第10話

 シノギが追放されるにいたる騒動があったのは、カスミが引き取られた後すぐだった。

 その頃には、腹違いの兄と姉が同じように親元に引き取られており、ロンともその頃顔合わせする予定だった。

 だがロンは騒動の後、その頃の記憶を根こそぎ失ってしまった。

 忌まわしい父母の最期から数年前の出来事を、発端である獣が係わっている時期からの事を、全て記憶の外に追い出してしまった。

 その後シノギと共に旅に出、ロンは幾度かの里帰りの時、昔シノギの母親が監禁されていた、今は使われていないはずの部屋に入り込んでしまい、そこを私室として使っていたカスミの姉と再会したのだが、その時の反応が初対面の人間へのもので、そんな反応をされたコハクは、激しい衝撃を受けた。

 体が弱く、その部屋の清浄さが命綱だった姉が、暫くその衝撃から立ち直れず、命が危うくなったのも、今では苦い思い出だ。

 ロンともその両親ともまだ会っていなかった当時のカスミは、兄と姉がひどく落ち込むさまを見て、無理に思い出させる手もあるなどと、非道なことを思っていたのだが、そのうち、自分の身を固めると言う話になったため、お預けとなった。

 自分の家の異常さと、伯父夫妻が見舞われた災難を重く受け止め始めたのは、その所帯を持った後だ。

 今は亡き最愛の妻、葉月を嫁に迎え、数年たったころ、あれだけ元気で豪快だった女が、二人の子を出産してから体調を崩し、徐々に活力を失い始めてからだ。

 同じ食べ物を食べ、環境も悪くなく老化するのもまだ早いと言うのに、見る間に弱っている妻を見ておかしいと感じたカスミは、改めて一族の住処や土地を探った。

 そして辿り着いた答えは単純に、場の空気が合わなかった、と言う事だった。

 自分たちは、まだ恵まれていた。

 カスミは、一族でも珍しい変体体質で、その血筋である子供たちも、畏怖の対象として見られていたが、赤の他人であった葉月は、場の空気と共にその畏怖に対する遺恨も、まともに受けていた。

 所帯を持った当初は、それをおくびにも出さなかった葉月だが、出産後大幅に体を崩してしまってから、その呪いじみた空気に勝てなくなってしまっていたのだ。

 そう気づいたカスミは、すぐに故郷に帰そうと目論んだが、その時には立ち上がることも出来なくなっていた。

「……約束、守ってくださいね」

 そう言って息を引き取った葉月は、この時初めて、カスミに敬語で呼びかけた。

 その言葉が、二つの約束事の厳守を、念押ししていた。

 一つは、自分の死後の遺体の行き先。

 まだ幼い子供二人を、死んだ後も守りたいと言う願いを、カスミは当時既に知り合っていた、シノギの祖母に当たる錬金術師によって叶えた。

 葉月本人の死の直前、迷わぬように二つの選択肢を用意していたが、守り刀になる事の方を選んだのだ。

 そのために、ロンの父親に続いて、二回にわたり主の姿をとれなくなってしまった獣がいたが、構わなかった。

 もう一つは、婚姻を申し出た時に頼まれていた、ある男の蘇生だった。

 自分としても、幼馴染であったその男をこの世に戻すのはやぶさかではなく、本腰を入れて取り掛かり始めたのも、このころからだ。

 そして同時に、一族への疑念は、どす黒い恨みとなっていた。

 それに気づいたのは、父親と血の繋がらない叔父だった。

 一族を滅ぼすついでに、コハクの悲しみを生んだ男も、まとめて消してしまおうと考えていたのが、表に出てしまったらしい。

 この時にはロンとも、親友と言ってもいいくらいには馴染みになっていたが、姉と秤にかけると、どうしても上に傾いてしまうのは仕方がない。

 だが、父親と叔父にとっては、死んだ兄の忘れ形見だった。

 ロンを生んですぐに亡くなり、獣にその姿と願いを託した義姉の思いもよく知る二人は、それぞれの方法でカスミを説得した。

 父親は、自分が時期を見て一族をまとめ、不穏分子は必ず掃滅すると約束し、叔父は、気晴らしに旅に出、ついでに一族に取り込まれては不都合きまわりない種族を、今の内に片づけてしまおうと誘い、その二人の意をくんだカスミは、子供たちを連れて一族を離れた。

 その後、気の遠くなる時の中で、元凶の男の紛い物と獣が、手を組んでこそこそとせこい事をしているのは気づいていたが、父が一族の老害をどうにかするのが先と、傍観し続けていた。

