第9話

 難色を示す森口親子に、兎は根気よく説明した。

「オレは、音を基準にして、術を操る」

 風の音や昆虫が土を這う音、生き物が木々を飛び移る音や、草むらをかける音、更に言えば空に羽ばたく鳥の羽音や息遣いまで、使おうと思えば使える。

「それを踏まえて、この鹿や向こうに群がっていた奴らの中にいた、呪い付きの者たちに恐怖とで鳥肌を立たせ、呪いの音を読み、すぐにはじき出したわけだ」

「それを、雅にもできないかと訊いているんだが」

「そういうが、お前も雅も、そこの律たちも、オレ如きの殺意では、びくともせんだろう。お前らは、オレが怖いか?」

 真顔で問う男に、この中の誰よりも小柄な兎が真剣に返すと、律が真顔で答えた。

「今は、心底恐ろしいと思っています。水月のこの軽さが、誰かの教えの影響だったとは、露とも思っていませんでしたから。生まれつきのものだとばかり……」

「お前、オレが、このままの姿で母親から出てきたとでも思っていたのか? 小さい頃も、知っているだろう」

「知っていますが、あれも、カスミの旦那の父上が、想像して作っただけだとばかり……」

 それだけ、ミヅキの幼い頃は、想像できなかった。

 真顔の律に、その師匠である男の幼き頃を知る二人が、大きく唸った。

「昔は、可愛いものだったんだがな」

「ああ。こいつの叔母の嫁ぎ先の男どもは、今の時代でも大きいほどで、その中にいると少年だったのも相まって、恐ろしく可愛い容姿だった。容姿だけは」

「ちょっかい掛けられるたびに、喧嘩を仕掛けて傷だらけになっていた。数倍、相手は傷だらけだったが」

 見かねた兎が、喧嘩仲間を遊び仲間に変える方法を、教えたのだった。

「見目がいいこいつと仲良くしてたら、女がついてくるとそれとなく分るように仕向けてやっただけだ」

「ああいう奴らでも、有事の時は勢力だからな。動けない奴を、増やしてほしくなかったのだ。予想外であったのは、遊びが過ぎて、女と長続きしなくなったことだな」

 半透明の男と兎が、大昔を振り返って宣っている。

「カスミがいなくなってから暇していた分、力を入れて仕込んでしまった。長く獣の姿だったんで、人型で遊ぶと言う役得も、張り切る理由になってしまって、やり過ぎてしまった」

