第7話

 森口水月は、嘆き節でまくしたてる。

「確かに、昔は散々悪さもやった。女も尽きたことはないし、酒も喧嘩も茶飯事。楽しむだけ楽しんだ人生だったが、蘇ってからこっち、殆ど自重していたと言うのに、何故、今になってっ」

 優しい顔立ちを凶悪にゆがめながら、男はエンを見下ろした。

「娘の、変態プレイを、見学する羽目になるんだっっ」

 我に返ったものの思考が追い付かず、ただ見上げている雅に構わず、水月はうつ伏せになってもまだ抵抗を続ける男に、珍しいほどに冷ややかな声で言った。

「ほう、左腕の感覚がないのは、本当のようだな。なら、こうしたら、どうだ?」

 鈍い音とともに、エンが珍しく苦痛の叫びをあげた。

 見ると、うつ伏せになった男の腹に片足を乗せ、ぐりぐりと踏みしめている。

「このまま、内臓もろともぺしゃんこにしてやろうか。この甘ったれがっ」

 本気で怒鳴る水月と、叫び声を上げるエンを見て、雅が口の中で悲鳴を上げた。

 今の自分の状況を忘れ、必死で水月にすり寄り、その体にしがみつく、

「やめてくださいっ。エンが本当に、死んでしまうっっ」

「雅」

 名を呼んだのが誰なのかに気付き、雅は思わず顔を上げた。

 娘をゆっくりと見下ろした水月は、やんわりと微笑むと、言った。

「オレは、こんな死なせ方をするために、お前を産ませたんじゃないぞ。例えどんなに嫌われようが、お前が、好いた者と幸せな家庭を築いてくれることを、心から願っていた」

 感情が制御できず、雅はつい怒鳴った。

「勝手なことをっ。育て切らないと分かっていたのに、所帯を持っておいて、何が幸せのためだっ。せめて、せめて、死にざまぐらい子供に見せてやるのが、親の務めじゃないのかっっ?」

