第8話

 驚愕しているのは、二人だけだった。

 寝ていたセイの前に立ちふさがった蓮も、慌てて出て来て布団ごとセイを抱え込んで守ろうとした葵も、粉塵となった男がひも状に変化し、それを追って動こうとした鏡月も、その機敏な動きに矢張りかと、そう思っただけだった。

 今はこの場にいないロンも、ある程度の予想はついていただろう。

 だからこそ、男が小屋を出ていくときに杖代わりにしていた黒い剣を見ても、五体満足ではないが、セイは無事だと言うキィの言葉を信じ、堤恵の救出の方に向かってくれたのだ。

 だが、事情を知らされず、セイ本人の性格の悪さを知らない凌とカ・シュウレイは、今のこの状況に、全くついてきていなかった。

「お、おいっ。急に動いちゃ、体がびっくりしちまうだろっっ」

 葵が目を剝いて言う前で、蓮は黙ったままそれを見下ろしていた。

 鏡月も、刀を持つ手の構えを解き、呆れ顔だ。

 突然駆け出して、素早く動いた蓮を追ってきた凌は、その前から室内にいたシュウレイと同じように、唖然としてそれを見下ろしている。

 そこには、全身を全力で動かし、思いっきり血の塊を床にたたきつけ、そのまま両膝を使って押さえつけている、金髪の若者がいた。

 這いつくばるようにそれを押さえつけるセイの顔は恐怖でひきつっているが、それは捕まえている物へ向けた恐怖ではなかった。

 蛇のようにうねって抗うそれを抑えたまま、セイは顔だけ上げて蓮を睨んだ。

「何で、あんたたちが、ここにいるんだよっっ。しかも、前に立ちふさがるなんてっ。危ないじゃないかっ」

「へ?」

 間抜けな声を返した葵は、入り口近くに座る黄色い猫を見た。

 その視線を追って、セイも目を見開いてこちらを見る。

 キィは、無言でその二人の視線から目をそらした。

「……何をしたんだ、あんた?」

「……保険を掛けただけなんだ。それが、ここまで計画を総崩れさせるとは、思わなかった」

 言い訳じみた言葉を紡ぎながら、黄色い猫は困惑していた。

 まさか些細な漏洩だけで粉々になってしまうほどに、行き当たりばったりな計画だったとはと、驚いている。

 セイの計画は、単純だった。

 偶々捕まることになったから、この機に打って出ようと言う計画だ。

 突然壊れた壁から、外で待機している者がなだれ込むことで、目的の男とそれに仕える獣たちが二手に分かれ、男が単独で動くように誘導しようとしたのだ。

 その計画を実行するにあたり、仕える猫側からすると、数々の不安があった。

 だから、壁が壊れる前に、あの三人につなぎを取り、雅を招き入れる算段をした。

「……三人ともを、壁が壊れる前に招くことになったのは、一つ目の誤算だ」

 誤算と言っても、そこまで狂った計画でもないが、そういったキィに、若者は目を剝いた。

「……一つ、目? そもそも、何で、壊す前に入れた? そんなに早くミヤが入ったら、逆に危険だろうっ?」

 腕に巻き付くひも状の血の塊に構わず、セイが叫んでしまったのは、仕方がない。

 林家がすでに解体状態だと、壁の外の異形達には告げているため、なだれ込んだ彼らが相手にするのは、目的の男が集めた獣たちだけだ。

 今回呼びかけた三人は、堤恵の保護と、獣狩りの加勢をさせるために、巻き込んだつもりだったのだ。

 そのバタついた状況で、今は血の塊となって捕まっている男が、自分の中に取り憑くのを、セイは心待ちにしていたのだ。

 だが。

 キィが冷静に計画を暴露すると、予想通りと苦い溜息を吐いた蓮は、かすれた声を出した。

「……その、取り憑くってのが、不安の元だったんだろうが。オレでも、最大限に保険を掛ける」

 ひきつった顔のまま、文句を並べていたセイが、目を見開いて顔を上げた。

「あんた、風邪か? こんな寒いところに、そんな薄着で……悪化したら、どうするんだっっ。薬、効かないのにっ」

「うるせえ。これは、風邪じゃねえよ」

 空気を読まず心配する声を、蓮はきっぱりと切り捨て、冷ややかに続けた。

「お前、そいつが近づくたびに、頭真っ白になってたんだろう?」

「そ、そんなことは……」

 口ごもるセイに、蓮は恐ろしいほどに優しく頷いて見せた。

「ほう。なら、覚えてるんだよな? その右腕、いつ、どういう風に切り取られたのか。しっかりと?」

「あ? ああっっ。お前、腕っっ」

 若者の問いで、ようやくそれに気づいた葵が、悲痛な声を上げた。

「冷えると痛いぞっっ。ちゃんと、布団かぶれっっ」

「寒いのは、蓮の方だろっっ」

「心配ねえよっ。蓮のは、変声期だっっ」

 反論するセイに構わず掛布団を頭から被せ、葵は言い切った。

「は? 変声期っ? 何だよ、それっ?」

「成長すると、特に男は声が太くなるんだよ。オレも太いだろ。蓮はこの間まで、膝も痛そうだったんだ。だから、キィに声かけられたとき、巻き込むなって言ったのによぉ……」