「……」

 律が、苦々しい顔で溜息を吐いた。

 自分が生まれてもいない、大昔の出来事だ。

 これを責めてもどうにもならないと、何とか平常心を取り戻そうとしている。

「つまり、雅の呪いを直接解くのは、お前の役得、という事か?」

 どんよりと問う水月に、兎は眉を寄せて否定を返した。

「お前、何を勘違いしているかは知らんが、そんないい役回りじゃないぞ。寧ろ、心を無にして臨まなければ、こちらが狂いそうになる」

 後半は、吐き捨てる様に言い切った男は、数年前の事を暴露した。

「例の、森岡家の件だ。首謀者とされる男が逮捕されたと報告があって、雅の叔父を閉じ込める呪いをつけるために、現場に駆けつけたんだが……」

 どうしても、好みに合わない男だった。

 男と言うだけで、拒否反応が出そうだったのに、手錠をかけられた男は脂ぎった中年で、それだけでも意識が遠のきそうだったのに加え……。

「満遍なく呪いを刷り込むために、全裸にしなければならなかったんだっっ」

 想像してしまった水月が、顔を蒼白にした。

 成り行きで聞いていた獣たちや異形の者たちも、鳥肌を立て、吐き気をこらえて口を抑えている。

 幾人か目を真ん丸にするだけの者や、目を爛々とさせている者もいたが、それは気づかなかったことにして、兎は苦々しく続けた。

「寿を説得して、直接触ることはなかったがな、眠らせた人間でも、肌に触れる音だけが、聞こえるわけじゃないんだぞ、知ってるか?」

 脳が眠っていても、肌に与えられた刺激には、敏感に反応するのが、生き物の性だ。

 その男も当然そうで、女に触られるたびに淫らな声を上げ、息も絶え絶えに身をよじらせることを、呪いをかける間中繰り返した。

 そんな状態で呪いを刷り込む兎は、完全に無になるしかなかった。

「……乱心しなかったのが、不思議なくらいだった」

 全て終わった後で、寿が抱きしめて慰めてくれたからこそ、今平常心でいられるのだと言った兎を、黙って話を聞いていた律とオキが、思わず見直す。

「……どさくさ紛れに、最高の女に慰められてるじゃないか」

「その最高の女との間に、四人も子供を作った上に、あっさりと捨てた男が、何の文句を言えるんだ?」

 その二人が思ったことを代弁し、睨んだ水月を睨み返し、意地悪く言った。

「まあ、雅も見た目は水も滴るいい女だからな。そこまで気負う必要もないが? お前や、そこの奴らと違って、刺されたことが原因でのものじゃないから、奴と同じように、本当に満遍なく触ることになるが?」