 そんなことをしている間に、己の血縁にまでその魔の手が及んでしまったが、その怒りも全て、一匹の獣に振りかけることにした。


 随分、長くかかったなと、カスミはしみじみ思う。

 父親のクリスが、大掛かりな仕掛けで一族の老害どもを滅相するのも、長く時を要した。

「だが、姉上の憂いの大本を、私が片づけられたのは、僥倖だった」

 林家の若い男が、目を剥いたまま固まり、リョウがひきつった顔で見守る中、軽く足先でその獣を蹴ったカスミは、深く頷いていた。

 もう見下ろすこともしない。

 既に、影も形もなくなっていたからだ。

 蹴った先から、灰のように粉々に崩れ始め、すぐに空気の中に消えた。

 それを見届けたきじ猫が、部屋中の窓に近づき飛び乗り、盛大に開け放ち始める。

「あまり吸っては駄目だぞ。猛毒ではないが、埃と同じで安全でもない」

「相変わらず器用だな、お前は。と言うより、あの方と一緒にいるときと、様子が違い過ぎはしないか?」

「そりゃあ、あの方は、お嬢様を私の面影に見てしまっているから。話し方も、考え方も、お嬢様を連想して、変えている」

 大変だが、それが主二人の望みだ。

 一人目の主は、死んだら母の元に身を寄せ、親孝行をしたいと願い、今の主は、死んでしまった娘を、二度と手放したくないと願った。

 本当は、孫も曾孫も、入る余地はないのだが、矢張り気にはなっていたようだ。

 そうでなければ、キィが再び、今度は完全に誰かの姿をもらい受けて現れ、主のための技術を身に着けたいと、弟子入り志願してきたときに、即断っていたはずだ。

「一つ、気になっているのだが。結局、キィの許嫁と言うのは、どちらだったのだ? お前か、それとも、ロンの母親の姿を得た獣か?」

「……それ、人間は安易に決めてくれるよな。我々は、番と言う概念はない。じゃないと、キィに上の兄弟が二人もいるはず、ないだろ」

 他の一族は知らないが、きじ猫やキィがいた一族の種は、多夫多妻、だった。

 子が成人し、姿を得るまで同じ相手の間に子を儲けられないと言う、厳しい取り決めの中で考えられた裏ワザだ。

「実は、私にも同時期に同じ腹から生まれた父親違いの兄弟が、三匹いる。うち二匹は、今どこで何をやっているのか分からないが、もう一匹は、御覧の通りだ」

「つまり、同腹の兄弟を、掟破りの罪で手にかけようとしていたわけか。中々厳しい掟だな」

「実際は、できなかったんだから、褒められてもどうしようもない。禁忌を犯した者に捕食されてしまった主の姿持ちの株を、これ以上下げることなく終われたから、それだけはよかった」

 捕食された上に、その貰った主の力を使われていた同胞は、地獄の底でさぞ無念だっただろうと、きじ猫はしみじみと言った。

 ロンの父親は力もなく、あの一族の中では殆ど役に立たない力しか有していなかった。

 病弱なのも相まって、その目を親にも親族にも向けられたことはなかったが、弟たちは知っていた。

 ただ傍にいてもらうだけで、己の力が増幅されることを。

 だからこそ、死んで長く放置してあった、シノギの母が使っていた部屋が、何処の土地の空気より澄み渡り、それがコハクの命綱となったのだ。

 その力を弟たち以上に知る当の兄は、親親族たちには頑なにそれを伏せ、唯一話したのが、娶った妻だった。

 数々の物々しい武器で、敵を蹴散らしながら頭角を現していたが、異形に近い力を持つ一族に蹂躙され、殆ど根絶やしにされた一族の生き残りで、その技は特異だった。

 身近で手にできる物を、一瞬で武器に変える。

 戦のさなかには、死んでしまった同胞の遺体から、瞬時に剣を生み出して攻撃してきたらしい。

「……正規な貰い方じゃないから、色々と規約もあったんだろう。液状の物しか加工できない上に、苦しませるような所業でしか、武器も作り出せないから、話が浮き上がって来た。どちらかと言うと、こちらの方だろうな、大の男を武器に変えていた奴は」

 元々は、単独で動いていた獣と紛い物。

 人の血の色に魅入られてしまい、それで武器を作ることにはまってしまった獣が、力が弱まるのを恐れて、どうにか人目を避けて血を集める方法を模索していた紛い物と、いつどこで再会したのかは想像するしかない。