 溜息を吐いて嘆く大男から視線を流し、傍に立つ若者を見上げたセイは、呆然と呟いた。

「……嘘だろ。私の時は、そんな症状、なかったぞ」

「ほう。そりゃあ変だな。だから、そんな半端に成長したんだな」

 にやりとする蓮を見上げ、真顔になった若者は、呟くように言う。

「……こいつが使った刃物、何処に行ったんだろう。普通の刃物だったから、消えてはいないはずだ。何処かに転がっているはずだ」

「……人の足を、勝手に切り取ろうと考えてんじゃねえ。大体、そんな事を気にしてる場合かよ?」

 身を屈めた蓮は、真顔でこちらの背を物理的に縮めようと画策している、若者の手首を掴む。

「そいつを、放せ」

 本気で考え込んでいたセイが、手首を掴まれて我に返った。

「はっ。そうだった。今なら楽に……」

 存在を忘れていたそれを、セイはおもむろに口元へと運ぶ。

 それを見て総毛だったのは、後ろで見ていたシュウレイだった。

 悲鳴を上げて固まった女の傍から、鏡月が動く。

「こ、こらっっ。そんなばっちいもん、口にするなっっ」

「大丈夫だよっ。死肉に群がってた鼠を、生で食べていたこともあるからっ。今でも少し腹を下すくらいで、死にはしないっっ」

「いつの話だっっ? そんな貧しい頃があったってのかっっ? 聞いてねえぞっっ」

 それは、ほんの子供の頃だよなと、キィが呟く前で、同じくらいの体系の若者たちと、泣き顔の大男が、もみ合っている。

 口も手も出せずにいる黄色い猫が見守る前で、ずっと空気だった男が動いた。

 無言で揉み合う連中に近づいた凌は、力づくで血の塊を奪う。

「あ……」

 これで、完全にセイの計画は、霧散した。

 目を見開いて見上げる己の子を見下ろし、銀髪の男は言った。

「その役は、オレがやる」

「っ、旦那っ。あんたもやめろっ。この子に食わせると、言っておいただろうっっ」

 だから、どうして口から入れようとするんだとキィは思うが、考えてみると、ここ以外のどこから取り込むんだと言う話だと、思い当たる。

 生き物の、上下の穴どちらから入れても、鼻や耳の穴から入れても何とも見栄えが悪いが、毛穴から取り込めないなら、そうするしかない。

「……成程、人間に取り憑いている時に入り込まれる方が、見栄えがいいか」

 銀髪の美男子が、大きな口を開いてそれを口にしようとするのを見ながら、妙に納得してしまった猫の前で、もう一つの誤算がやって来た。

 と言っても、場面が早すぎると言うだけで、来ることは予想出来ていた誤算だ。

 凌が口を大きくあけたまま固まり、目を剝いた。

 止めようとして縋りついた鏡月が、前のめりになったその大男の体の下敷きになりそうになって、慌てて身を引く。 

 そのまま床にうつ伏せで倒れ込んだ凌は、完全に気絶していた。

「っ? 叔父上っっ?」

 立ちすくんでいたシュウレイが、そんな異常事態に目を剝き、駆け寄る。

 逆に、鏡月の方が驚き過ぎて、立ち尽くしていた。

 セイの手首をつかんだまま、その一部始終を見ていた蓮は、倒れ込んだ凌が持っていた血の塊が、別な人物の手に渡っているのを見た。

「……誰も知らせてくれないなんて、本当に薄情だよね。私も探してるのを、知ってただろうに」

「……」

 突然現れた父親に気を取られ、呆然としていたセイが、その声で我に返った。

 時間切れ。

 そんな言葉が頭に浮かんだのが、手に取るように分かるほど、珍しくがっくりとうなだれる。

「……もたもたしすぎた」