 舌打ちする男から、その娘へと目線を下ろした兎は、やんわりと笑って首を傾げた。

「雅。お前は、オレにそれを、解かれたいか? それとも、奴が死ぬのを待つか?」

「……」

 俯いた雅は、話を聞いていない。

 が、兎は気楽に続けた。

「心配するな。その男への貞操を守りたいのなら、オレが女になって触るという手も、なくはない。それなら、水月も文句はないだろう」

「…………オレをこれ以上、変な趣味に導くのは、やめろ」

「その、長すぎる間が、葛藤を物語っているんだが。カスミ殿の趣味に、興味を持つ時点で、手遅れだと言うのに」

 熟考の末に、苦し気に返す雅の父親に、半透明の男が小さく笑う。

「兎に角、どちらがいいのか、お前が決めろ」

 そんな外野の声を聞き流して言われても、雅は動かなかった。

 呪いに呑まれ始めているからなのか、今更ながらに衝撃を思い出しているからなのか。

 どちらにしても、好都合だろうとオキは苦い思いで立ち尽くしていた。

 時間稼ぎとしては、好都合だ。

 水月は半分本気で難色を示しているが、兎の方は完全に時間稼ぎのつもりだ。

 自分は、もう一人の猫との繋ぎでそれを知っているが、兎と水月は聞こえているはずなのだ。

 今、ある場所で行われているはずの、件の紛い物の生死を秤にかける会話を。

 こちらとしては、セイの計画を優先してやりたいが、本物が追い付いてしまい、その手に紛い物が渡ってしまった時点で、無理だ。

 尋ねられるまで、雅の状況を話さなかったキィが、冷静に報告してきた。

 これだけ年嵩に挟まれたら、流石に強靭には出られない。

 恐らくは、その場の殆どの者が望む形で、収まるだろうと。

 そういう事なら、こちらも次の動きに移るかと、こっそりと準備をしていた時、別行動していた男が戻って来た。

 焦燥した様子の、堤恵を連れている。

「恵さん」

 獣たちの、更に後ろにいた古谷志門が、後輩二人と共に従兄に駆け寄る。

「こちらの頼まれごとは、無事終わったわよ」

 気楽に言いながらやって来たロンは、この場の現状に首をかしげる。

「? エンちゃん? 死んじゃったのかしら?」

 緊迫した声でないのは、場の空気が死を悼む様子ではないと察しての事だ。

「一応は、生きてる」

 カ・セキレイが苦い顔で答え、しかしと続けた。

「……刺された傷がひどすぎて、復活には相当時がかかりそうだ」

 言いながら目線を雅に向けるのを見て、ロンは女の状態に気付いた。

 座り込んで俯いたままの女は、呪いに抗う気力が、徐々に失われているようだ。

 時々正気に戻そうと、昔馴染みの女に体をゆすられているが、我に返る様子がない。

「……さっきまで、オキちゃん達の同胞がいたわよね? いないという事は、全員片づけたんでしょ? 意外に手ごわかった?」

 状況を把握しようと誰にともなく問うロンに、仕方なくオキが説明しようとしたとき、変化があった。

 雅の体中を、薄くまとわりついていた呪いの膜が、一気に粉となって零れ落ちて消え去った。

 大昔から、数多くの人間を不幸に叩き落していた紛い物が、跡形もなく消えてしまった瞬間だった。

「……」

 溜息を吐いたのは、数人。

 兎とロンは、安どからくる溜息だったが、オキと水月は複雑な心境での溜息を、深く吐き出していた。

「良かったわ。あんなこと実行されたら、すごく不本意だもの」

「ああ。あの死刑囚の時にも慌てて止めたんだが、あれは、どういう心境なんだ? 出来ると判断したからやるのは分かるが、その後、周囲に知られたらどんな心配をされるか、分からない子なのか?」

「何の事よ?」

 安心したロンと同じ心境の兎が真顔で訊き、大男が目を瞬かせたが、その問いの意味を察した律は、空を仰いだ。

 オキも、苦い顔で再び溜息を吐く。

 どうやらあの死刑囚への呪いも、兎が若者に代わってやってくれたものらしい。

「……この兎が、あんな胸糞悪い男相手に、そんな方法を考えるはずは、ないか」

 考えれば分る事だったが、その方法の気持ち悪さが先に立って、思い当たらなかった。

 そうやって動いてくれる者が味方で、こちらはありがたい限りだが、その言葉を口にするのは後にする。

 今は、呪いが抜けたもののうなだれ続ける雅と、本当に息も絶え絶えのエンの治療を始めるのが、最優先だ。

 いくら腹が立っていても、二人を死なせるほどではないと言うのが、オキの考えだった。

 その意をくんだ律が、そっと雅に声をかける。

「エンを、何処かで治療する必要がある。お前も一緒に、少し休んでくれ」

「……私は、大丈夫、です」

 ようやく、雅が声を出したが、涙声だ。

 水月の顔が、又険しくなったが、口を開く前にロンがあっさりと言った。

「心配しなくても、あなたが泣くほどの症状じゃないわよ、きっと。だから、一緒に行きなさい」

「私には、もう資格がありません」

 震える声を押し出す女に、褐色の大男は眉を寄せた。

「どういう意味?」

「私が、不甲斐ないばかりに、あの子を消してしまいました。もう、あの子はどこにもいません。エンも止められないし、私には、一緒にいる資格は……」

「雅、少し、落ち着け」

 水月が、短く娘の言葉を遮った。

 すかさず、律が反応する。

「あなたも、落ち着いてください。間違ってもそれ以上、エンを足蹴にしないでください」

「……話が、全く見えないんだけど。もしかして、さっき紛い物が持っていたあの黒い刀、あなたが使っちゃった?」

 話が全く見えない割に、ピンポイントで的確な問いを投げるロンに、雅は肩を大きく跳ね上げた。

 その様子で、殆どの全貌を察した男は、呆れたように言う。

「あの子を消したって言っても、それは一部のお話でしょ? 五体満足でなくても、生きているのならば、問題ないわ。そのために、キィちゃんが本物の方を師事してるのよ」

「で、でもっ」

 意外に気楽な口調で言われ、雅は涙で汚れた顔を上げた。

「あれは、あの子の血の色でしたっ。確かにあの子の……」

「ええ。あの子の体のどこか、だわね。でも、全体を使われたわけじゃないわ。あの大きさから言って、腕か、膝下くらいかしら。どちらにしても、紛い物が消えたのなら、怒りの矛を向ける先はないわね」