「それは、悪かったとは思うが、今はその話じゃない。お前、こんな甘ったれと、心中をしようとしていただろう」

「それが、私の幸せなんだから、見守っていればいいだろっっ」

 売り言葉に買い言葉のような勢いの返しに、水月は目を細めつつも唸った。

「……何故、誰も口をはさんでくれない?」

 ぽつりと言う男に返したのは、呆れた低い声だ。

「任せろと言うから、放置していただけです」

「こっちは、後片付けで忙しいんだ」

 答えたのは、いつの間にか雅の体を支えていた森口律と、その連れ合いだ。

 その落ち着いた二人の声は、忙しさを感じさせない。

 そう思ったのは水月も同じで、不機嫌に顔をしかめた。

「その割に、呑気に見物していたように見えたが?」

「今さっき、引継ぎが来た。だから、あんたが落ち着くのを待っていたんだが」

 オキが言って一瞥したのは、先程監視していた獣たちがいたはずの方向だ。

「結界を壊させたんで、一気に入って来た」

 そちらから、見覚えある男が駆け寄ってくるのを見ながら、男が説明した。

「エンっっ? しっかりしろっ。傷が……ものすごく深いじゃねえかっっ」

 エンに駆け寄った男に場所を譲りながらも、水月は忌々し気に舌打ちした。

「くそ。失神させるだけで、済ませねばならんとは。男女の情と言うのは、厄介だなっ」

 吐き捨てる言葉に、オキは複雑な気持ちになって連れ合いと顔を見合わせた。

 昔から女に関しては軽い男だったが、深い情を持った相手は出来なかったようだ。

 あれだけ浮名を流しておいて、ただの一人もかと、呆れを通り越して諦めの溜息を吐いてしまう。

「で、お前、一人で来たのか?」

 律が雅の傍に膝をつき、状況を確認している間に、エンに駆け寄った男に声をかけた水月だが、まだ溜飲は下がっていないようだ。

 珍しく険しい目を向けられ、カ・セキレイは怯えながらもすぐに答えた。

「姉上と、鏡月殿と一緒だ。ああ、頼まれた片付けは、部下が順調にやってるからなっ」

「……」

 正直に答えただけなのに無言で睨まれ、男は更に怯んで挙動不審になりながらも、続けた。

「二人とも、壁が壊れた途端、先走って行っちまったんだ」

「……おい」

「凌の旦那もいるんだ。最悪なことにはならん」

 睨まれても、全く動揺しないオキに、静かに確認する。

「何処までが、想定範囲内だ?」

「あんたらや鏡月たちが、ここに入ってしまう事は、少なくとも想定していた」

 あっさりと答えた後、オキは空を仰いだ。

「まさか、あれを使ってしまうとは。それだけは、想定していなかった」

 しれっと言われた言葉に、雅が反応して、肩を大きく揺らした。

「あんなに簡単に操られるほど、衝撃を受けるとはな。もう少し互いに、分かり合っている間柄だとばかり思っていたんだが、そうでもなかったようだな」

 しんみりと本音を言っただけなのだが、その言葉はすべて、女の胸に突き刺さっている。

 慰める言葉も見つからない。

 平然と言う連れ合いを、律は静かに見上げた。

 見下ろしてくる緑の目は呆れているだけで、本当にその想定外をとがめる気はないようだ。

「他の事は、少しの齟齬はあれど、大体は順調に進んでいるから、心配ない」

「……本気、なんですね」

 溜息を吐く律と、座り込んだままがっくりと肩を落とす雅を見ながら、水月が短く尋ねる。

「で? 向こうは、どうなった?」

「終わった。ロンは、堤恵を救助に戻った。今の所、奴は生かしてある」

「……」

 今、オキとキィは小まめに連絡を取り合っている。

 一応、こちらの事も報告済みだが、それに関しての反応がないところを見ると、キィがその胸に驚きをとどめているのだろう。

 そうなるよなと、一人同調していたオキは、水月が忌々し気に舌打ちするのを見た。

 今までは、一つの考えありきで動いていた男は、雅が昔の自分と同じ状況になったことで、板挟みとなっている。

 娘と、従弟のどちらを取るか。

 難しい問題だろう。

 あの紛い物の生死が、どちらを取るかを決めてしまうのだから。

 少し身構えながらも、オキは水月の心の動きを伺っていた。

 娘を取った場合、すぐに逃げなければならない。

 その、秘かな緊張は、ある集団によって破られた。

「雅っ」

 壁が破られ、自由に行き来ができるようになった異形達に続き、集落に向かっていた望月千里が、力なく俯く友人を目ざとく見つけ、呼びかけながら駆け寄って来たのだ。

 間近で雅を見た高校教師が、その有様に息をのみ、今来た方向を振り返った。

「……確かに、神も仏もいないな。父と娘、同じ呪いを被るとは」

 平然と言う声の方を睨む男の足元で、勢いよく顔を上げた雅は、先程感じた気配の正体に気付いた。