 邪魔が多すぎたのがいけないが、そんなのは言い訳に過ぎない。

 本当に悔しそうに呟いた若者を見やり、急に登場した赤毛で長身の美女は微笑んだ。

「お前たちの気持ちも、分からなくはない。だが、どちらも、本心とは違う結果にしかならないよ」

 色白の腕に絡みつくひも状のものを見やりながら、一つ一つ指摘する。

「かわいい孫の嫁が持つそれ、もう共倒れに使えるほど弱くない。このままこれを取り込んでも、その力を吸収して己の力に変えてしまうだろう。それは、敵を浄化させてそれを解放してやりたいと望む嫁ちゃんには、添わない結果だろう?」

 やり過ぎたのかと鏡月が詰まる中、女はうなだれたままのセイを見た。

「セイ坊、お前もだ。この一年、何度もこいつの干渉を受けているんだろう? その都度、ろ過体質を使って、悪いものを吐き出してきた。一度取り入れても、悪いものを外に出してしまったら、それはもう、こいつ本人を取り込んだことにはならない。不純物は、外に捨てて浄化しているんだから。こいつが作った物を残したいのなら、蓄積させておかなくちゃ」

「……」

「まあそのせいで、こいつ本人の力がこの一年で極端に弱くなったのが、孫の嫁が持つそれを使えなくした原因だけど」

「……?」

 シュウレイが、凌の体を抱き起しながら、不思議そうに女を見上げた。

 遅ればせながら女が、変な名詞を口にしているのに気づいたようだが、今はそれを尋ねる空気ではないと、賢明にも黙っている。

「吐き出したものを、そのままぎゅうぎゅうに固めてしまえば、どうだろう?」

 うなだれながらも考え込んでいたセイは、粘り強く確認するが、女は呆れたように首を振った。

「いちいち体に取り込む必要は、もうないだろう、私が出て来たんだから。本当に、時間切れだ」

「……」

「これ以上、変な特技を作るの、やめろ。こっちの頭が、ついて行かなくなっちまう」

 諦めきれずに考え込むセイを、ようやくその手首を解放した蓮が軽く窘めながら、ついその頭を撫でていた。

 内心、安堵している若者の心境を、葵が自分の言葉で代弁する。

「……良かった。混じりも、操られも、しねえんだな」

 布団ごと力いっぱい抱きしめる大男の腕の中で、若者が複雑な心境で唸る。

「……この二人が紛れ込むと、大概失敗するんだけど。これも、呪いの一つか……?」

「それは、偶然だ。大体、本当にオレは、何も聞かされてねえ」

「……巻き込むなと言われたんで、その通りにしたんだが。まさか、この旦那と一緒に行動するとは」

 戸口の前で、三人の会話に答えたキィは、しみじみと言った。

「オレもオキも、この旦那と水月の旦那は、一緒に行動していると思っていたんだ。まさか、水月の旦那が弟子と一緒に現れるとは」

 それが、保険を掛けたことでの、誤算の一つだった。

 自分たちがこっそりと壁を削っていた場を、早々に知られてしまい、予想以上に早くここに辿り着かれ、先の修羅場が出来上がってしまった。

「シュウレイと鏡月の牽制のためにも、一緒に行動してもらいたかったんだが、当てが外れたなあ」

 ほんわかと笑う黄色い猫を、セイは恨みがましく睨む。

「だから、何で、保険でこの二人を巻き込もうなんて、考えたんだ?」

「ん? だって、この二人が声をかけたからだったんだろ? 昔、見世物小屋のリアルな人形で頭が真っ白になった時、動けるようになったのは。この二人が偶々視察に来てて、声をかけたから逃げ帰れたんだって、オキが言ってたぞ」