 だが、広いようで狭いこの世界だが、人目を忍んでいる二つの異形がそう簡単に巡り合うわけもなく、その辺りは恐らく、今はいない老害の一人でも絡んでいたのだろうと、そう予想できた。

「時期も恐らくは、鏡月を襲った後、だろうな。あの後本当に、どちらも完全に姿を隠した。叔父上が絡んでいるのに、気づいたのだろう」

 水月が執念で探し出した時に、女が使った刃物は、その置き土産だ。

 紛い物が作り出した血の塊を、鋭利な刃物に作り替え、与えたか売ったか。

 その血の方に、呪いが練り込まれていても、不思議はない。

 紛い物の元がカスミの一族の者だ、どんな含みが残っているのか、想像ができるからだ。

 女の恨み言への上書きを、水月はあっさりとやらかしたが、本人の強靭な精神力だけが、その成功の要因ではあるまい。

「……根元にはやはり、叔父上への恨みが、あの紛い物には根付いていたのだ。全く、ほぼ跡形もなかったと聞いていると言うのに、こういうところはしつこいのだな、わが一族は」

 そこまで執念があるのなら、体を復活させるだけのものを芽生えさせればいいものをと、カスミは真面目に首を振りながら嘆いて見せた。

 やろうとしてもできない者が多いそれは、カスミの十八番のようなものだった。

「……」

 器用に苦笑いしたきじ猫は、ひきつった顔のままのリョウを見た。

 相変わらず恐ろしいと、完全に慄いている医師はその目に気付き、ようやく患者の親族の方へと目を向けた。

 林家の跡継ぎは、獣がいたはずの床を見つめたまま目を剝いている。

「……知らせ次第では、このひと月ほどで、ご自宅に戻せると思う。それまでは、寿命を引き延ばしてみようと思うが、それでいいか?」

 咳払いをして男を我に返らせ、リョウは医者にあるまじき宣告をした。

 詰まった男の方も、医師の言い分はよく分かっていた。

 数年前に倒れて以来、何度も生死をさまよっている父が、今まで意識を取り戻していたのが、奇跡の病状だという事も、承知している。

 患者の願いは、もう一度故郷の地に足を踏み入れ、そこで往生することだった。

「よろしく、お願いします」

 その願いを受けてここにいる息子は、様々な思いをかみしめたまま、深々と頭を下げた。

 診察室を静かに出る林と入れ違いに、騒々しく女が三人入ってきた。

 目を丸くしている男を廊下に残して荒々しく扉を閉め、女の一人がリョウを睨みつけた。

「お前、母上が泊ってるのに、何をやってるんだよっ」

「ゆ、ユメ? お前、今日は戻らないんじゃあ……」

「そのつもりだったけど、母上がこんな辺鄙なところで、親父に置き去りにされてるって知ってっ」

「へ、辺鄙って。仮にもオレの家だぞっ」

 父親に似た顔立ちと色合いの女は、慌てるリョウを睨みつけ、それを一緒に来た母親に苦笑交じりに宥められている。

「落ち着きなさい、ユメ。意外に、空気は綺麗な所だよ。別居なんてしないで、ここに由良と越して来たら?」

「駄目です。親父を、また一人野放しにするのは、絶対にっ」

「いや、私は、向こうに残るし。あの人は、すぐに迎えに来るはず」

 琥珀色の髪と瞳を持つ色白の女は、微笑んで言い切り、溜息を深くはいたカスミを見とがめた。

「何? 問題は、なかったって聞いたけど、まさかお前、迎えに来ないなんて思ってる?」

「いえ。明日の朝には、来るでしょう」

 真面目に首を振り、事実を告げるとコハクは頷いた。

「……こちらも、私が出なくて済んだんだろ?」

「はい、当然です」

「なら、良かった」

「……良くないです」

 ほっとする姉に微笑んだカスミに、もう一人の女が静かに言った。

 部屋に入った途端床に膝を折り、カスミの足元を呆然と見つめていた女だ。

 二人と女よりも小柄な彼女は、愛らしい顔を引きつらせてカスミを睨んだ。

「お父様っ。どうして、いつもは腰が重いくせに、やると決めたらそんなに早いんですかっっ?」

「どうしてと言われても、困るのだが。やる気がある時は、すぐに収めるのが、一番楽だろう? 日を引き延ばしていては、ずるずると百年単位で伸びてしまうのだ」

 いや、伸ばし過ぎ。

 真面目な男の言葉に、三人の男女が無言で突っ込んでいるが、そんなことに構わず女、優が父親に詰め寄った。

「酷いわっ。私だって、少しぐらい恨みのたけをぶつけたかったのにっ。機会の一つもくれないなんてっ」

