第11話

 意外に早く、エンは目覚めたと鏡月は報告した。

 丸二日眠っていたセイより、一日早い目覚めだったと言う。

「まあ、お前と違って、外見は丸々残っていたからな。その分早かったんだろう」

 鏡月は、のんびりと言いながら林檎に包丁を当て、器用にするすると皮をむき始める。

 丸ごとでもいいと言ったのだが、皮と芯くらい食わせろと兎に言われてしまい、鏡月がその二つをはじき出すまで待っている間の報告だった。

 丸二日眠っている間に、セイは市原家の一室でお世話になっていたようだ。

 見知った天井を見上げた時、振動を立てて部屋に入って来た葵を見た時、よりによって何故この家を選んだんだと、ここに運び込んだ誰かに毒づいてしまった。

 葵もその妻であり、自分の父親違いの妹である朱里も、目覚めてから一日たった今も仕事そっちのけで構ってくる。

 完全に、生活の邪魔をしている状態が、恐ろしく居心地を悪くしていた。

 そんな中、一度オキたちと合流していた鏡月が、顔見知りの兎と共に訪ねてきた。

 見舞いと称して様々な果物と、様々な根菜を持ってきた二人は、セイが結局見届けられなかった当案件の行く末を報告するために、訪ねて来てくれた。

「その言い分だと、体力や精神力が足りない心配は、元々していなかったのか?」

「当たり前だ」

 しれっと鏡月は答えた。

「あの、変態親父の、しかも、完全に人間離れしてしまった息子だぞ? 蓮で既に証明されていたからな、全く心配していなかった。蓮と比べると、遅い方だったが」

 怪我の複雑さを考えれば、他の者より早い方だと言われ、セイは天井を仰ぐ。

 そんな若者に構わず林檎を剥き終えた鏡月は、紅い皮の端をつまんで傍に座る兎に差し出し、実の方に包丁を入れる。

 皮を器用に白い両前足で受け取った兎は、薄い皮の端を口に入れ、小さな音を立てながら食べ始めた。

 その合間に言葉を紡ぐ。

「今は、身を寄せる場所を探している最中で、それまでは雅と、過ごすことになったようだ」

「……」

「今の所は、お前の生死を確かめる動きは、ない」

 確かめないからと、希望を持っているとも限らないが、我を失っているわけでもないと兎は言う。

「……本当に、思い込んでしまったんだな。いや、それはいいとして、そのために、道を踏み外しそうになるんだな、エンは」

「そうらしいな」

 溜息と共に確認する若者に対する答えは、軽い。

 他人事と考えているのが、明白だ。

「いい機会だから、そのままお前は死んだと思い込んでいてもらうことにした。時が来て、記憶が風化し、完全に苦い思い出と化するまでは、そのままでもいいとも思っているが、それをするにも、見張りがいる」