 呪いを受ける直前まで、初めてではない気配を感じていたものの、何処で感じていたのか思い出せなかったが、幼い頃、ごく身近で感じていたものと同じだった。

「……まだ、気を落とすんじゃないぞ。今は落ち着いているようだが、いつまた、発作的なものが湧くか、想像できない。今の所は、気を張っていてもらわんと、困る」

 今更ながら、あの頃の父親の状態に思い当たり、さっき発してしまった暴言を悔いている娘の頭を軽く叩きながら、水月は気楽に言った。

「お前を力づくで止めるのは、躊躇いがあるんだ。やらせないでくれ」

 その言葉に、素直に頷く女を見たオキが、驚いて目を剝いた。

「……驚き過ぎでは?」

「何を言う。あれだけ頑固に、父親を子ども扱いしてきた奴だぞ。これから槍が降ってくるかもしれん」

 そんなことを言っている間に、千里と共に近づいた塚本家元祖が、雅の状態を伺う。

「……成程、これは、かかった直後でも解くのは難しい」

「それは、困ったな」

「困ったなって、あなた、それだけか?」

 平然と言う男の声を振り返り、シロは呆れかえる。

「何とかできるんだろう? 何とかしてやってくれよ」

 シロと同じような白髪のその男は、赤い目を水月に向けた。

「……」

 嫌そうに顔をしかめる男を見ながら、兎の男は全く別なことを切り出す。

「で? 首尾は上手くいっているのか?」

「ああ」

 答えたのはオキだ。

「ロンはどこまで混乱しているかは分からんが、先の頼みを思い出して動いてくれた。凌の旦那も、いい動きをしてくれたと知らせが来た」

「そうか。残りは、一人、か」

 鋭くこちらを見つめたのはカ・セキレイで、振り向きもせずただ舌打ちをしたのは、水月だった。

 その様子に小さく笑い、兎が尋ねる。

「お前たちも、気づいていたんだな?」

「ああ。不自然だったからな。鏡月の刀の元も、さっき見た無骨な刃物も、どちらもなまくら以下の武器だった。なのに、シュウレイのあの剣は、完全な刃物だ」

 鏡月の刀は、鏡月本人が望んでその形になったが、元は、先程雅が手にしていた、黒い刃物と同じように、切れ味など皆無な代物だった。

「……奴は、血を操って形を作り、己の思いを練り込むことはできた。それは、動かすとか、呪いじみた思いとか、オレたちには脅威となる特技だったから、戦力としても期待していたんだ。だが、精密な作りには、どうしてもできなかったようだ。形がいびつな、例えば剣や刀でも、鍛えれば使えそうな程度の、塊を棒状にしたようなものにしか、ならなかった」

 鍛冶師に鍛えさせようにも、できた物はすぐに固まり、後の形状を変えることもできない。

 熱を加えたら液体やさらに通り越した蒸気に、冷やしたらカチコチになってしまい、役に立たなかった。

 だから始めは、姉であるシュウレイの子を、あんなに使える武器にして、集落の一つを滅ぼしす所業が、その男の仕業とは思わなかったのだとセキレイは言い、苦い顔になった。

「姉上が、当時の事を思い出した。意識が薄れる中、高笑いしながら言っていた奴の言葉を。血縁の者だと、こうも綺麗に作り出せるんだなと」

「……待て。じゃあ、あの針は、そいつの子、なのかっ?」

 兎の後ろにいた大男の一人が、目を剝いて叫ぶように問うと、水月はあっさりと首を振った。

「シュウレイのあの抜き身、別な男の種だ。そうすると、別な可能性があるよな?」

「別な誰かの関与の可能性、だな」

 兎が頷き、平然と立っているオキを見た。

「そちらも、手配済みだ。囮が囮なんで、旦那たちをこちらに足止めしているんだ。まあ、囮だけが、問題じゃないんだが……」

 一応、優にも行かせたと言うと、水月は難しい顔になった。

「大丈夫か? 怒りはあるだろうが、八つ当たりの方が気分的には、多いのではないのか?」

 敵の心配より、その囮がいる建物の心配をする男にも、オキは平然と答えた。

「大丈夫だろう。先に、待ち伏せしているはずの人がいる。優が出る幕も、残っていないはずだ」

「……本当に、準備万端だな」

 水月が、大きく溜息を吐いた。

 全ての怒りを吐きつくすかのような、深い溜息だ。

「あの程度の奴らだけで、気を治めるしかないとは。世の中は平和になると、オレたちは生きづらいな」

 あの程度……その、あの程度の奴らが、あの僅かな間に、どんな状態になり、部下たちに片づけられたのかを知るセキレイは、あれだけの事をしておいて、何故返り血一つ浴びていないんだと、いつものように化け物を見るような目を水月に向ける。

「……何で、重のようなことを言い出してるんだ? お前は害にしかならんから、子供を鍛えるのはやめろと、警告しておいたはずだよな? さては、こっそり師事させていたな?」