「間に合わなかったのだから、交渉する間もなかっただけだろう。まあ、間に合わせるつもりは、全くなかったが」

「お、父様……」

「落ち着け。余り怒ると、皴が増える」

 真面目な窘めに逆上し、優がいつものように父親を締め上げる様を、きじ猫はのどかに見やる。

「……そうか、娘に対してもこんな感じなのなら、誰でも敵に回す物言いは、仕方ないのかな」

「仕方ないじゃないですよ。もう少し控えて貰わないと、ようやく平和になりかかっているうちの家系も、その火の粉を被りかねない」

 それこそもう手遅れだが、リョウはついつい、嘆いてしまった。

 それを聞き、ユメが白い目を向ける。

「……火を出して、その粉を被らせようとしているのは、この人だけじゃないけどな」

「う、それは、気を付けているとも」

「そうか?」

 疑いのまなざしを避けたリョウは、丁度ノックをして顔を出した看護師に、取り繕うような笑顔を向けた。

「ど、どうした?」

「急患で、至急訪問して欲しいと」

「わ、分かった。場所と症状は?」

 これ幸いと立ち上がり、道具をまとめ始める医師に、看護師は躊躇いながら室内を見回し、答えた。

「それが、患者は連れて来れないからと、送迎の車をつけてくださって、今外に」

「そうか。分かった」

 田舎の病院からの訪問診療は、足を貰えると大いに助かると、リョウは笑顔で出かけて行った。

「忙しそうだね。看護師と二人で、切り盛りできてるのか?」

「期間限定だから、それこそ担当の患者以外は、急患も受け付けないって言っていたから、大丈夫」

 取り残された親子が、のんびりと会話しながら残りの親子に手を振り、診察室から自室としてあてがわれている部屋へと戻っていく。

 カスミの首を締め上げたまま振り返っていた優がそれを見送り、唐突に父を離した。

 危なげなく地に足をつけ、大袈裟に首を抑えて咳込んで見せるのを睨み、尋ねる。

「……あちらの方で、怪我人が出たの?」

「怪我もだが、精神的に参ったのも、いるようだ」

「そう。命に別状は、ない?」

 あちらに残した者を思い浮かべ、心配する優に、カスミは真面目に首をかしげて見せた。

「どうだろうな」

 場合によっては、別状が出てくるのだが、それは言わないことに決めた、曖昧な答え方だ。

 その出てくる別状が、心身に傷を負った二人に出るのか、今現場もしくは、その二人の落ち着き先に向かった医師に出るのか、今は見当もつかないが故の答えだった。


 その後の展開は、平和なまま動いていた、暫くは。

 怪我人をスムーズに移動させ、全身に染み付かせてしまった呪いのせいで、解けた後も暫くぎこちない動きをしていた雅も移動させ、別々の部屋で治療と療養をさせた。

 二人が目覚める前に、他の面々はめまぐるしく動く。

 近くで病院を営んでいた娘婿を呼び寄せ、林家の敷地内で軟禁状態だった堤恵を診てもらった後、ロンが切り出した。

「念のため、診てもらいたい子がいるんだけど……ちょっと、微妙なのよね」

「何が、ですか?」

 躊躇った口調に、リョウは身構えてしまう。

 そんな医師に苦笑し、ロンは首を振って見せた。

「身構える微妙さじゃないのよ。いえ、あなたが、ってだけだけど」

「よく分かりませんが、診ろと言うのなら、診ます。患者はどこですか?」

 真顔で頷いたリョウを連れ、褐色の男は藤原家の別邸の一つの部屋を出、長い廊下を先に立って歩き出した。

 南側の端部屋から、北側の端部屋の方に向かって歩いた義父親が、目的の部屋につく前に立ち止った。

 何事かと大男の影からそちらを見たリョウは、目的の部屋らしき場所の前の廊下に、見知った若者が立っているのを見た。

 襖の前で声をかけ、すぐに招き入れられる様を見守り、ロンは笑いながら溜息を吐いた。

「間に合わなかったわね。仕方ないけど」

 言いながらそっと近づく義父に続き、リョウも静かに部屋の方へと近づく。

 そして、小声で尋ねた。

「……あの人の力で、死なない保証がある患者なんですか?」

「多分、ね。精神状態にもよるかもしれないから、その辺りを診てもらおうと思ったんだけど」

「いや確かに、心音や脈拍、瞳孔の具合を診るんで、大体は分かりますけど、それだって時々で変わるのが、生き物ですから。精神状態にかかわらず、体は丈夫ですか?」