 適任者はいる。

 雅の父親である水月は、この件で完全にエンを見損なってしまったようだが、娘のために更生させようと考えている。

 だが、長く押し付けるわけにもいかない。

「寿命が、問題だな」

「ああ」

 カスミが一から作り上げ、蘇らせた男は、当時の人間にしては長生きし、その上全く自我を失わずに幽霊のような存在として、徘徊している。

 だが、水月に関してもそうとは言い切れない。

「あいつは、カスミが蘇らせたんじゃないのだろう?」

「ああ。あの変態親父の父親に当たる奴らしい。先に蘇った狼夫婦は、残っていた殆どを使っての蘇りだったが、ミズ兄は、利き腕だけだったと聞いた」

 その分、作り上げるのに時間がかかったとも聞き、蘇ってからも暫く、記憶が混雑したと言っていた。

「長く生きても、人の平均寿命だとして、あと数十年だ。雅がエンの死を振り切ろうと、色々と苦心していた時期を考えると、足りなすぎる」

「それを指摘すると、水月は律に引き継ぐとも言っていたが、律も身を固める頃合いだろう?」

「まあ、そろそろ、オキも年貢を納めて貰わんと、余りに待たせ過ぎだな」

「……」

 四つに切った林檎から、芯だけ切り出して兎に手渡した鏡月が、三日月型の実を包丁に刺して、セイに差し出す。

 その包丁を受け取って実にかぶりつく傍で、金目の若者は悩ましげに溜息を吐いた。

「あいつも、真面目な男だから、そう長く腑抜けにはならないとは思うが、もしもの事を考えると、色々と気をもんでしまうな」

「そうか。お前も、見ぬ間に色々と思いやるようになったんだな」

 しみじみと兎が言いながら、林檎の芯をかじる。

「出刃包丁で林檎を切った上に、それを串代わりにしているところは、ずぼらなんだがな」

 果物ナイフが、ないわけではないのだろうと、揶揄う兎を睨み、若者は反論した。

「人参や牛蒡や大根を、見舞いに持ってくる奴は、どうなんだ? まさか、畑から盗んできたんじゃなかろうな?」

「そんなわけあるか。古谷の御坊が、見舞いに持って行けと渡してきたんだ。生でも美味しいですよと」

 古谷氏もの感覚も、世間からかけ離れつつあるなと、鏡月は呆れてしまったが、気を取り直してセイを見た。

 いつもの無感情な表情で、生き物を突き刺すように、出刃包丁で二つ目の林檎の切れた実を、力強く刺している。

「……まだ、物がつかみづらいか?」

「つかめはするけど、刺す力の感覚が、今一つかめない。強く刺し過ぎた」

「そうだな。串を貰ってくるか?」

「いや、遅いだろう。と言うより、手でつかめ」

 赤い目を細めて二人を見やり、兎は溜息を吐いた。

「……お前の刀は、矢張りすぐに消えたのか?」

「ああ」

 のんびりと笑顔を浮かべながら、鏡月は頷いた。

「何の感慨もなく、消えてしまった。少しくらい、執着を見せてくれるのならば、オレとしても感傷に浸ったんだろうが、ああもあっさりと逝かれては、実感が薄い」

 そう言いながらも、声は僅かに湿っていた。

「シュウレイの方も、白猫が残っていただけだったらしい」

 残ったあの猫を、今後どうするのかも、今は画廊の主人を交えて話し合っているらしい。

 あの場を解散した後すぐ、そんな報告があったのだが、妙にぎこちない言葉遣いで、女が話していたのが気になった。

「矢張り、消えるのを見守ってやれなかったのが、響いているのかもしれん」

 割り切って敵に挑む方を選んだが、矢張り心は複雑なのだろうと、鏡月は納得していた。

「……凌の旦那の身柄を、オレに預けようとして来たのは、解せないが」

 凌の身柄は、今は上野家にある。

「まだ、目覚めてないのか?」

「いや。あの場が解散してすぐ、目覚めはしたんだが、何故か心配されてしまって、上野家にまで押しかけられたんだ」

 そこまで心配しているようなのに、ここには同行しなかった。

「……お前に会うのは、後ろめたいらしい」

「……意味不明だな」

「ああ」

 色違いで似ている若者二人の、一人の男に向けての酷評である。

 こちらも色々と問題があるようだが、水月親子の方もそうだった。

 エンを治療するため、鏡月を呼ぶ段になった時、兎が連絡を取ることにしたのは、あの別邸に運び込んだ時点で、水月が雅を手にかける覚悟をしていると気づいたせいだった。

 律の携帯機器を借りて若者と連絡を取り事情を話すと、鏡月の方も同じ危機感を持ち、あっさりと意思疎通ができてしまった。

 そのおかげで、こちらの事情を聞きだされると言う手間がなく、意外に早く鏡月は合流してきたのだが、エンはそれ以上に早く怪我をしたままの状態で、意識を取り戻した。

「あれはひやりとしたな。先に術をかけて雅が来てから、意識を無理に浮き上がらせてやろうと思っていたんだが。流石はカスミの直系だ」

「流石と言われる割に、同じような体質になる子が少ないのは、どうしてなんだろうな」

 カスミの子は、意外に沢山いる。

 鏡月の下世話な疑問は、兎の疑問でもあった。

「まあ、余りに血を残し過ぎて、直接異形の血を継ぐ者が減った、と言うところかもな。子ができにくい一族だからと、方々に種をまき散らすようにしていたようだし。芽吹かなかったのは、何もそれだけが理由でもないがな」