「……え?」

「ああ、あれか。あの時は、贅沢な物に厳しい方が上にいたからな。過度な見世物も取り締まられたから、江戸にやって来た旅芸人一座は、全員、目をつけていたんだ」

 花見の時期や、季節ごとのささやかな祭りの時に、出店に混じって出没する、見世物小屋の一つだった。

 使われる道具や小屋は質素なのに、派手な演出と恐ろしく精巧な人形を作っているのを見て、感心して小屋から出てきたら、小屋の看板の傍に立つ人形を前に、固まっているセイがいた。

 一緒にいた葵が、気楽に声をかけた途端、体を跳ね上げて脱兎のごとく走り去ってしまい、唖然としたものだった。

「あの時は一体、どうしたことかと思ったもんだったが、理由が分かれば、可愛いもんだよな」

「……」

 二人が思い出話に盛り上がる中、挟まれた若者はその時の事を思い出し、一人盛大に唸っている。

 そんな主に、キィは気楽に説明した。

「お前が、この計画を明確にしたとき、初めてオキと意見があったんだ」

 林家を解散させたこの地で、あの男を己に取り憑かせ、自分の中でとどまらせる。

 そう言い切ったセイに、二人の猫は不安をぶつけた。

 今はただの血の塊だが、先程までは人に取り憑いた、いわば動かないはずの人形の物、だった。

 そんなものに近づかれて、平静でいられるのかと言う猫たちの心配を、セイは一蹴した。

「取り憑いたら、外側は動かなくなる。だから、大丈夫だ」

 言い切ったからには、すぐに正気に戻る気なのだろうが、持ち場に戻る道すがら、オキとキィは真顔で意見を言い合った。

 この太鼓判ほど信用できないものは、今までない、と。

 同じ主を持つ猫二匹が、完全に意見を通わせた瞬間だった。

「正気に戻るまでの間が、どのくらいあるのかが、判断できなかった。その間に、変な犠牲が出ることも考えられる」

 意識がない時に、取り憑いた男が勝手に体を動かし、味方を攻撃するかもしれない。

 怪我だけで済めばいいが、最悪命を削り取ってしまうかもしれないのだ。

 そうなって、一番後悔するのは、セイ自身だ。

 誰がどうなろうと、猫たちは構わない。

 主の心身を守るのが、彼らの役目だからだ。

「そう考えると、壁を壊した時に雅が入るのは、遅いと判断した。堤恵がその手にかかる可能性もあるし、場合によっては、雅と取り憑かれたお前が、鉢合わせするかもしれない。それよりは、壁が壊れる前に堤恵を助けてもらって、さっさと退散してもらおうと、そう思っていた」

 ついでに、男から獣たちを引き離せればと、そういう計画だった。

 雅だけではなく、男が二人ついてきたのも、別に気にならなかった。

 気にするべきだった、と今では後悔しているが、キィはその辺りは曖昧にぼかし、ほんわかと笑顔になった。

「その二人を巻き込もうと思ったのは、万全を期そうと思ったんだ。正気に戻る時期を、早めたかった。オレたちも、お前の意に添わぬ攻撃云々以前に、訳の分からない奴の言いなりになるお前は、一時たりとも見たくなかった」

