06 あのことば

 「離れないでね。聞かないでね」

 真っ赤な顔をした絢子あやこはささやくと俺の手を握ったまましゃがみこむ。

 俺は「ああ」とだけ答える。

 体育館の裏、暗がり。

 恐怖と羞恥心、どちらが生じさせたのかわからない汗がじっとりと俺の手を湿らせる。


 俺たちがこのような場所でこのようなやりとりをしているのにはわけがある。


 当然と言えば当然なのかもしれないが、トイレに行った者は絶叫だけを残して帰ってこなかった。


 トイレには「花子さん」、「赤い紙」その他諸々の怖い話がある。それらの回避法は特定のトイレに行かない、特定の時間に行かないなどがほとんどである。危険が待ち構えてしまっているところに赴いてしまったら最後危険から逃れる術は語られないことがほとんどだ。「赤い紙」と答える声のあとに残されていたのは血塗れの死体、別の返答をしても結局死体の状態が変わるだけで死は確定する。そのうえで犠牲者の発見として怪異の存在が語り継がれる。白田さんが解説をしてくれたものだった。


 ちなみに白田さんがさらなる犠牲者が出ないように注意をする必要はなかった。

 誰も確かめに行こうともしないからだ。もちろん、用便のためにトイレに行くものもいない。

 もよおした者はどうするか。

 今の俺たちのように体育館裏の暗がりに来ることになるわけだ。


 それにしても片手で両耳を塞ぐというのは困難な仕事だ。

 否が応でも聞こえてしまう。

 俺は人並み程度、若いなりの性欲があるが、特殊な性癖は持ち合わせていない。

 それにも関わらず俺は欲情していた。

 一種の生存本能が発動しているのだと俺は自分に言い訳する。

 劣情をもよしている自分、我ながらしょうもないやつだと言い訳しながらも思う。

 できることならば彼女に気づかれないようにと切に願う。


 幸か不幸か、俺の劣情のもとは近くで長々と続く放尿とやけに小気味の良い排便の音、それに続く間の抜けた独り言で少しおさまった。


 「いやぁ、すっきりしたぁー」

 間の抜けた声の主である白田さんのそばを用を済ませた俺たちがこっそり通り過ぎようとすると向こうから声をかけてきた。

 空気の読めない人だ。

 ただ、このときは、彼の空気の読めなさのおかげで救われた。

 それでも若さを主張する自分の身体を隠すように俺は歩む。

 

 「君たちもトイレですか? 明け方になったら落ち着いてトイレを済ませられるようなところに行きたいものですねぇ」

 俺は曖昧あいまい相槌あいづちをうって、絢子と体育館に向かう。


 「そうそう、ホラー映画ならば、セクシャルな行動やいちゃつく若いカップルというのは真っ先に死ぬものですが、都市伝説にはその手の話はありませんからね。だいじょうぶだと思いますよ」

 体育館の明かりが近くなってきたところで白田さんがいまだにやや前かがみに歩く俺に耳打ちをした。

 この人は空気は読めないくせに妙な観察眼はあるようだ。

 頬がかっと熱くなる。


 絢子が一瞬、目を大きくしてこちらを見る。

 気づかれたようだ。

 「ごめん。俺、こんなときに……」

 彼女に幻滅されるのがものすごく怖かった。

 このようなことで涙が浮かんでくるのは情けない話だが、俺は必死に涙をこらえる。

 絢子が背伸びをして俺の頭をなでる。

 

 「だいじょうぶ。悟くんが変態だってことなんてとっくに知ってるから」

 そして、「無事帰れたら、ね」と俺の耳元でささやく。

 俺は彼女の優しさに救われる。涙はそのままこぼれ落ちたが、その意味合いは先ほどとは異なっていた。


 「箸が転んでも硬くなっちゃうお年頃ですからねぇ」

 能天気に笑う白田さん。


 「白田先生、セクハラでクビにならないんですか?」

 絢子は大人しく上品な子だ。

 サークルでも誰かが下品な冗談をいうと、顔を赤らめてしまっていたのに、この非日常空間でなにか吹っ切れたようだった。


 「いやぁ、職場では気をつけていますよ。そもそも、僕は君らの先生ではないので、先生はやめてください。『先輩』か『さん』でお願いします」

 そもそも年はそれほど変わらないはずだと、白田さんは自分の年齢を言う。


 「じゃあ、白田さんで。一回り以上は十分離れていますよ」

 絢子が笑う。ちなみによくよく聞いてみると彼は俺たちの大学の先輩でもあったのだが、体育会に所属しているわけでもない自分たちが同じ時期にキャンパスを歩いていたわけでもない彼を先輩と呼ぶのも何かおかしく感じた。絢子もそうだったのだろう。だから白田「さん」である。


 「あやちゃん、ずいぶん強くなったね」

 そう言う俺に絢子は無言で微笑んだ。

 彼女の代わりに言葉を発したのは白田さんだった。


 「祝祭空間の中では通常の役割、秩序はしばしば逆転しますからね。西田さんもそれで強くなったのでしょう」

 彼はよくわからないことをぶつぶつとつぶやく。


 「若いアベックを無事愛の巣に帰すためにもおじさんもといお兄さんはがんばりますよ」

 今の言葉遣いはおそらくわざとだろう。

 空気が読めないとか言ったのは申し訳なかったのかもしれない。

 彼は彼なりに気遣いをしているようだった。

 ただ、できることならば、今できる最大の気遣いは俺たちをそっとしておくことだと気づいてほしいところである。


 俺たちが戻ってしばらくしてから、入口の方に車が止まる音がした。

 闇の中に溶け込むように停車した黒いセダンから降りてきたブラックスーツの二人組は体育館の入り口でネクタイをなおした。

 それぞれが手に大きなマイクロフォンを持っている。

 二人は体育館の中にとどまる俺たち約四〇名に向かって一礼する。

 そして、手にしたマイクロフォンに向かって交互に叫んだ。


 「ムラサキノカガミ!」「ムラサキノカガミ!」


 「本日、日の出のとき、この言葉が意識に残っていた方は死亡します。よって十分にお気をつけください。なお、本日の日の出の時刻は午前四時五二分となります」


 俺はあわててスマートフォンを取り出す。


 午前二時四四分。


 あと二時間と八分で俺たちはこの忌まわしい言葉を意識から追い出さねばならない。


 「ムラサキノカガミ!」「ムラサキノカガミ!」


 彼らはもう一度マイクロフォンに向かって叫ぶと体育館の外の闇の中に消えていった。

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