 先程部屋に入った若者、鏡月の力を知るリョウは、その力に耐えうるものを数名知っているが、もしその誰でもないのならばと、確認のために尋ねた。

「体の方は、丈夫なはずよ。ほら、あの子と、親しい子」

 いたずらっぽい笑顔を浮かべ、ロンは自分たちがやって来た方角から廊下を歩いてくる、二人の人物を指さした。

 一人は、この別邸を所有している者の関係者だ。

 もう一人は……。

「げっ」

 思わず声を上げ、逃げ腰になったリョウに気付かぬまま、長身の女は同じくらいの男に体を支えられながら、部屋の襖の前に立った。

 男の方がちらりとこちらを一瞥し、少しだけ呆れ顔になったが何も言わず、襖の中へと声をかけた。

「雅を、連れてきました」

「ああ、入れ」

 返事を受けて襖を開けた男が、こちらをもう一度見た。

 微笑んだロンが無言で首を振ると、呆れた顔になって雅を促し、部屋の中に入っていく。

「……まさか、この部屋の怪我人は……」

 雅を見て体を強張らせていたリョウが、かすれた声で尋ねると、義父は重々しく頷く。

「多分、あなたが思い浮かんだ子だと思うわ」

 そして、青ざめて息を漏らす娘婿を見つめ、首を傾げた。

「さっき、あなたを見て思い出したんだけど、あなた、ミヤちゃんに、何か怒らせるような事、した? 毎回、あなたの名を出すと、殺伐とした空気になるんだけど」

「そ、それは、色々と、事情がありまして、はい」

 素朴に尋ねられても、気楽に答えられる話ではない。

 リョウは、曖昧に答えながら、話をそらそうと部屋の中の会話に耳を傾けた。

「……少しは、落ち着いたようで何よりだ」

 男にしては少し細い、しかし落ち着いた声が雅に呼び掛け、重大な話を始めたところだった。


 首から下が、ずっしりと重く感じ、エンは目が覚めた。

 頭はすっきりとしているのにここは一体どこなのかも、自分が今どういう状況なのかも分からない。

瞼を開いたつもりでいるのに、目の前は真っ暗で、体も動かない。

 死んだのか。

 不意にそう思った。

 あれは夢ではなかったはずだ。

 痛みで目覚め、起き上がった時に、森口水月とした話は。

 小綺麗な部屋で目覚めたエンは、痛みをこらえて身を起こした。

 ここが何処なのかという事よりも、冷静になった今、早急に確かめたいことがあったのだ。

 土地勘は心もとないが、外に出れば大体の方向も確認できるはずと、周囲を見回して布団が敷かれた畳部屋の入り口らしき襖の方へと目を向けた。

 そっと膝を立てて立ち上がる前に、その襖が大きく開かれた。

 そこに二人の小柄な男が立っていた。

「……体力だけは、人並み以上のようだな」

 冷ややかに言葉を投げたのは、中性的な整った顔立ちの男だった。

 笑顔なのにひんやりとした声を投げると言う、器用な事をする男に苦笑し、その男よりもさらに小柄な童顔の白髪の男が、エンに声をかける。

「気分は最悪だろう。まだ表面が塞がっただけなのだから。暫くは、安静にしておけ」

「その前に、確かめたいことがあるんです」

 真顔のエンの言い分に、森口水月が顔をしかめながら言った。

「それを確かめて、その後どうする気だ?」

 すぐに答えようとする男に、水月は瞬きする間もなく近づき、間近で顔を覗き込んだ。

 その顔に、見知った女を見てしまい、声をなくしたエンに、男がやんわりと続ける。

「お前の想像通りだったら、また先程の状態に逆戻りだろう? 止めを刺さなかったことを、後悔させる気か?」

「……そう思うのならば、何故、止めを刺さなかったんですか」

「止められたからに決まっている。娘に泣きつかれては、止めるしかないだろうが」

 苦い声での答えに、エンは戸惑った。

 我を忘れていた時の事を、改めて反芻している様子を見つめ、水月が優しく問う。

「まさかとは思うが、雅を手にかけかけたことを、忘れてはいまいな?」

「……」

 言葉にされて思い出した。

 一気に青ざめたエンは、間近にある水月の顔に身を乗り出した。

「あの人は、無事ですかっ?」

「遅いっ。起きてすぐに訊くのが、普通だろうがっ」

 詰まった男の体を敷布団の方に押しやり、自分はその傍の畳に胡坐をかく。

「林家にまつわる件は、全て済んだ。雅についていた呪いも消えてはいるが、心身共に弱っているのに、お前を絶望させたのが自分だと責めて、中々眠ってくれなかった。ようやく先程、落ち着いて眠らせたところだ」

