07 ムラサキノカガミ

 「あと二時間で忘れられるわけないだろ。ムラサキノカガミムラサキノカガミって叫びやがって、あいつら」

 俺と同じくらいの年頃にみえる青年はそう叫ぶと床にツバを吐いた。

 

 「やめてよ! せっかく忘れようと頑張っていたのに。あんたが言うから思い出しちゃったじゃない」

 中年の女性が金切り声をあげた。思いのほか声量のある高音が俺の鼓膜をゆらす。  

 涙で化粧が落ちている。普段は強気であろう綺麗であろうとつくろった表面がはがれおちて、弱気でハリのない素顔がはみ出ている。それを隠そうと高い声を張り上げているのか。

 彼女は忘れなければならないあの言葉を一言も口にしていない。それにもかかわらず、俺の脳内では彼女の金切り声であの言葉が連続再生される。


 リピートアフターミー。ムラサキノカガミ! ムラサキノカガミ!


 頭をふっても金切り声とあの言葉が続く。

 いらいらする。

 そのようないらだちは当然俺だけが感じたものではない。


 「うるせぇ、ババァ! そんなにすぐ忘れられるわけないんだよ。俺のせいにすんじゃねぇ、このヒスババァ」


 「どっちがうるさいのよ!」


 リピートアフターミー。ムラサキノカガミ! ムラサキノカガミ!


 深夜の体育館の中で怒号が飛び交う。

 人が死ぬ様、消える様をすでに何度も見せられている極限状態だ。

 口撃が攻撃となるのは必然だったのかもしれない。


 ツバを吐いていた青年が金切り声を張り上げる中年女性の頬を張った。

 一瞬怯んだ女性だったが、すぐさま青年の顔をひっかいた。


 「ってーな、クソババァ! っころすぞ!」

 青年の怒号とともに蹴り飛ばされた女性は別の男性にぶつかる。

 ぶつかられた男性は舌打ちとともに邪険に振り払う。

 体育館の横に叩きつけられるように倒れた女性がわんわんと泣きわめく。


 「うるせぇんだよ! 黙れ!」

 最初の青年がサッカーボールを蹴り飛ばすように女性の頭を蹴り飛ばす。

 泣きわめいていた女性がごろごろと転がる。

 軽い喧嘩、小競り合いでは済まされないレベルまでいとも簡単にヒートアップする。

 転がった女性は頭を押さえながらすすり泣く。

 青年が追い打ちをかけようと走り寄る。


 絢子が飛びつくようにして女性をかばう。


 「おねがい、やめてください。この人死んじゃう!」

 

 青年の勢いはとまらない。

 俺は慌てて絢子と青年の間に飛び込む。

 アバラに鈍い痛みが走る。

 青年は自分をとめることができないのだろう。

 俺のアバラをいためつけたキックが今度は脇腹を蹴りつける。

 俺はただただうずくまりながら殊の外冷静に青年の心境を分析していた。


 「おねがい。考えがあるの! 皆で助かるから!」

 普段は出すことのないような大きな声、それでいながら心地よい声で絢子が訴える。殺気立った青年がようやく止まる。

 周囲に伝染しかけていた殺気がしぼまっていくような気がした。


 「話してみろよ」

 青年はバツが悪そうに言う。


 「ごめんね。ありがとう。痛かったでしょう。悟くんも痛かったと思うけど、今はこの人をお願い」

 絢子は嗚咽を漏らす中年女性を俺に託すと、話し始める。絢子は目に涙を浮かべ歯を食いしばっている。泣き出さないように必死なのだろう。

 俺はポケットティッシュを取り出し、中年女性にそっと手渡す。


 「白田さん、元のお話について確認なんですけど、あの言葉は二十歳になる時に忘れていたら、後から思い出しても問題ないんですよね」

 絢子が大きな声で言う。


 「ええ、そうです。そうでなければ、その言葉は聞いただけで大人がばたばたと倒れる呪いの言葉になってしまいます。それはさすがに都市伝説としてのリアリティがありません」