「じ、じゃあ、あの子は、セイは……」

 目を大きく見開いた女を、同じように目を見開いて見返したロンは、大きく頷いて見せた。

「元気だと思うわよ。まだ、顔を見ていないから、どの位かは分からないけど」

 言いながら見たのは、成り行きを見守っているオキだ。

 その目を受け、男も頷いた。

「元気だ。今は、老体たちに襲われて、眠りについてしまったが」

 こちらの会話が落ち着く前に、逃げ切れなかったセイが、鏡月によって眠らされたという報告があった。

 本当は、全ての事が収まるまではと、あの場を逃げる算段もしていたのだが、あれだけ大勢の老練の者が揃っていたら、流石に逃げられなかったようだ。

 心配性のきらいがある連中が、腕一本消失している若者を、これ以上働かせたくなかったのだろうが、主の思いを最優先にしたい猫二人には、少々不満な終わり方だった。

 苦虫をかみ殺すような顔になっているオキの前で、雅がぽかんとした顔で呟く。

「……気配があの子のもので、つい、かっとなって……」

「そう。それは、申し訳ないわ、あたしが説明していないのが悪いわね。あの手の道具はね、人一人分を使って作ると、大きくなるのよ。血だけを使っても、あたしくらいの男が背負わなくちゃいけないほどの大きさになるし、体中全てを使うと、その倍以上よ。優ちゃんの斧を、一度見せてもらいなさい。あれは、一人の女性の体の、半分を使って作られたから、大体の大きさも分かるはずよ」

 もう半分は、更に半分に分けられて、今はそれぞれ別な者が持っている。

 そのそれぞれの持ち主もすぐ近くにいるが、それでは大きさも分かりにくいと、ロンが気楽に言うと、ぽかんと口を開け放ったままだった雅の目から、大粒の涙が次々と落ちた。

「え、ちょっとっ。どうしてそんなに泣くのよっ。あたし、泣かせるほどひどい事、言ってないでしょっ?」

 狼狽える大男と、目をどんよりと細める男の前で、顔を両手で覆った女が震える声を出した。

「本当に……無事なんだ。あんな別れ方、絶対に嫌だ。本当に、良かった……」

 そんな雅の傍で、望月千里は複雑怪奇な顔をしていた。

 どうも若者が、人間離れしすぎる印象に固まっているようだ。

 失礼なと思いつつもそれを口に出さず、オキは今考えなければならないことを口にした。

「治療と言っても、ここでは何もできん。移動しよう」

「はい。ひとまずは、藤原家所有の別宅へ。もしものための準備は、整えておきました」

「……こちらも、準備万端か」

 苦々しく水月に言われたが、そう万端でもない。

 予想以上の体たらくに対応できるほどの、準備はしていなかったのだ。

「医者を連れてきていない。だから本当に、エンは自力で治すしかない」

「医者は、いらんだろう。鏡月が来ているなら」

 そう返されて反応が遅れたのは、鏡月の存在を忘れていたからではない。

 水月がそれを、話題に出すと思っていなかったからだ。

「水、月? まさか、本当にエンを、殺す気ですかっ?」

「何を言っている。これで、本当に死ぬようなら、それまでの男だという事だろう?」

 優しく笑う男は、従弟を巻き込んで、娘の行く末を導こうと画策し始めたようだ。

 それを察したロンが、いつもの人を食った笑顔を浮かべる。

「獣の掟破りたちだけでは、足りなかった?」

「ああ」

「あらあら。一人くらい、手ごたえがあるのが混じっていても、不思議じゃなかったのに」

 あれだけの数の獣が、一か所にまとまって統一されていたところを見ると、その群れをまとめられる奴が、一人はいただろうと言う男の意見に、兎が軽く笑いながら頷いた。

「確かに、あの紛い物の男では、あの数を集められはしなかっただろうし、何より血を操らずに洗脳するすべは、なかったはずだ。狂った獣を従えるなら、同種を巻き込んで落ち着かせる必要もあるから、それに適する獣か、洗脳できるの力を持つ者も、いたはずだが?」

「……掟破りをした者の中には、契約関係になった猫を出し抜き、その主を手にかける輩もいる。そういう奴は、妙に自尊心も高くて、その後はその姿を保つために、人間を食らわなくなる。その手の奴が、確かに一人いた」