 相手が女でなければ、問題外だ。

 兎が言うと、鏡月が嫌な顔になった。

「あんた、あのくそ親父の育ての親、なんだってな。もしや、その手の事も教えたのか? ミズ兄も、教え子だったと律に聞いたぞ」

 初めて会った時は、赤黒く見えるほどに濃い栗毛色の大兎だったこの白兎は、一時姿を消した時までずっと、愛玩兎としてしか認識していなかった。

 大物だったと知ったのは、誉を訪ねて北九州に行った時だった。

 その上、カスミと水月に色事を教えた獣だったと知り、今までも疎遠だったが、これからも距離を置きたい気分だった。

「と言うより、こいつにもあまり、近づくな」

 包丁での突き刺しを諦め、手で林檎を掴んで頬張っていたセイをさし、鏡月は真顔で言い切る。

「大体、何しに出て来たんだ? あんたは死んだと、誉には聞いていたんだが?」

「それは、話せば長い。腰を据えて話せるときに、ちゃんと話してやるから、今日の所は解決すべき話をしよう」

 その言い分には賛成し、若者は敷布団に座るセイが、パイナップルに手を伸ばす手を止め、出刃包丁を手に取った。

「これも、まる齧りはやめろ」

「流石に、それはしないよ。過保護だな」

 自分を何だと思っているのかと眉を寄せるセイに構わず、危なげなく芯のくりぬきに取り掛かる。

「まずお前だが、暫くここで療養しろ」

「嫌だ」

「ここの方が、見舞いも来やすい。人目も多いから、逃げにくい」

「見舞いは兎も角、監視目的か?」

 嫌そうな若者に、鏡月はあっさりと頷いた。

「勿論、その意味合いが濃いに決まっている。お前、この年末年始に、早期解決が望まれる仕事は、全て終わらせているんだろう? 今回の件が、自分にどう影響があるか、分からなかっただろうからな。なら、暫く療養でも、問題あるまい?」