「ばれたか。と言うより、お主の教えよりは、役に立つと思うが。女子の愛で方など、そう重要ではあるまいに」

 兎の振り返りざまの文句に、後ろで静かに控えていた和装の男が平然と返し、逆に文句を言った。

「お主の教えのせいで、水月は長く子に恵まれなかったのだぞ」

「それは、程々を弁えなかったこいつが悪いんであって、オレのせいじゃない」

「……色々と、訊きたいことはあるが、それは、後にするぞ。おい、ウノ」

 思わず、兎の名を呼ぶと、呼ばれた方は顔をしかめた。

「その名は呼ぶな。今は、うさちゃんだ」

「ふざけるな。お前、そいつらにかかった呪い、解いたな?」

 自分で名乗れるとは、流石だと感心する重の目の前で、睨まれた兎は真顔で答えた。

「だからどうした。言っておくが、お前の時と同様に、雅もこいつらと同じ方法は、使えんぞ」

 理由は、親子で違う。

 水月は、兎の殺意ごときで動揺しない。

 雅に対しては、殺意を向けることが、出来ない。

「幼い頃の雅も、その傍で父親しているお前も、印象深かったからな」

「っ」

 にやりとして言われ、水月が詰まった。

「ほう。このガキが、父親面していたのか。それはそれは」

 人の悪い笑顔で頷く透き通った男と、揶揄う顔になっている兎から目をそらし、咳払いする水月は、本当に珍しかった。

「……槍程度じゃないな。焙烙火矢か、爆発物の類が、無数に落ちてきそうだ」

「縁起でもないことを、言わないでください」

 オキが目を剝いて呟くのを、律は真剣に窘めたが、こちらも大概驚いていた。

「まさか、女漁りの師匠だとは、思っていなかったんですが。余計なことをしてくれましたね」

「女漁りではなく、女遊びだ。間違うな」

「同じです」

 兎の真顔な訂正にも、律は容赦なく返し、今大事な話を切り出した。

「他の方法は、ありますか? まさか、あの方法しか……」

「ああ、今の所、術者本人の消滅か、それしか方法はない」

 その方法を知る師弟は、露骨に苦い顔になった。

 二人の心境に構わず、兎は雅を笑顔で見下ろし、本人にそれを伝えて断りを入れるべく、説明を始めた。


 林家は、終焉を迎えようとしている。

 それは、先の当主が死んだ頃から始まっていた。

 現在の国の法を気にして、昔から守られている掟に反抗する者も増えてしまった。

 儀式に関しても、懐疑的な者が当主になったのは先代からだったが、気が弱かったその男は、こちらが根強く刷り込んだ話に負けてしまい、反発するまでにはいたらなかった。

 だが、今代は違った。

 国が疑いを向ける前に、証人となる女を、正攻法ではない方法ではあるが、家の外に出してしまったのだ。

 それに気づくのが遅れたのは、当主が実の妹と手を組んで、秘かに集められていた者たちまで、一斉に解き放ったためだ。

 逃がされた者たちの親族がこぞって集まり、それらに襲われぬよう家の守備を強化している間に、家宝を生み出す者も、邪魔者を消す武器を生み出す者も、先代の時に作られた家宝も、全て消えてしまっていた。

 ただの材料の人間に、出し抜かれた。

 その事実が、林家を見限る原因となった。

 現当主の失態を取り返すために、次代当主と親族は、壁の外に出て危険な都市へと赴き、混血の女を探していると聞くが、その後音沙汰がない。

 現当主が就いたこの数十年と言う短い年月で、執念も凶悪さも、全て抜け落ちてしまったようだ。

 林家が立ち上がったのは随分昔で、江戸に政が移っていたころだ。

 血気盛んな山の民だった一族が、風の噂である武家が、言い伝えの域の獣を従えた話を聞き、堅物の武士ができるのならば、自分たちでもその偉業ができるのではと考えたことから始まった。

 妖や異形であれば、憧れて会いたいと願うだけで済んだだろうが、人間は欲深い。

 言い伝えの域にいるはずの生き物を、己の下につけている武士が、羨ましくも妬ましかった。

 そんな一族の存在に気付き近づいたのは、いい隠れ蓑が出来ると思ったせいだ。

 山の民の中でも、山の神の声を聴くことができ、害意を払う力を持つと敬われていた一族だ。

 その力を使ってもらう事で、厄介な追っ手を幾人も持つ身としては長い間、その不安を解消してもらっていた。

 代わりに、例の言い伝えの獣を捕まえる法を吹き込んだ。

 林家の初代だった男には、楽な方法ではないと、幾代もまたいで試さないと、成功しないと重く言って見せたが、勿論、大嘘だ。

 棚ぼたのような獲物を得、小物なりの復讐を楽しめる落ち着ける場所が、欲しかっただけだ。

 これまで培った話術がものを言い、山から出たことがない一族をその気にさせ、儀式の度に内側から湧き出る恨みを、発散させていたのだが、今代の代替わりの時、大事件が起きた。