 最近まで、子守される方だった水月は、久しぶりの子守に手こずってしまい、それも苦い思いになった要因のようだ。

 それに気づいたが、エンは別なことに溜息を吐く。

「……過剰な子ども扱いは、やめてあげてください。気持ちは分かりますが」

「お前に分かられても、嬉しくはない」

 尖った声で言われ、エンが黙り込んだ隙に、童顔の白髪の男が襖を閉め、布団の枕もとに座り、切り出した。

「鏡月と繋ぎが取れた」

「そうか。驚かれただろう」

「矢継ぎ早に用件を言ったんで、驚く間はなかったはずだ」

 そんなはずはないと笑う水月に構わず、兎はエンに言った。

「本当は、事後承諾で実行しようと思っていたんだが、起きてしまったのならば仕方がない。本人の承諾を得よう」

「本人……オレ、ですか?」

 話の流れを正確に読み、エンが目を見開いた。

「まさか、怪我を、キョウさんに?」

 無理だろうと、思ってしまった。

 鏡月は、その手の治療をするのを渋る。

 治療と言っても、その者のあるべき姿を元に戻すために、本人の力を最大限に絞り出して使うため、命の保証が皆無の方法だからだ。

 その絞り出される力が莫大にあると分かる者以外には、進んで使いたがらないと聞いていた。

 エンも左手が今のようになったとき、頼ることを勧められたが、己の体力に自信がなく、断ったのだ。

 それを知っていたのか、兎はあっさりと言ってのけた。

「別に、成功しようがしまいが、お前には好都合だろう」

 どういう意味かと怪訝な顔をする男に、兎は続けた。

「お前を刺して消えたあの塊は、確かにセイでできた代物だったからな、確かめる必要もない、という事だ」

 そう言った男の顔は、意地の悪い笑顔を浮かべていたが、衝撃を受けたエンは気づかず次の言葉に耳を打たれた。

「お前自身は、死んでも構わないと思っているだろう?」

「……」

「まかり間違って治癒に成功しても、そいつが見逃しはしない。全快した後も道を踏み外す方を選ぶならば、こいつは迷わず息の根を止めるだろうし、頭を冷やしてやり直すと言うならば、身柄を預かる手はずがある」

 水月本人のコネは、まだ少ない。

 だが、保護者である律には政治家を中心に、権力がある家とのつながりが深い。

 そのどれかに身を預けさせることも、難しくはないだろう。

「どちらの場合も、今後雅とは会えないように計らうが、死ぬ気であるならば、別に構わんだろう。あの娘の情も、手を尽くして断ち切る考えもある。お前には、好都合の条件ばかりだ」