「……何で、知ってるんだ?」

「蓮が言っていた」

 あっさりと答えられ、セイは思わず深く溜息を吐いた。

「……本当に何で、そういうことはすぐに気づくんだ、あの人は」

「そういう事だけじゃないだろう、蓮が気づくのは」

 恐ろしく、勘が鋭い蓮の事を知る鏡月は、セイの嘆きの一部を訂正した。

「言わないだけで、色々と察していることが、多いはずだ」

「どんどん、勝るところが減っていく。これで、背まで追い越されたら、私は立ち直れない」

「あー、そうだな。それは、確かに」

 二人の若者が、再び一人の男に対する評で考えが一致した。

 若いな、とつい微笑ましく見守っていると、そっと部屋の戸をノックし、扉を開いて覗いてくる男がいた。

「昼は、どうしますか? よろしければ、用意しますよ」

 そう訊いてから、鏡月が包丁で挑んでいる物に気付く。

「え、それ、食うんですか? 今?」

「林檎では足りなかったらしい。だが、昼飯を用意できるなら、そっちを食うか?」

 丁度、パイナップルの芯を取り除ききった鏡月が、芯を兎の方に渡しながらセイに問う。

「……これは流石に、食うのを躊躇うんだが」

 それを凝視して唸ってから、兎が言う。

「それは、夜飯の後のデザートに、取っておいてはどうだ? 消化のいい食い物の方が、お前も安心だろう?」

「さっき人参を丸ごと勧めていたの、あんたじゃなかったか?」

 苦い顔の男葵は、訪問してすぐの珍事を思い出していた。

 腹が減っていたのか、勧められるままにかぶりつこうとするセイを、鏡月と二人して止めた。

 今はその人参を含む根菜を使った豚汁が、出来上がっている。

「寝ているだけなのに、どうしてこんなに腹が減るんだろうな。いつも不思議だ」

 無感情な顔で、セイが呟くのを横目に、兎が立ち上がった。

 何処からか取り出した風呂敷を広げ、パイナップルの芯を包み込み、首に巻き付ける。

「オレは、そろそろお暇する」

「ん? まだ話は終わっていないぞ?」

「オレの方は、終わった。知りたいことも充分わかったから、もう用はない」

 不審げに眉を寄せる鏡月に笑いかけ、首をかしげる若者と葵にも軽く手を振り、兎はあっさりと市原家を辞して行った。

 昼食を部屋まで運び込む朱里に代わり、その兎を玄関まで見送って葵がすぐ戻り、四人で膳を囲む。

「そういえば、昨日、あずまさんも来ましたよ」

 その席で、葵が思い出したように報告し、セイも頷いた。

 東とは、ロンのこの国での苗字だ。

 名前も日本風で存在するが、あまり知られていない。

「それとなく聞いてみたけど、奴の正体や獣の方の姿は、知らなかったらしい」

「よく、隠しきったもんだな、あの親父も」

 それは、シノギの親に対する件にしても、そうだ。

「あの人を騙し切るのも、難しいと思ったけど、よくもここまで」

「いや、あの人は……」

 セイの真面目な感想に、鏡月も真顔で首を振った。

「意外に鈍い。というより、親や祖母の存在を、探そうとも思わない人なんだ」

 他の親族にしてもそうだったのだと言うのは、カ姉弟発見時の話を聞いた時に明らかになった。

「武器づくりの上手い部族があると聞いて訪ねた集落で、偶々あの姉弟とその母親と出会ったらしい。その頃には、既に所帯を持てるほど成長していたと言うから、蓮の母親も知っているかもしれん」