 兎の指摘に渋々頷きながら、オキは続けた。

「そいつは、今別行動中だ」

 だから、獣たちの統率がうまく取れず、手ごたえがないまま片づけられた。

「……そいつか? あの紛い物が作り出した塊を、武器に生成していたのは?」

「ああ」

 水月とオキの会話を聞きながら、とりあえずエンの傷の具合を確かめたロンが、なるほどと頷きながらも、不思議そうに言った。

「つまり、その猫の獣が、武器を生成できる人を、食らったってことよね? 固形の時なのか、液体の時なのかは知らないけど……他にも、そんな人いたのね」

「そうだな。そんな好都合な奴を見つけたそいつも、運がよかった」

 ロンの感傷が僅かに滲む言葉に、オキも平然と返していたが、兎はつい眉を寄せた。

「……成程、そういう事か。という事は、囮は……」

 半透明の男が、それ以上に何かを察し、苦笑する。

 水月も、その更に奥の何かを察し、溜息を吐いた。

「どちらの囮に食いついても、大丈夫な仕掛け、か」

 これは本当に、準備万端に整えられている事案だった。


 風習を大事にしていた家柄としては、終焉の兆しがあるが、林家は健在だと、胸を張って言える。

 特に、父親の代からは何かと言い訳を見つけ、その風習に反発してきた。

 先代の死後を目のあたりにしたのち、若い内はまともだった父親は、少しずつ壊れてはいたが、それは昔からの罪を知った罪悪感と、その罪で恨みを買った者たちからの、執拗な呪詛が原因だった。

 一つの村となっていた一族の里に、教育者が入り始めてからこっち、儀式として行っていたことが、ただの虐殺だったと気づいたのが、先代だった。

 得体のしれない獣たちの目を掻い潜り、次代の子供たちに少しずつ教育を施し、洗脳を解いて行っていたものの、小さな里内では、それ以上の動きが出来なかった。

 内側には口の上手い化け物、外側には恨みの募った化け物が蔓延り、うちに籠るのも外に逃げるのも叶わない家柄となった林家は、先代の死を受けて一つの賭けに出た。

 その賭けは、行った時は手ごたえがなかったが、徐々に功を奏し始めた。

 そして今年に入ってすぐ、儀式の準備と称して、一族の者のほとんどを、あの里から出すことに成功したのだ。

 自宅で倒れた父親を救急搬送してもらい、運び込まれた病院で入院することができたのが、逃げ水となったようだ。

 壁の外の連中は、部外者であった救急隊員まで攻撃するのを躊躇い、内側の獣たちや先代の姿を奪った男は、その存在を外に知られるのを恐れ、手を出してこなかったのだ。

 大胆な逃走をやってのけた当主に続く一族の者も、苦も無く逃げ出して、今はそれぞれ生活できる環境にいる。

 事が全て終わったら、故郷に帰ると言う選択も残るくらいには、順調にいっているようだった。

 ……当主である父親の寿命が、尽きかけていること以外は。

 次代林家当主は、小さい頃から里を出て、母方と父親の実家を、行ったり来たりして幼少時代を過ごし、中小企業に就職していた。

 あの里の壁の外に屯す者たちが、恐ろしい存在だと言うのも知っていたが、弱い立場の自分たち兄弟や、母親を襲うような非道な連中ではないのも、承知していた。

 だからこそ、父親も逃がせた。

 が、もう少し早く、何とかできなかったかと、後悔していた。

 自分がもう少し早く、ある者の存在を知っていれば、ここまで弱る前に父を助けられたのではと。

 入院に至った経緯は、感心できることではない。

 幼い子供を術で襲い、その仕返しを受けたのだから、自業自得だ。

 だが、父は病院に搬送されたとき、涙ながらに言った。

 初めは弱い物を仕掛けたら、あっさり二倍になって戻って来たから、もう少し強い物でも大丈夫と思ったと。

 返った物で倒れたら、それらしい言い訳になると思ったら、半分しか戻ってこなかったのだと、半狂乱だった。

 その半狂乱となった時に、遅れてやって来た術返しに合い、父は完全に体を崩した。

 その後、その子供たちは無事で、こちらの意図も心強い者に伝わったから、今は父も落ち着いているのだが、慣れない攻撃を放ち、又受けたことで体も弱まってしまい、あれから数年、入院したままだった。