「……」

「まさか、巻き込まない方がいいと止められた奴が、とんでもない人たちを動かしているとは、思いもよらなかった」

 それは警戒していたから、事が大きくなり過ぎたと嘆くだけに留まる。

 実際セイも、最大限の警戒はしていたから、最後の最後、赤毛の女の乱入に、自分の動きが間に合わなかった事を、嘆いているに過ぎない。

 誰が標的を手中に収めても、敵が負けたことに変わりがないからだ。

 だが、ここまで我慢したのだから、手を下すまでやり遂げたかったと、セイは内心落ち込んでいる。

「……いい子だから、これは譲りなさい、セイ坊」

 やんわりと、名前もない女はセイを諭す。

「私ならば、お前が望む方法も、孫の嫁の望む方法も、思いのままだ。今から、よく話し合いなさい」

 もっともと、女は黙ったキィを一瞥した。

「そんな余裕があるのか、分からないけどね。キィ坊? 報告はいいのかい?」

「それは、全て終わってからでも、大丈夫です」

 ほんわかと笑う黄色い猫を呆れて見やり、女は溜息を吐いた。

「お前ね、いくら何でも、それは可哀そうだろう。まさかこのまま、セイ坊が死んだと、そう思わせておく気か?」

 キィと気絶した凌以外の者が、一斉にぎょっとしたが、黄色い猫はほんわかと笑ったまま答えた。

「それでも、障りはないと思いますが」

「……どういう意味だ?」

 目を見開いた固まったセイに代わり、鏡月が静かに問うと、キィは仕方なく報告した。

「どうも、エンと雅は知らないらしい。どの大きさの塊が、人一人分になるのか。そのせいで、二人とも勘違いした」

 セイが、紛い物に負けて、死んでしまったと。

「で、雅が、そいつの血を取り込んで操られ、エンを刺してしまったんだ。セイの右腕で」

 結果、エンは重傷を負って意識がなく、雅は己の意思で動きにくい状態だと、キィはほんわかとした口調で、言い切るのを振り返り、セイがようやく問う。

「……何で?」

「ああ、オレもそう思ったし、オキも驚いている」

 これが、完全に誤算だった。

「思ったほど、あの二人はお前を、信用していなかったようだ。だから、放置でいい」

 恐ろしく冷たく言い切った猫を振り返り、シュウレイが目を剝く。

「放置でいいって、雅ちゃんが呪いかかってるのにっ?」

「心配ない。兎の旦那もいるし、水月の旦那もいる。セイが助けに向かう必要も、ないからな」

 ほんわかとした口調なのに、言葉は恐ろしく冷たく響く。

「……そこまで、怒る事じゃないだろう」

「怒る事だろう」

 主の窘めの言葉にも、きっぱりと返した。

「普段、放任主義を装っていたから、騙されていた。エンは、お前に誰よりも依存していたんだ。お前が死んだと思い込んだあいつが、何をやらかしたと思う? 雅を手にかけて、完全に人の道を踏み外そうとした。自分が死んだと思われたときは、うじうじと出てこれなかったくせに、勝手な奴だ」