「……蓮の剣の師匠は、その母方の祖父だったと言うのは、聞いてるけど」

「いや、オレは、初耳だぞ?」

 何気なく情報を開示したセイに目を剝き、ついつい葵が言葉を挟んでしまった。

「? そうなのか?」

 首をかしげる若者と同じように、鏡月も首をかしげて、来た当初から不思議だったことを尋ねた。

「そういえば、蓮は? ここに一緒に戻っただろう?」

「ええ」

 答えた葵は、セイが目を細めたのに気づき、取り繕った。

「今は、仕事で出てます」

「……目が覚めた時には、もういなかった。文句の一つ言いたかったんだけど」

 代わりに葵に詰め寄ろうとも思ったが、目覚めた直後のロンの襲来で、かなわなかった。

 葵と同じくらいのガタイで、地震かと身構えてしまうほどの振動と共にやって来た男たちに驚いてしまい、不満が消し飛んでしまった。

 葵も頷きつつも、先程はもっと驚いたと呟く。

「……チャイムの音で玄関に出たら、でかい兎とあなたが並んでたんで、何事かと思いました」

「リードをつけるのを、忘れていたな」

「そういう事ではなく」

 しれっと答えられ苦笑し、昨日訪問してきた二人の目的を話した。

 怪我が治ったという確認と、他の障りがないかの確認だった。

「ゼツお兄様も一緒にいらして、完全に全快したと言うお墨付きは貰いました」

「なのに、暫く療養しろと言われたんだ。おかしいだろ?」

 膳を整えながら、にこにこと答える朱里の言葉に、若者は文句たらたらである。

 だが、それに同意する者はここにはいない。

「療養と言う名の、謹慎だな。同意見で何よりだ」

 言いながら、並べられた食事を指さした。

「今はまだ、空腹になるのが早いだろう? その分、体力が落ちているのだろう。だから、暫くは大人しくしておけ」

 軽い釘をさすだけで、不服そうにしながらも、素直なセイの事だから、年上の指示には従うはずだ。

 途中、世間話を軽くしながらも昼食を済ませ、細かな報告も済ませると、鏡月も暇を告げる。

 見送りに出た葵に、玄関の前で気になったことを確認し、思い通りの答えを得ると、若者も足取り軽く市原家を後にした。

 それを見送りながら、大男は大きなため息を吐いた。

 セイが休む部屋に戻ると、手伝う間もなく妻が膳を片付けた後だった。

 相変わらず手際がいいと舌を巻きながら、再び布団の上に戻ったセイに告げる。

「キョウさん、見た目以上に落ち込んでるな」

 落ち込んでいるのに、全く別なことを考えて、それを振り払おうとしているように、葵には見えた。

 その言葉に、若者も大きく息を吐く。

「だから、あの人たちの刀を、残す方向で計画していたんだ。別物とは言え、意思が宿っているのなら、その意思を土台に、肉体を作り直せる方法を、探すこともできた、と思うのに」