 出来れば、父親が生きている間に、あの里を取り戻し、あそこで死なせてやりたい。

 それが出来る刻限は、刻々と迫っていた。

 仕事を終え、病院に立ち寄った林は、病室のベットの上で、父親が身を起こしているのに気づき、驚いて駆け寄った。

「起きて大丈夫なのか?」

「おお、お前か。今日は少し、調子がいい」

 無口な父親は短く答え、窓から見える夕日を見つめる。

 青白い顔が、そんな男の言葉とは裏腹に、調子の悪さを訴えているが、それでも表情は穏やかに見え、息子は少しだけ安堵する。

「……順調だそうだ。もう少し、儂も粘らねば」

 息子に向けたと言うより、己自身に向けた言葉は、短いながらも重い。

 その重さに言葉もなく頷いた息子は、父親を横たわらせ、掛布団をかける。

「まだ寒い。風邪をひいて、更に体を崩されても困るから、もう休んでくれ」

 言い方が、どうしてもきつくなってしまう。

 ガタイもでかく、強面の家系の林家は、元々が山の住み人であったことを差し引いても、周囲の人間と折り合いが悪かった。

 山の中で暮らす分、気を張っていないといけなかったせいもあるが、周囲の者から投げかけられる言葉に反論する、自己防衛が行き過ぎてしまったせいでもあった。

 ついつい、人が傷つく言葉を選んで、あちらを怯ませて逃げる癖が、こういう場でも抜けなくなってしまっているのだが、一族や同じ里の者同士でも、似たような交流の仕方であったため、父親は難なく頷いて素直に目を閉じた。

 その様子を見下ろしながら、父親の言葉を反芻する。

 順調と、知らせが入った。

 自分の携帯機器にも、一言、そう連絡があった。

 ならば今夜、順調にいけば、やってくるのだろう。

 あの男の、相棒であるあの獣が、父親の元に。

 ここを見逃せば、後は方々に散っている林家の血縁も、奴らの手にかかってしまうだろう。

 父親を守るのは勿論、林家の全員の未来は、今夜、病室に侵入してくる奴の動き方次第で変わってくると、林は感じていた。

 獣の相棒は、遠くの故郷に足止めされ、場合によっては退治されているかもしれないが、それを期待しすぎるのも危険だ。

 慎重な奴らだから、個人で経営している病院ではあるが、だからこそ数少ない入院患者への間が行き届いているため、大それたことをするのを躊躇うかもしれないが、それも、切羽詰まっている状態では期待できない。

 いつも付き添いで寝泊まりしている母親が、夕飯を取るために出ている間に、院長に相談して、壁の作成を許可してもらおうかと考え始めた時、扉を力強くノックされて我に返った。