 初めに起きたのは、次代当主の不妊疑惑だった。

 老衰でそろそろ危ないと言われていた当主を見舞い、時期を見計らっていた頃から、次代当主に課せられるはずの役目を、果たすことができない疑惑が持ち上がり、それならばと他の血縁にその役だけ振り、跡継ぎの事は後で考えようと、話がまとまったのだが、そのころには、次期当主とその側近や親族の間で、何やら画策が始まっていたようだった。

 原因は、どう考えても、時世の変化、だ。

 この国では、戸籍がはっきりと確立され始めており、それと同時に教養も施され始め、人道と言うものまでが、根付き始めてしまったのだ。

 明確に、それに気づいたのは、先代当主が没したころだ。

 こちらが先代にかまけている間に、彼らはとんでもないことをやらかした。

 こちらの都合を考え、様々な手で引き取っていた女どもを、一斉に脱走させたのだ。

 その手際から、誰かの手引きが疑われていたが、その裏切り者が意外に身近な者であると気づいたのは、その逃げた女の中に、先代の娘が紛れていたのを知った時だ。

 現当主の言い分では、どうも妹である先代の一人娘は、引き取り育てていた女たちと仲が良く、何故ここに集められたのかを知った時に、逃がすことを考え始めたのだろうと言う話だったが、女手一つで、そこまで大掛かりなことはできないため、他に共犯がいることは確かだった。

 そんな騒動のさなか、もう一つの異変があった。

 己の力の衰えが原因で、武器を一度に作るつもりで、材の生産を延期していた家宝を産ませるために生かしていた女が、父親の跡を継いだ現当主により、何処かに売り払われていたのだ。

「使い古し女で、私の家宝を作ると? 御冗談を」

 そんな事を言った男は、こちらが文句を言う前に宣った。

「それより、今までの家宝は、何処に行ったのですか? まさか、消えるのが惜しくて、あなたが隠しましたか?」

 増長した人間ほど、忌まわしくも疎ましい存在はいない。

 だが、当主が言うように、消えたのは女だけではなかった。

 先代との間の子で作られた家宝も、煙のように消えてしまっていたのだ。

 儀式は、それがないと始められない。

 代替わりは、当主とその家宝を揃って代える習わしなのだ。

 そう刷り込ませたのは自分だが、それを理由にして儀式の中止を決めた当主は、こちらを侮り始めていた。

 ここが引き際と感じたのは、その当主が乱心し他の家系の者を、つたない式で襲った時だ。

 その時には、次期当主のはずの彼の息子は実家に寄りつかず、式を返されて倒れた当主を、実家ではなく遠くの土地の病院に長期入院させるなど、勝手な行動が増えていた。

 そろそろ代替わりが近く、それによって動きがなまってしまった自分は、長い距離での移動が出来ず、入院先まで向かえない。

 林家がもう落ち目と察してから、戦力として集めていた獣たちの血を、先程の乱闘騒ぎで、意外に多く集められはした。

 人里離れた場所に住む、林家の一族を取り込もうと考えたのは、厄介な追っ手から身を隠すためもあったが、己の欲しいものを楽に手に入れるための場所が欲しかったせいもあったから、今回も半分はそれがかなった形になったが、ここまで力の源を蓄えても、この体は既に、殆ど動かなくなっていた。