 少なくとも、セイはそうするつもりだった。

 絶対に成功すると、そう考えていた。

「……お前、本当に、一瞬でもあいつに体を奪われない自信が、あったのか?」

「一瞬くらいなら、想定内だろ」

「オキたちは、それが不安だったんじゃねえのか? オレだって、聞いてひやりとしちまったんだから、相当だったと思うぜ」

 それ以上に、不安すぎて取り乱しただろう者もいるのだが、それは言わないでおく。

 代わりに、先程立ち去った若者の今後を考える。

「……無理せず、落ち込んだ方が、いいんだろうに。オレたちの前じゃあ、気を張るしかないか。どっかにあの人も、気を緩められる相手が、いればいいんだがな」

 そう簡単には、いかないかとまた溜息を吐く葵の声を聞きながら、セイは天井を仰いだ。

 何人かいる筈だのだが、その一人は今、娘の事で手が離せない。

 その延長上で、その弟子も忙しいだろう。

 消去法で、格好の相手が思い浮かぶのだが……。

「あの小父さん、本当に意味不明だな」

 一体何のために、鏡月の近くにいるのか。

 セイは実の父親の謎の動きに、不信感しか覚えていなかった。


 保育園の片隅の小さな畑に、兎は貰って来たパイナップルの芯を植えた。

「……それは、種であったのか?」

「知らん。だが、この辺りでは秘かに流行っているんだ。パイナップルの芯を植えると、いずれ実がなるかもしれないと」

「? 南に位置するとはいえ、南国の果物が、そう簡単に育つのか?」

「知らん。県庁所在地の県道の両脇に、似たようなのが植わっているから、そのくらいにはなると思われているのかもな」

 振り返らない兎の後ろで、透明な和装の男が困惑して首をかしげる。

「あれは、樹木の一種では?」

「知らん」

「先程から、知らんばかりだな」

「当たり前だ」

 植える作業を終えた兎が、肩越しに振り返った。

「兎が、そこまで知己であるはずがないだろう」

「まだ、兎の自覚があったのか」

 小さく笑いながらも真面目に言ったのは、和装の男よりも背高な男だ。

「様子を見に行ったはずなのに、妙な手土産を持って帰ったと思えば、それを植え始めるから、てっきり人間として生きるつもりかと思ったぞ」

「それでもお前は、驚かんだろう」

「勿論だ。寧ろ、そうしてもらった方が、私の方は嬉しい」

 真面目な声に兎は溜息を吐き、小さく噴き出した和装の男を睨む。

「オレとしては、お前と重が、そうやって仲良く並ぶ姿を見れたことが、嬉しいが」

「焼餅か?」

 一度、足蹴にしてもいいだろうか。

 つい距離を測るべく、背高の男の方、カスミを見上げたが、それを察した男は二歩ほど後ろに後退した。

「……鏡月は、空元気が過ぎて、凌の旦那に心配されるほどのようだ」

「それは、不味いな」

 兎の唐突な報告に、カスミは真顔で唸る。

「あの、心底鈍い叔父上を、心底心配させるという事は、相当落ち込んでいる。立ち直れるだろうか」

「そんなに鈍いのですか、あの御仁は? 戦闘民族のようだが」

「それだからこそ、野生の本能だけは鋭いのですよ。あなたと同じです」

 酷い言われようだ。

 その上、自分も同類だと言われてしまった。

 和装の男、重は大きく唸って空を仰ぐ。

 春の空は、雲もなく穏やかだ。

「あの御仁は、慰めると言う手を、使えぬ方なのですか?」

「やろうと思えばできるはずだが、五分だな」

 兎がきっぱりと答え、真面目な顔でカスミも大きく頷く。

「的外れな慰めを言って、逆に落ち込ませる危険が、大いにある方なのです」

「どういう的外れ、なのですか?」

 予想なのに、異常に力を入れた言葉に、つい詰まりそうになりながら問うと、男は真面目に答えた。

「あの人の事だから、鏡月の子が誰との子だったのかも、分かっていないでしょうから、それはもう他人事の慰め方をするでしょう」

「それを怒りに変えて立ち直るか、衝撃に変えてさらに落ち込むか。五分なんだ」

 カスミの言葉に捕捉し、兎が溜息を吐いた。

「鏡月の方も、あの旦那が、狼の連れ合いを慕って、セイを世に出したんだと、そう思い込んでいる節があるから、自分から真実を話すことはなさそうだ」

「叔父上の子孫も、これ以上は増やせないでしょうが、逆に鏡月の方も増やせません。残念ですが、こればかりは二人の問題ですからな」

「重の子供は無理だが、その血縁ぐらいは、多く長く続いてほしいと思っていた。が、時を経ても二人とはな」

 兎とカスミがしみじみと言い合い、溜息を吐くのを見て、重は再び空を仰ぐ。

 女同士で初対面した若者が、大昔逃がした兄の子だと気づいたのは、いつだっただろうか。

 一緒に逃がした義姉が、カスミの正妻に収まったのを知った時にも驚いたが、カスミが兄の子を暫く引き取ってくれていたことを知った時にも驚いた。

 兄が遠くの国の女を娶った時、既にカスミは親元に引き取られていたのだから、顔も知らなかったはずなのだ。

 更には、自分が無念の中で死に、蘇るまでに色々と尽くしてくれ、頭が上がらないのだが、この幼馴染はさらに驚く事を言ってのけた。

「……確認したぞ。矢張り、鏡月のあの治療如きでは、全く障らなくなっているようだ」

「そうか」

「……今一、信じがたいのだが、本当なのですか?」