 そっと扉を開くと、顔馴染みの看護師がそっと告げる。

「院長が、お呼びです」

 折よくそう言われ、林は頷いて廊下に出た。

 代わりに看護師が病室に入り、父親についていてくれるのを確認し、頼みごとをまとめながら診察室に向かった。

 古い木製の扉をノックすると、すぐに返事があり内側から招き入れられた。

 お辞儀をしながら中にはいり、立ちすくんだ。

「わざわざ、足を運んでいただいて、申し訳ない」

 笑顔で言う男は、既に顔馴染みとなった、この病院の院長だ。

 細身のその男は、英国では有名な医者らしいのだが、夫人が歌手で、この国の芸能事務所と契約を交わしたため、その間だけ、こちらで起業しているそうだ。

 そのタイミングで、林家の当主が大手の病院に運び込まれ、入院と言う段になった時、事情を知る人物がこの医者を紹介してくれ、どうせならばと個人病院を立ち上げてくれた。

 その院長は、いつも通り診察時に使っている椅子に座っているのだが、その椅子の足元に拘束されて座り込む男の方に、林は目を奪われてしまった。

 大きな男だった。

 家系的に大きな林よりも大柄で色白の男が、薄暗くなった外の明るさに反応して、瞳孔を丸くした金色の瞳で、睨みつけていた。

 人とは違う色合いの銀髪を肩に流す、見慣れた獣の姿だ。

 後ずさりしそうになった林の背後で、音を立てて扉が閉まる。

「中々、慎重な準備態勢だな。驚いた」

 真面目な声が、大男を見つめる林の背後で呟いた。

 飛び上がる勢いで振り返った先にいたのは、ごく平凡な真面目そうな男だった。

 目線は林の方が高いが、長身の部類だろう。

 アジア系の国では、全く目立たず馴染みそうな容姿のその男は、外見と同等の真面目な声で、前方に座る医師に話しかける。

「ここまで準備が整っていたと言うのに、何故に、姉上まで、ここに呼び出したのだ?」

「呼び出したのではなく、義父上が近くに行くからと、丁度いいから義母上の事を頼むと、言われたんです。囮のつもりは、一切ありませんよっ。当然でしょうっ」

「成程。つまり、ロンも、この事態は想定外か。まあ、私としては、ありがたい想定外だな」

 平然と呟く男に、医師は苦い顔だ。

「こちらは、有り難くないんですが。種族間の争いに、あなたまで巻き込まれてしまうとは」

「何を今更。元々、巻き込まれてはいただろう。無関係ではない」

 意味不明な会話が続き、その間に自分を取り戻していた林は、睨み続ける獣を見下ろした。

「……奴は、死んだと聞いたが。それでも、我々を狙うか?」

 猿轡を噛まされ、答えられない獣だが、憎らし気な目と唸り声が、こちらへの殺意の存続を伺わせる。

 こちらも負けずと睨み返すと、控えめな笑い声がその横から聞こえた。

 ぎょっとしてそちらを見ると、一匹の猫が座っている。

 濃い茶色の細身のきじ猫だ。

 美猫と称されるだろうその猫は、緑色の目を細めて自分を見ていた。

「凝り固まった種族も、長く続いている間に、異端児が現れるようになる。それは分かっていたけれども、数百年だけで、ここまで昔からの風習を否定するようになっているなんてね。いくらセイ坊ちゃんの太鼓判でも、半信半疑だったのだけど」

「だから、出遅れたわけでもあるまいに。言い訳は、悲しくなるだけだ」

 嘆くように意味不明なことを言う猫に、後ろから医師の傍に歩み寄った男が返す。

「正当な方法で、私が手を下すと決めただろう?」

「……じゃんけんなんて、私にとってはずるい手でしかない」

 目を細めたままの返しに構わず、男は唸り続ける獣を見下ろした。

「この姿、腹立たしいな」

「ええ」

 医師も、苦い顔だ。

「何とかなりませんか? 万が一、義母上がここに来てしまったら、混乱してしまいます」

 言いながら見下ろす顔は、戸惑いの色が濃い。

「……こんなに、似てらっしゃったんですか? 義父上と?」

「ロンは、肌色は母親に似たらしいが、顔立ちは父親似だったらしい。父が、そう言っていた。……私が、引き取られたときには既に、どちらも故人だったから、はっきりとは分からないが……どちらにせよ、友人と同じ顔は、不愉快だな」

 真面目な声の男はそう言い、不意に獣の頭に手を伸ばした。

 それを見た猫が、嫌そうに声を上げる。

 林も、悲鳴を上げそうになって、何とかかみ殺した。

 突然、獣の姿が変化した。

 髪の色も肌色も変わらないが、明らかに別人の顔立ちになった獣の姿に、先程よりも脅威を感じて、身構えてしまう。

 先程死んだと、そう報告があった血の使い手の姿で、獣は座り込んでいた。

 全体的に血のような色だった男とは違い、銀色の髪と金色の目が、別人と知らせているが、どうしても緊張してしまう。

 強張った林の様子に小さく笑い、男は真面目に言った。

「心配するな。この姿の者は、もういない。お前が受け取った報告は事実だ。こいつが姿取っていた男は、我々には、不評の姿だったので、急ごしらえで被せただけだ」

「……だからって、よりによって、そいつを選ぶか? あなたも、相変わらずの性悪だな」

 きじ猫が、器用に舌打ちして毒づくが、それすら構わず、男は林に呼び掛けた。

「お前たちの囮役も、これでしまいだ。本当は、そちらに知らせぬよう、片づけようかとも思ったが、昔犯した業をこれから背負う身に、こういう憂いは少々過ぎるだろう。だから、リョウに呼び出してもらったのだ」