 そうは言うが、一番不都合な条件が、エンを悩ませる。

「……この人の目の届くところにいなければ、ならないんですか?」

 露骨に嫌そうな男に、それ以上に露骨に嫌そうになった水月が、冷たく答えた。

「嫌ならば、無理にでも失敗して見せろ。その方が、オレとしても楽だ」

 そのつもりにはなったのは、自分の体力や精神力が、この時点で完全に削られていると感じたためだ。

 すぐに了承したエンは、少し後に合流してきた鏡月の治療を受けることになった、はずなのだが、突如意識が浮上した。

「……体調に、不具合はないか?」

 森口水月が、先程とは打って変わって、やんわりとした声を誰かに投げた。

 左手の感覚はまだないから、自分の体力が勝ってしまったという焦りはすぐに消えたが、この状況には戸惑いしかない。

 水月の問いに答えたのは、掠れてはいるが聞きなれた声だった。

「はい。先程は、色々と失礼なことを言ってしまいました。お詫びします」

「構わん。本当の事だからな」

 沈んだ声に答え、男は動けないまま横になるエンを見下ろしたようだ。

「少し前に目覚めはしたが、先程とあまり変わらない状態だったんで、さっさと眠ってもらったところだ。本人には了承は得ているから、お前の文句は聞かないぞ」

「キョウさんが、ここにいるという事は、まさか……」

 尖った声になった女の言葉で、先程やって来た兎と鏡月が、未だに部屋の中にいることを知り、エンは戸惑ってしまった。

 それに気づいているのがありありと分かる若者が、枕もとに座ったままのんびりと言う。

「そういう事だ。だから、暫くは起きない」

 いや、おかしいとエン本人は思って身を起こしたかったが、何故か体が動かない。

 目を開こうとしてもそれが叶わず、焦る様子に気付いてか、襖側に座っているらしい兎も半笑いで言った。

「生きるか死ぬかは、こいつの体力次第だが、それでもいいと、本人が了承したんだ。お前には反対する権利はない」

「……」

 正論を言われて詰まる女に、水月が言い切った。

「オレとしては、このままエンが、体力負けしてくれることを願っているんだが」

「……」

「もし、まかり間違って、体力が勝ってしまって、生き延びてしまった場合のことは、お前にも無関係ではないだろうから、ここで話しておく」

 そうして黙り込んだ雅に、その父親は先にエンに向けて言った言葉を並べた。

 言葉遣いは優しいが、同じような内容で、鏡月の技を利用した理由も、一つだけではないと語った。

「もし、まかり間違って生き延びた時に、預かってくれる場所で物を壊される心配を、避けるためでもある。建前だが」

 父親としての本音は、このまま消えてくれと言う気持ち一つだろう。

 まだ子を持たないエンには、その気持ちは分からないが、似たような気持ちは知っていた。

 だから、その気持ちに答えられればと、冷静になりつつある頭の中で考えていた。

 何となくしんみりとしたその耳に、女の弱弱しい声が聞こえる。

「……分かりました」

「……それでも、構わないのか?」

「はい。ただ、生死がはっきりするまでは、ここでお世話になっても、構わないですか?」

「ああ。それは大丈夫だろう。ここの持ち主は今の時期、別な場所をよく利用している」

 答えた父親に、その保護者である白狐が続けた。

「人の出入りも少ないから、暫くは居座ってくれても構わない」

「はい。ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げる気配と共に、雅は礼を言った。

 あくまでも他人行儀な娘に、水月は少しだけ厳しい声をかけた。

「それから、お前の今後だが」

「はい」

 単調な返事に構わず、男は切り出した。

「こいつの生死を確認した後は、どうする?」

「そんなの、あなたに関係がありますか?」

 雅の声に、力がこもる。

「エンが死んだら、あなたが色々と力を尽くす必要もなくなる、それで終わりでいいでしょう」

 きっぱり言い切った女に、水月は苦い声を上げる。

「落ち着いても、そういう考えは変わらないのか」

「変われません。結果がどうであれ、私は、我を忘れた挙句、あの子を使ってしまった。そのせいで、最悪な結果になっているのに、元のようには暮らせません」

 頑固だなと、苦く呟く男に、若者が呟く。

「内面も似てるんだから、仕方ない」

「全くだ。親子だな」

 兎も小さく呟き、白狐もしみじみと溜息を吐いた。

 いや、そんな場合じゃないと、エンは焦るのだが、その空気は全然伝わっていないようだ。

 いや、約三名には伝わっているようなのだが、それを指摘する者がいない。

 何とか起き上がって、雅だけでも宥めたいと思うのに、それか叶わずに焦りだけが募る。

 自分が、あの時にセイで作られたあれに気付いていれば、怪我を負ってあの子を消してしまう羽目にはならなかったのであって、あの時必死に使わないように抗っていた雅には、何の責任もない。

 我を失ったのも、自分の不甲斐なさが原因であって、決して女が弱かったわけではない。

 必死で体を動かそうとするエンの耳に、水月の静かな声が言った。

「……そうか。頭が冷えても、その考えが消えないのならば、仕方がない。狐とは、伴侶には情の深い生き物だと、そう聞いている。だからこそ、寿の伴侶にはならなかった」

 ただ、子を作る手助けをしてもらっただけ、そう言った父親を、雅は無言で睨んでいるようだ。

 それを見た水月が、小さく笑ったことでそれが分かる。

「死期が近いのに、伴侶にされてしまっては、最高の女をこの世から消すことになってしまう。子を養ってもらうと言う理由もあって、それは断った。それで、正解だっただろう?」