 兎の意味不明な報告に、カスミが満足げに頷くのを見て、和装の男は眉を寄せて慎重に問う。

 すると、兎がきっぱりと答えた。

「ああいう状況の生き物なら、昔からよく見ている。不調時の心音も、聞き逃しはしない。会った当初から変わらぬ、元気な音だ」

「そうか。余計なお節介をした甲斐が、あったな。その後、続かぬのが不満だが」

 一人頷いてから、カスミは幼馴染であった男に笑いかけた。

「あなたの血筋は、間違いなく続くように努めるつもりです。少し、時間はかかりますが」

「かかり過ぎのようにも思うがな。あの旦那の鈍さが、こう遺伝してしまうとはな」

「いくら鈍くても、自覚が出来れば早いと思います。その自覚をする機会が、中々訪れないだけで」

 兎が難しい顔で言うのに、カスミの方は真面目な声ながら軽い。

 気長に待つ気のようだ。

 重はしみじみと二人を見つめ、頷いた。

「それを見届けたら、私は成仏できるだろうか……」

「無理でしょう」

「無理だ」

 ばっさりと切り捨てられてしまった。

「何故?」

「お前、幽霊のつもりなのか?」

「そのつもりだが」

 呆れ顔の兎に当然と答えると、カスミが真面目に返す。

「違うでしょう。単に、影が薄くなった人間ですよ、あなたは」

「いや、それはおかしい。何故、影が薄いからと、人間が特定の者にしか見えぬのですか?」

「視力が悪いんでしょう、きっと」

 無理がある答えに、心底呆れてしまう。

「そういう考えで言うと、殆どの者が、視力が悪いことになるだろうに。大体、体がすり抜ける時点で、人間ではない」

「そういう人間もいるのです。その証拠に、目は見えているでしょう?」

「透明人間と幽霊も、別物です。逆に、人間でないという証拠になるのでは?」

 そう反論した後、カスミがぼんやりとこちらを見つめているのに気づいた。

「な、何ですか?」

「……こういう屁理屈を言っていたのは、あなたの方だったと思い出したのですが」

 言われてそういえばと思い当たる。

 人付き合いを完全に諦めたカスミと、何かとちょっかいをかけていた重が、大昔はよく似たような言い合いを繰り広げ、すぐに乱闘になったものだった。

 どちらかと言うと、関わり合いを持とうとした重に、屁理屈でいら立ったカスミが飛びかかることが、喧嘩の発端だった覚えがある。

「あなたが完成して意識を持った後も、口だけは上手くて辟易した覚えがあります」

「それなのに放棄もせず、しっかりと動けるようになるまで、面倒を見てくれましたな。義姉上が、私を気遣ってくださったと言うのを聞いて驚きましたが、あなたがそこまで私をよみがえらせようと思ってくれたことも、驚きです」

「葉月との、約束もありましたが、私の願いでもあったもので」

 微笑んで言った重に、カスミも微笑んで答える。

「実の親のいる家より、生まれ育ったあの国が、私の故郷です。母親には恵まれませんでしたが、死なせまいとしてくれたあなたの兄上も、あなた自身も、私にとっては親族と変わらぬ位置にいます。だからこそ、あのような形で一族が離散したと知った時、狂いそうになったのです」

 嫌な感覚があって里帰りした時、人災に続いた天災が、故郷を全て土の中に飲み込んでいた。

 狂いそうになって捜したのは、育ての親だった兎と、幼馴染だった男だった。

 生きている気配を感じられず、絶望が勝って自我が崩壊する直前、遠くに逃げる気配に気づいた。

 幼馴染の血筋の気配と、二人の男女を、カスミは無我夢中で追い、前に立ちふさがった。

 年端もいかぬ少年と、それより年かさの若い女が、乳離れ前の子供を抱えて身構えているのを見て、我に返ったのだ。

「葉月は、あなたを好いていたようです。だから死ぬ直前、同じ思いを持った私が、ずっと後回しにしていたことを、思い出させてくれたんです。もう少し早く、蘇らせらせることができていれば、後の事も、うまく収まったのかもしれません。それが、残念です」

 様々な事態が襲い掛かり、もう駄目だと諦めたこともある。

 だが、意外にあの血縁も強かだった。

 数少ない血縁も、まだ見ぬ血縁も。

「それを見守り続けるのを、手伝っていただきたい」

「……人間と偽り、成仏させまいとする言い訳が、それですか?」

 真面目なカスミの言葉に、重は小さく笑って呟いた。

 ふざけた物言いだが、本当に真剣に願っているのは、幼い頃を知る身には痛いほど分かった。

 だから、重は頷く。

「分かりました。ここまで尽くしてくださったのですから、私もお付き合いしましょう」

 笑って丁寧に頭を下げるカスミと、それを見て笑い返す重。

 本当に、久しぶりでありながら、初めて見る光景だ。

「……オレは、ここで成仏しても、悔いはないな」

 微笑ましく見守る兎は、本音を漏らした。

 勿論、それは叶わないのは分かっているが、ついついそう呟いてしまうほど、この光景は嬉しいと思えた。

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私情まみれのお仕事 復讐編 赤川ココ @akagawakoko

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