 ほんわかとしつつも、なぜかとげとげした言葉に響く、器用な言いようだ。

「……耳が痛いなあ」

 シュウレイが呟き、蓮も小さく唸る。

 普段は打たれ強いが、予想を超えた衝撃は長く尾を引くのは、自分たちも同じだ。

 耳が痛いと思いつつも、ついつい感心した声を上げてしまう。

「あの、全く研がれていない鉄の棒を、腹に押し込めたのか。意外に柔い腹なんだな」

「柔いから入るわけでもないだろうが、そうだな。何かの拍子に刺さってしまったか、雅の刺す力が強かったのか。どちらにしても、鋭利でない刃物の傷は、最悪だな」

 研磨していない刃物で刺されると、それだけ肉の断面が酷い状態になっているはずだ。

 裏を返せば、刺した雅も己の意思でとどめられないほど、呪いがしみ込んでいたという事だ。

 言って舌打ちした鏡月に頷き、キィは続けた。

「……雅も、あの塊がセイの全身と思っていたんだろう。今は思っていなくとも、一瞬、そう思った時に入り込まれては、なすすべはなかっただろうな」

 他人事のような言いようだ。

 猫の獣にしては人当たりがよく、主以外の人間とも接する機会が多かったキィだが、親身になることは滅多にない。

 とある国で重宝されていた日本人と意気投合していたが、その意気投合理由が主への敬愛だったと言うだけで、それがなければその娘にまで、気を遣わなかっただろう。

 出来るだけ、何でもないように説明したのに、セイは戸惑ったような表情で目を泳がせた。

 他人同士の感情の機微は、正確に理解する癖に、己に対する感情には疎い若者は、二人がそこまで自分の事で動揺するとは、思っていなかったらしい。

 キィも、まさかあの二人が、愛おしい者同士の危機より動揺するとは、思っていなかった。

 そのことで、自分もオキも、セイが心を痛める様が予想出来、当然いい気持ではないのだった。

「……セイ」

 黄色い猫の様子を伺っていた鏡月が、戸惑っているセイを呼ぶ。

 顔を上げない若者の傍に膝をつき、静かに言った。

「お前も、分かっているはずだろう? この子は、当の昔に死んでいるんだ」

 ここにあるのは、胎児でできた代物だ。

 そう言い切った鏡月にシュウレイも頷き、抱き起こした男を見下ろしながら、その子供に呼びかけた。

「……魂が宿るなんて、都合のいい望みは、全くないんだよ。意思があるように感じたのは、作られた状況が状況だったから。きっと、別な何かが取り憑いた状態だったからだよ」

「作られた物に取り憑く魂と、作る前に宿っていた魂が、同じであるはずがない。だから、このまま、子供の様に持ち続けるのは、無意味なんだ」

 何か言いたげな若者に微笑み、鏡月は小さく言う。

「お前や雅を犠牲にしてまで、この自己満足を続ける気はない。元々、そいつを捕まえられたら、開放するつもりだったんだ。……すまなかった」

「……何に対する謝罪だ? あんたが、謝るところは、何処にもないだろう?」

 肩に頭を乗せ、静かに謝罪する鏡月に、セイは力なく返し、溜息を吐く。

 顔を上げて振り返ると、何故か目を見開いているシュウレイと、目を細めている赤毛の女が見守っていた。

 その後ろに、成り行きを黙って見続ける、キィがいる。

「……エンは、生きてはいるんだな?」

「ああ。一応は」

 刺されたことばかりが原因で瀕死になったわけでもないのだが、黄色い猫は言葉少なに返した。

 その様子に、何かを感じてはいるようだが、先にこちらを終わらせると決めたようだ。

 キィの師匠であり、自分の曾祖母に当たる女を見つめ、まず慎重に尋ねる。

「……もう一人の関係者の、合意が取れないんですが、どうしましょう?」

「ああ、この子の事?」

 赤毛の女が指さしたのは、珍しいほどに長く失神している銀髪の大男だ。

「どうせ、この鈍い孫ちゃんの事だから、気づいてないんだろ。嫁の持つそれが、誰の種なのか。まあ、嫁ちゃんの血筋の方が濃い感じになってるから、仕方ないけど」

「……ミズ兄を、一番初めに食わせたから、そのせいだな」

 刀で刺そうとして、できなかった理由の想像は想像でしかなく、凌自身も不思議がっていたが、自分の頑丈さ故と納得してしまったきらいがあった。

 力なく笑って頷く鏡月と、己の腕にいる凌を見比べ、シュウレイは最後にセイを見た。

「……嘘」

 何かを察してしまったシュウレイは、目を見開いたまま言葉が続けられない。

 そんな女と、目を交わし合う若者と大柄な男に構わず、セイは赤毛の女の言葉に考え込んだが、すぐに顔を上げた。

「……じゃあ、事後報告でも、いいか」

「なあお前、仮にも親父に対して、軽すぎねえか?」

「あんたはどうなんだ? セキレイさんが時々、軽いどころか冷たすぎて辛いって、泣き言を言ってくるんだけど」

「何で、お前に?」

 あっさりと父親をないがしろにすると決めた若者に、蓮が思わず苦言を呈するが、逆に言い返され、その内容に眉を寄せる。

 問われても、その理由なんて分からないセイは、首を振るだけでそれに答え、再び赤毛の女に切り出した。

「……あなたに、委ねます」

「という事は、消してしまっても、文句はない?」

「はい」

 意地の悪い問いかけに答える声は、もう迷ってはいなかった。

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