは俺の支えむなしく顔面に吐瀉物としゃぶつペインティングをほどこすことになった。


 ずきずきする頭、嘔吐。

 どちらも不快なものであるが、生きているから体験できるものだ。


 ◆◆◆


 結局、翌朝を無事迎えられたのは二七名だった。体育館に転がる死体の数は一五。

 そもそも公園にいたときは一〇〇名近くいたはずだから、ほんの数時間で七割以上の人が亡くなったことになる。

 俺たちの感覚はすでにどこか麻痺してしまっていて、朝、体育館で冷たくなっていた人を見てもそれほど驚かなくなっていた。あるいは酒で酔って感覚がとことん鈍っているのかもしれない。

 

 朝を迎えられた者たちが外の水道で体や衣服の汚れをぬぐいおわり、体育館の比較的汚れていないところで二日酔いの体を休めていた時、自動車のエンジン音が聞こえた。


 ブラックスーツの二人組、相変わらず妙な警察手帳もどきを掲げる。

 【法務調査調停監視庁 Legal Investigation and Mediation Board of Observation】という朱色の文字をこれみよがしに見せつける。

 サングラスの奥の目は見えない。

 

 「おはようございます。お目覚めの気分はいかがでしたか?」

 二人組の片割れが抑揚のない喋り方で話しはじめた。メズだったかサンカワだったか、どちらかはわからない。

 

 良いわけないだろう。

 誰もがそう思ったに違いない。


 しかし、俺たちは答えない。

 ブラックスーツの二人組は気にもとめない様子で、一度外に出て黒いセダンのトランクから段ボール箱を運び出して体育館に運びこむ。


 「あいつらが荷物運んでる間に、いっそ、これに乗って逃げちゃうってのはどうですか?」

 俺は思いつきを提案する。


 「やめといたほうがいいですね。どうせ、気がついたら後部座席かボンネットの上に変なものが乗っていてひどい目に合うのがオチです」

 白田さんはそう言うと、ごぽっと変な音を出した。

 綺麗な弧を描いて放たれた彼の吐瀉物は体育館のライトにきらきらと輝いた。


 ◆◆◆


 ブラックスーツの二人組は段ボール箱を体育館前に置くとマイクロフォンを取り出した。


 「こちらに朝食とアメニティをご用意しました」

 「各人必要なものをご自由にお使いください」

 俺たちは舌打ちで返事をする。


 「チェックアウト時刻は午前一〇時となっております。それまでにご支度をお済ませください」

 「外に出たあとは道案内にそって次の目的地まで移動してください」

 それだけ言うと、彼らは再び黒いセダンに乗って走り去っていく。


 朝食は相変わらず、乾パンとハンバーガーだった。

 もちろん誰もハンバーガーには手を付けない。そもそも食欲もないのだ。


 佐藤という強面の男がハンバーガーを壁に放り投げた。

 壁に叩きつけられたハンバーガーが包み紙から飛び出す。

 パテがうねうねと動き出しても驚きもしなくなっていた。


 アメニティグッズはビジネスホテルや旅館にあるようなものだった。

 ビジネスホテルや旅館のアメニティグッズと違う点は二つあった。

 痛み止めが入っていた。これはほぼ全員がお世話になった。

 もう一つは、どういうわけか、大量の整髪料が入っていたのだ。


 「ワックス?」

 手にとってつぶやいた俺の横で整髪料がいらなさそうな老人が「違う違う」と否定する。

 名前が思い出せないが、気のいい爺さんだ。


 「ポマードってやつだよ。オレもな、昔はこれでびっと決めてたもんよ」

 彼は手ぐしで髪を整えるマネをしながら、禿げ頭をなでる。


 「怖い話ばかりのとこでポマードっていえば、次に何がくるかは私だってわかるわ」

 腫れた顔でしゃべったのは昨日騒動で殴る蹴るの暴行を受けていた中年女性だ。

 真田さんといった。顔こそ結構腫らしていたが、頭を蹴られたにもかかわらずそこまでひどい怪我ではなかったらしい。

 ちなみに殴ったほうの青年は朝冷たくなっていた。


 真田さんは両の人差し指で唇のはしを引っ張る。


 「あたしってキレイ?」


 「口裂け女とポマードが何の関係があるんですか?」


 「整形手術に失敗した執刀医がポマードでがっちり髪を固めていたからじゃない?」

 真田さんの自信なさげな返事のあとを白田さんが引き受ける。


 「理由はさして重要ではないんです。呪的逃走という神話の時代から存在する一つの話型なんですよ」

 イザナギの話は知らなくても、昔話で三枚のお札ってやつがあったでしょうと白田さんが大学の先生らしいまだるっこしい話し方で説明を始める。

 

 「口裂け女ってのは古代のすべてを飲み込む女神の零落した姿なんですよ」

 ひとしきり話し終わった白田さんが胸をはる。

 この人はこの状況でも楽しそうに話す。心底、この手の話が好きなのだろう。


 俺たちはポマードをそれぞれポケットに突っ込む。


 「これだけ色々入っていて着替えがないってのが性格悪いよね」

 一人の女の子が嫌そうに吐き捨てた。

 確かに血や吐瀉物、人によっては汚物で皆汚れに汚れきっている。洗ったりぬぐったりするにしても限度がある。


 皆、深くうなずく。

 

 「チェックアウト」に遅れたら何があるかわからない。

 アメニティに入っていた痛み止めのおかげで動ける程度に回復した俺たちは時間に余裕を持って体育館を出た。

 

 亡くなった人たちを埋葬することもできなかった。

 だから、せめて校門で黙祷もくとうをする。こんなにも日差しがきついのに、こんなにも暑いのにセミの声すらしない。

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