 これでは、遠く離れた地の病院にいる林家当主の元まで、体が持たない。

 体を支える杖を失った男は、それでもゆっくりとそこに辿り着いていた。

 もう何年も住み人がない集落の中で、比較的まともに残っている家に無言で入ると、そこに横たわる、分厚い掛布団の傍に近づいた。

 肌寒い中、震えるどころかピクリとも動かない、小柄な体を見下ろす。

 男は、奇妙な感覚を覚えながらも、その若者をしみじみと見つめた。

 昔から何度か、人間のような感情が湧き出る瞬間があった。

 ある女の時は、憎しみが。

 ある男の時には、嫉妬が。

 その度に感情に任せ、それらに接してきた。

 時には一気に手にかけ、時には徐々に傷つけ、満足していた。

 この若者から感じるのは懐かしさと嫉妬と、訳の分からぬ不安だった。

 恐らく、己に取り込んだ血の中の何かが、若者に特別な感情を持っていたのだろう。

 一番初めに取り込んだ血が、この若者に対して含みがあるのだろうと、長年連れ添ってきた獣が言っていたが、それだけではないような気がしていた。

 今取り憑いている体が朽ちる前に、新しい体に移らなければ、すぐに己の何もかもが、消えてしまう。

 こちらが間に合わぬのならば、林家当主とその血縁には用はなく、それでもそのまま放置は不安すぎると、その獣は口封じに向かって行った。

 その間に、偶々手に入れたこの若者の中に、入るようにと言われていたと言うのに、今までそれを躊躇っていたのは、妙な感情のせいだった。

 己の血を多量に散り込んだ若者の体は、既に意志すらも奪っているから、抵抗なく取り憑くことができるはずだ。

 数日前に試しに、体の一部を切り取って、いつものように鉄の塊を作っても反応はなく、取り越し苦労かと一安心したのに、それ以上触ることができない。

 ひとり悩んでいるうちに、切羽詰まった状態になってしまい、ようやく実行に移すことにした。

 先程の女とこの若者は、相思相愛のようだ。

 それならば、この体でまた女を虜にして子をはらませ、立派な武器を一人で作り上げることができる。

 僅かな不安をそんな期待で押し付け、男は若者の方に手を伸ばした。

 その右手が、突然床に落ちる。

 驚く前に飛びのいた男は、激痛はないが突然落ちた手を追って、その傍に立つ者に気付いた。

「……これ以上、こいつに触るな。この、下種野郎」

 獣とは違う金の瞳が、男を睨んでいた。

 その目に覚えがあり、ついつい笑いながら言ってしまった。

「ああ、誰かと思えば、腹を割かれても息巻いていた、あのガキか。相変わらず、威勢だけはいいな」

「お前も相変わらず、神経逆なでするの、うまいな。だが成程。お前が、中々見つけられなかったのは、こういう事か」

「本当、驚きだ。こういう手を使ってたから、あれだけの目を掻い潜って、逃げていられたんだねえ」

 睨む若者にも笑いで答えていた男が、背後からの地を這うような女の声で、顔を引きつらせた。

 振り返った時には、女の手が一閃していた。

「絶対に、逃がさない」

「ひっ」

 既に衰えたこの体は、痛覚を正確に伝えてこない。

 だが、右手に加えて両足まで斬り落とされ、恐怖が声に漏れた。

 なすすべもなく床に倒れ込んだ男を、二人の男女が冷ややかに見下ろす。

「嫌だなあ。そんなポーズはやめてくれよ。二人でなぶり殺しているような絵に、なっちゃうじゃないか」

「まあ、実際そうだが。止めは、オレに任せてくれるよな?」

「聞きたいことがあるんだ。その後なら、お任せするよ」

 頭の上での会話を聞きながら、男は顔を上げた。

 ひきつった顔で女を見ながら、逃げ道を探す。

 昔、取り憑いた体で添った小柄な女が、剣を手にしたまま身を屈めて、男を見返した。

 散々、こちらの血を体に入り込ませ、自由を奪ったはずなのに、後遺症すらなく昔の笑顔を浮かべている。

「……何故……」

「そっちの質問は、受け付けないよ。私が訊きたいのは、二つだけ。あの人と、私の最初の子の事だ。あの後、どうした?」

 戸惑ってしまった男の声を遮り、カ・シュウレイは静かに凄んだ。

 何処にいるとは聞かない。

 今ここにいる男の体が、自分の旦那とは全く別人であると分かった女は、その死は確実だと確信している。

 いつから、この男に取り憑かれていたのかも、分かっている。

 出会う前から既に全くの別人であったその男に、シュウレイは惹かれてしまったのだ。