 この弊害は、弟子である律にも表れていたが、白狐は小さく息を吐いて言った。

「あなたの死を伝えて、分けて貰った体の一部を差し出そうと思ったんですが、拒まれました。見たら、今の誉のようになると、分かっていたんでしょう」

 だから、別な形に作り替え、住処だった山に埋めて貰った。

 そういった弟子に笑いかけてから、水月は再び娘に切り出した。

「お前は既に、この甘ったれを、伴侶と決めているんだな?」

「……」

「死を見届けた後は、後を追う気だな?」

 雅は、静かに笑い声を立てた。

「はい」

 優しく言い切った娘に、水月は溜息を吐く。

「そうか」

 頷いた男の声は、迷いがなかった。

「悪いが、それは了承できん」

「何故ですか? 私は、あなたの血と混じってはいますが、狐です。習性だか本能だかは分かりませんが、それに乗って動くのを、邪魔されるいわれはありません」

「苦労してできた子供を、自死で失うなど、了承できるか」

「あなたも、自死のような死に方だったと、聞いていますけど?」

「あれが自死? ふざけるな。あれでも、苦肉の策だったんだ。分かれとは言わないが、自死と変わりなく言われるのは、心外だ」

 思わず、本音が出たと我に返り、水月はすぐに声を改めた。

「本能だか習性だかは置いておいて、そうすると分かっているのに自死を黙認するのは、親としては出来ない。だから、これは、妥協案だ」

 何を言い出すのかと身構える娘に、男は言った。

「この甘ったれが、まかり間違って生き延びた時は、オレが責任を持って更生させる。その上で、いずれお前に婿として捧げてやる。だが、予定通り死んだ場合は……」

 やんわりと笑った男からは、様々な修羅場を潜り抜けて来た者の気配が、じわじわとにじみ出ていた。

「オレが責任を持って、お前を葬ってやる」

「え?」

 驚いたのは雅だけだった。

 いや、先程から衝撃的な会話が続き、展開についていけず、固まっていたエンも仰天していたが、他の者はその言葉を予想していたらしく、全く驚いた様子がない。

「まあ、妥当だな」

 兎がしれっと言い切る。

「元はと言えば、水月とカスミの約束事からできた子供たちだ。どんな理由であれ今まで放置し苦しめた分、最期くらいは父親が苦しまなければ、割に合わないな」

 そういう問題ではない。

 叫びたいエンの代わりに、雅が声を上げた。

「そういう問題ではないでしょうっ。それに、あなたも、苦しんで別れを選んだと、そう言ったじゃないですかっ」

「言いはしたが、その期間は限りなく少ない。お前たちは、オレの数倍その苦しみの中にいたのだろう? すまなかったな。だがいまなら、お前が看取れなかった分、オレがお前を看取ることができる。こういう幸運に恵まれたことが、何よりも有り難い」

 しみじみと言う男の声は、真面目だった。

「お前が、オレの今後を心配することはない。自身で手を下す手間がなくなると、そう喜んでくれるだけでいい」

「……本当に?」

 呟くような雅の声で、エンは悲鳴をあげたくなった。

 声音だけで、その妥協案を吞んだのが、はっきりと分かったのだ。

 駄目だと叫びたい男の枕もとで、若者が呟いた。

「……こういう事だ。一人でぬくぬくと地獄に落ちるのは勝手だが、ミズ兄を子殺しに落としたくない。お前も、雅を父親に殺されるという悲劇は、望まないだろう?」

 覗き込んできた金色の目が、意地の悪い色で見下ろしているのが、何故かはっきりと見えた。

「いいか、お前は、何が何でも生き延びろ。出来ないならば、どんな手を使ってでも、地獄の底に落ちる前に、引きづり上げてやる。そして、舅にいびられる地獄を、存分に味わえ」

 とんでもない、煽りと脅しだった。

 雅が父親に殺されるのを了承したくないが、その後生き延びてとんでもない男にいびり倒される未来も、勘弁だった。

 そんな男に耳に、襖側にいるはずの兎の声が聞こえた。

「それを全てクリアしたら、褒美の一つでもくれてやるぞ。気張って生きろ」

 枕もとで声をかける鏡月の声も、兎の襖側からの声も、雅親子には聞こえていないようだった。

 そこでようやく、エンは兎の呪いにかかって動けなかったことに気付いた。

 何故、あえてそうしたのかも、鏡月がまだ治療を始めていなかったのかも、霧が晴れるように見えてきた。

 と同時に、鏡月が無造作に横たわる男の額に触れた。

 反論する間も、考える間もなく、今度こそエンの意識は、真っ逆さまに落ちて行った。

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