 白田さんは答えた後に、なにかに気がついたように一人でかぶりを振っていた。


 「サングラスの人たちが言ったのは『日の出』のとき、わざわざ時間まで教えてくれました。ということはそのときだけ意識からなくしてしまえば良いんです」

 俺を含む数名にも彼女の言いたいことがわかった。

 しかし、まだわからない者もいるようだ。

 先ほどの青年、騒ぎの発端となり、俺のあばらを思いきり蹴りつけてくれた彼もその一人のようだった。


 「そんな都合よくいくものかよ!」

 青年の口調が再びいらだちをおびたものになっていく。

 彼のいらだちが再び暴力となって絢子に向かっても大丈夫なようにと、俺は青年と絢子の間に移動する。

 

 「それが都合よくいくかもなんです。だって、日の出の時間、午前四時五二分に意識がなければ良いんですから」

 確かにそのとおりだ。俺は絢子の言葉を背に受けながらうなずく。

 

 「だから、どうすれば良いんだよ?」

 青年にはまだわからないようだ。

 頭の回転が悪いやつだ。


 絢子が答えようとしたとき、ガラス瓶をぶつける音がする。

 

 「皆さん、こちらに良いものがありますよ」

 いつの間にやら白田さんが酒瓶を両手に抱えて打ち鳴らしていた。


 午前三時〇七分。


 日の出まで一時間四五分。


 ◆◆◆


 「一時間半飲み放題コースで酔いつぶれしまえばよいわけか」

 一升瓶をラッパ飲みしたあと、はやくも少し呂律のまわらなくなってきた男が笑う。


 「お酒の苦手な人はこれで」

 絢子が甘ったるいが度数の強い酎ハイの缶をまわしている。

 誰もがはやく酔いつぶれようとがぶがぶと酒を飲んでいる。


 「ねっ、解決策あるでしょ? いや、それにしても西田さんは頭が良いなぁ。先輩鼻が高いです」

 何がおかしいのかわからないが、白田さんはケタケタと笑いながら酒をがぶ飲みしている。


 「今更だけど、飲みながら自己紹介しましょう。僕、白田いいます。彼女募集中の魔法使いでぇす」

 大きなゲップをしたあとに、彼はシラフでは到底言わないであろう自虐的な自己紹介をはじめる。


 「お、おじさん、童貞なの?」

 先ほどの青年がテキーラの瓶を片手に笑っている。


 「熟成三五年、真実の愛を求めて大切にしてきました。嘘です」

 白田さんが今度は泣き出す。

 忙しい人だ。


 「悟のいいとこみたーいーみたーいー」

 白田さんは酒瓶をふりまわしながら、一気飲みコールという負の文化遺産を披露する。彼と別のおじさんに応答しているうちに俺の足元もふらついている。

 すぐ横では絢子がよだれを垂らして寝ていた。

 ああ、これで大丈夫だ。

 初めて見る彼女のだらしなく酔いつぶれた顔が俺にはたまらなく愛おしかった。

 寝ている最中に吐いても大丈夫なように彼女の顔を横向きにする。


 「あ、あさ、あさみんなであいましょー」

 俺はラム酒を流し込んでから絶叫するとそのまま倒れた。


 ◆◆◆


 体育館に差し込む光で目が覚めた。

 起きるなり、俺はその場で嘔吐する。

 絢子にかからないようにと必死に顔をそむけた結果、白田さんが俺の吐瀉物まみれになった。

 頭がずきずきする。

 俺は白田さんに心の中で謝りながら、ずきずきする側頭部をもむ。

 空いている手でスマートフォンを取り出す。

 

 午前五時四七分。


 すぐ横に転がる絢子の寝息を確認する。

 安心して寝返りをうつ。


 寝返りをうった先にいたのは、たしか田中という名前の中年男性。最近子どもができて飲み屋に縁遠くなったと愚痴めいたものをはきながら、子どもの自慢をしていた。待ち受けに映る奥さんと赤ん坊。年をとってようやくできた子供だからと涙ぐんでいた。


 彼は苦悶の表情を浮かべたまま冷たくなっていた。

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