 だからこそ、憎い気持ちの裏側に、今でも妙な感情が疼く。

 歯を食いしばりながら睨む女を見上げながら、男は内心焦りながら答えを探す。

 どの答えが正解か。

 嘘をつくにしても、見え透き過ぎていて、信ぴょう性がない。

 正確に答えても、後に続くのは死しかない。

 だが……。

 男はゆっくりと身を起こし、微笑んだ。

 背後で警戒する若者の前で、女がたじろぐ。

 床に張り詰められた板に、己の血が流れだしているのを感じながら、男はゆっくりと答えた。

「お前と、この地に移った頃には、あの男の体は朽ちていた」

「……」

 予想していたとはいえ、その衝撃は少なくなく、息をつめた女に男はやんわりと続けた。

「あの刀は、記念すべき初代の龍神様の、依り代となった。代替わりの時に、宿敵を滅するのに使ったから、名誉ある死となっただろう」

 喘ぐように息を吐いたシュウレイの代わりに、後ろの若者が言った。

「名誉の死? そんなもの、生まれてもいなかった赤子に、何の価値がある?」

「価値にこだわるのも、人間だろうが。それで他人の死すらも受け入れるくせに、赤子は別だとでも?」

 冷ややかな返しを聞いて、思わず笑ってしまった男に、シュウレイがゆっくりと頷いた。

「……価値云々は、どうでもいい。私が知りたかったのは、まだこの世に残っているのなら、一目会ってから、お前を消してもらおうと思っただけだから」

 価値云々ではなく、生み出した者として、少しでも情を向けてやりたいと言う、ただの自己満足だ。

 相手の方は、今のこの男を見れば、どうなったか見当はついたが、本人の口からきいてみることで、気持ちの区切りとなった。

「既に生きてはいなくても、僅かでもその思いが残っている物に、情をかけるのは悪い事ではない。後のことに責任が持てるのならば」

 それでも、己に言い聞かせるようにゆっくりと言う女に近づいた若者は、のんびりと微笑んで見せ、男を見下ろした。

「お前も、無責任に放置されたから、作り出したものの気持ちも、分かっているんだろう? だから、お前の作品は、この世に残っていないんだ」

 唯一、絵画に隠されてしまい、白猫に守られていたあの刀以外は。

「……」

「まあ、それも全て、残らないことになるやもしれんが」

 のんびりとした仕草で、若者は手にしていた仕込み杖の刃を真っすぐ向けた。

 目の前にさらされた刃肌の色に、男は目を見張って呻く。

「……まだ、残っていたのか」

「お前を食らわせてやろうと、大切に養っていた」

 若者はのんびりと言った。

「ミズ兄を始め、出会う敵を片っ端から食い漁らせてきたから、お前の血より、邪悪になっているはずだ。勿論、お前のその血が、この子に競り勝つ可能性もあるが。その時は、オレが、その身が朽ち果てるまで、責任もって世話をしてやる」

 のんびりとした口調の若者の手の中のそれは、安心できる類の気配は一切ない。

 これに取り込まれたら最後、完全に書き換えられたうえで消されてしまう。

 そんな危機感が、ひしひしと伝わってきていた。

 シュウレイを見ると、既に立ち上がってその様を見届ける姿勢になっている。

 瞳と同じ金色がかった刃を、男の背に向けた若者は、一切躊躇わずにそれを突き立てた。

 手ごたえが、一切ない。

 瞬時に悟った若者は、それに気づいた。

「あっっ」

 シュウレイも目を見開き、動きを止めるためにそれを剣で切り払おうとしたが、粉塵のような様になったそれは、うまく攻撃を避けてしまった。

 二人の攻撃を避けながら太いひも状に形どってうねり、男であったそれは目指す場所へとすっ飛んでいく。

 そこには、未だ動かずにいる、布団のふくらみがあった。

「ちっ」

 舌打ちした若者が飛びかかる前に、その布団の前に立ちふさがった者がいた。

 その後ろに、大柄な男が現れ、布団ごとその中にいる人物を抱え込む。

 薄目を開けた黒い瞳めがけて飛びかかっていたが、立ちふさがった人物を見てそちらに意識が向いた。

 こちらでも、充分な力になると本能で判断した彼は、その感覚の端で、奇妙な危機感が爆発したのに気づく。

 気づいた時には、白い手が立ちふさがる人物の前に伸び、捕まっていた。

 そんな馬鹿な、と思った瞬間、虚ろだったはずの黒い瞳が目の前にあるのに気づき、総毛だつ。

 そして抗う間もなく、そのまま床に叩きつけられてしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る