「……」

「確認だけしよう。この姿の持ち主が作った血の塊を、武器として鍛えたのは、この獣だな?」

 躊躇いつつ頷いた林は、矢張りと頷く男を見る。

「……そいつは、どうするんですか?」

「消す」

 きっぱりと言われ、言葉をなくしてしまった。

 そんな様子を見て、きじ猫がやんわりと言う。

「こいつは、色々と禁忌を犯している。主の横取りに、主を持った同族の補食、主の偽証に他族への過干渉。どれもが、我々の掟を完全に破っている。だから、跡形も残さないのが、被害に遭った他族への、贖罪にもなる」

「まあ、本来ならば、それを匿っていた者も、罪に問うべきなのだが」

 そんなに罪のある獣なのかと、身震いした林は、真面目に続けられた言葉で、更に身を竦めた。

 見ると、獣の傍に立つ男が、その機微を見守っている。

「……」

「知らずに匿っていたのであろうし、我々の失態でもある。あの紛い物がたった一人で、あそこまでうまく逃げおおせるのが不思議で、誰かが傍にいるとは思っていたが、まさか、死んだと思われていた獣が、同じ姿で生きていたとはな」

「こいつの死を疑わなかったのは、仕方がない。シノギの坊やの攻撃を受けて、無事でいるなんて、禁忌を犯した者には不可能だった。その前に、主持ちの同族を食らっていなければ」

 それでも、本当に命からがら逃げたからこそ、消息が完全に立てたのだろう。

 きじ猫は、苦い顔で言った。

「違和感に気付くべきだった。シノギの坊やが、ロンの坊やの母親の姿を取った猫まで、跡形もなく消してしまうはずがない。あの子が、あの場に入った時には既にこいつは、その同族を捕食した後だったんだ」

 長くそれに気付かなかった。

 気づいたのは最近、セイが林家の壁の中に入ることに成功した後だ。

「……あれを、成功したと言いますか?」

 リョウがつい反論したが、それも聞き流した猫は言った。

「紛い物が連れている獣の数が多すぎるという事と、古株の獣の顔が、知人の顔をしていると言われた」

 それを聞き、初めてキィは昔感じた違和感を口に出した。

 今は師匠である女と自分を呼びに来たキィは、すぐに主の元へ戻ったが、遅かった。

 衝撃を受けながらも、キィはそこに一緒にいたはずの同胞を探した。

 そもそも、主の元を命令とはいえ離れたのは、もう一匹の、こちらは既に主の姿を持った同族が一緒だったからだ。

 なのに、その姿も見えず、死んだのならばあるはずの体毛が、一本も見当たらなかった。

「シノギの坊やの手にかかったはずの白い同族の毛も見当たらず、違和感はあったが、衝撃の方が強くて、長く思い出さなかったらしい」

 ほんわかとした性格のせいで、今の姿の者の生前との落差があるキィだが、その時は珍しく険しい顔で自己嫌悪に陥っていた。

 そんな幼馴染の様子を思い出しながら、きじ猫は口が利けない獣を鋭く睨んだ。

「……彼女の毛色が、少し混じっているな? ああ、返事はいらない。どんな言い訳も、返事も、不愉快なだけだ。声を聞いたら、カスミ坊との約束を、違えてしまいそうだ」

「我慢強くて、結構なことです。私は、そろそろ限界ですが」

 あくまでも真面目な声で言う男だが、その声も雰囲気も、何故か室内を凍らせていた。

 声を出すのも憚れて黙っている林だが、ついつい大きく唾を飲み込んでしまう。

 凍った室内に恐ろしく響いた音だったが、医師が一瞥しただけで、他の者には反応がない。

 だが、その存在を思い出しはしたらしい。

 男が獣から林へと視線を移し、最終確認の言葉を投げた。

「私としては、全ての発端の者の、一匹くらいは己自身の手にかけたいのだが。他の二人は、父上や他の方に譲ったのだから。どうだ? ここで消しても、構わないな?」

 あえて止める理由は、林にはなかった。

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