第6話

 三手に分かれた後、山の木々に紛れて移動していた雅は、周囲を気にしながら人の匂いを辿って、集落の方に下りて来ていた。

 激しい後悔が、頭を渦巻いている。

 堤恵が言ったことが本当なのか、考えるまでもない。

 本当の事だ。

 セイは恵の前で、素の状態で捕まった。

 今回の敵の正体を知った時から、一抹の不安はあった。

 だが、本人が平然としていたから、完全に流してしまっていたのだ。

 その話の後も、自分たちはセイと会っていたから、捕まったのは一時的なものであり、それを好都合と恵との接触を断っていたのだろう。

 だが、林家の動きが怪しくなった今は、どうだろうか。

 捕まえた当人が、傍を離れない状態だったら、あの子は全く動けていない可能性がある。

 一億歩ほど譲って……それも足りないほどだが、譲ってやるとして、体の外側を良いようにされるのは、我慢しよう。

 その位ならば、セイが気にするはずもなく、こちらも嫌な気持ちはあるが後から晴らせばいいと、そう思える。

 だが、もし、内側まで傷つけられたら……。

 血で生き物を支配し、恐らくはそのまま取り憑き、意のままに動ける相手が、あの子本人の体を文字通り欲してしまったら……。

 意識がない状態で、内側に入り込む者に、セイが抗えるのかも心配だった。

 もしかしたらそれも、セイ自身の思惑の内と言う可能性は大いにあるが、その可能性に賭けるには心もとない情報量だった。

「……オキらしくない」

 そこが一番の違和感だった。

 オキもキィも、自らの意思でセイを主と決め、従っている。

 キィが一時期若者の元を離れていたのは、大事の時には呼ぶと言う約束を取り付けていたからだ。

 代わりに比較的近い場所で、それとなく守り続けていたオキは、どちらかと言うと放任しつつも自分たち側近の気持ちを十分理解してくれていると、そう思っていた。

 だからこそ、不思議だった。

 何故、セイが一度捕まってしまったことを話したうえで、保証をくれなかったのか。

 危機的な状況でも、それが何らかの計画の内ならば、それに巻き込まれる方にも心構えがいると言うのに。

 おかげで、とても不味い事になっていた。

 何が不味いかと言うと、セイの一番身近な側近であるエンが完全に取り乱し、計画に支障をきたす可能性が、高くなっていることだ。

 どんな計画なのかは知らないが、もしこれも計画の内なのなら、この件が終わってから色々と考えねばならない。

「……国中のホラーハウスに、連れて行くか」

 人が演じる化け物や幽霊がいる場所ではなく、古びた人形や模型が動く類の場所が、今の日本の遊園地にどのくらい存在するのか、情報通を交えて調べてみよう。

 それであの、極度の人形恐怖症が、克服できるかは疑問だが。

 そんなことを考えつつ立ち止った雅は、静かに周囲を伺った。

「……」

 おかしな話だった。

 何故、妖しの者や獣たちから恨みを一身に受けている林家の周囲を、純潔の獣が守っているのか。

 壁はまだ破られていないこの場所で、立ち止った女を取り囲んだのは、数人の男だった。

 大きさも色も、体格の良しあしもそれぞれ違うが同じ種類のその獣は、雅もよく知る生き物だ。

 だが、明らかに違った。

 敵対する者たちが見たら、その登場に驚きかねない事態だが、女は小さく笑ってしまった。

「……成程、オキが言った意味、なんとなく分かった。これは、劣化だ。こんなのと同じと思われるのは嫌だな、確かに」

 呟きなど、拾う気もないらしい男たちは、見知った猫の獣だった。

 オキやキィが主を得、一人目の主の死後、その体を取り込んでその姿をもらったのと違い、そこに集った者たちは、取り込んだ人数が辿り切れないほどにいるようだった。

 どう取り込んだのかは、察したくもないが分かる。

 ロンの話で訊いた方法……主以外の人間を、死後もしくは生きたまま食らい、その身を奪って来たのだろう。

 了承を得た契約関係が、最適な継承を成り立たせるため、掟破りな方法で姿を得た者は、どの一族の間でも離反者とみなされるのだと聞いたが、確かにこれは、最適な継承がなされていない。

 幾人もの人間を取り込んだ彼らは、人とも猫とも言い難い、どす黒い気配を放っていた。

 その姿も、取り込んだ者の部位をいいとこどりしようとして失敗したようで、個々の部位はよくても、はたから見るとちぐはぐな印象を見せていた。

 日本に限らず、禁忌を犯して人を食らい、お尋ね者になっている者は、少なくないと聞いたが、雅は初めて見た。

 しかも、こんなに大勢に遭遇するとは、思わなかった。

 他の二人も、遭遇しているのかとちらりと思ったが、なんとなく、ここまで多くはないのではと、察してしまった。

 理由は、この辺りの所有者の、今の事情だ。

 何をどうするつもりでなのかは知らないが、今現在、混血の女を血眼になって探しているという話だった。

「……囮、かあ」

 ようやく、オキの思惑に行きついた。

 同時に、力が抜けてしまいそうになる。

 来る前に告げず、何も知らない恵に、セイの事を訴えさせたのも、この為だ。

 他の二人は、おまけと言うより、一緒に入らせるつもりは、なかったのだろう。

 特にエンは、恵の元まで行かせるべきではなかった。

 紛い物と呼ばれている男と、この獣達を引きはがすだけならば、余計な動揺は時間の無駄だからだ。

「……戦力として使えるまで、余裕が戻っていてくれればいいけど」

 少しだけ師匠である男の事を気にしながら、雅は腕をひらめかせた。

 気配を立って近づいた獣の一人が、女の手の甲に張り飛ばされ、吹っ飛ばされる。

 それを見た男たちがぎょっとしたのは、少しの間だった。

 すぐに顔を歪ませ、今度は一斉に掴みかかってくる。

 武器を持たぬところを見ると、捕まえていいように弄ぶ気なのだろう。

「ああ、嫌だ嫌だ。同族で、乳繰り合うだけで満足していた方が、長生きできただろうに」

 優しく笑った女は、最初に届いた手首をつかみ、軽くひねり上げながら同じように掴みかかる群れに、その体を投げつけた。

 怯んだ隙に、近い者から順に手刀をたたきつけ、死に至らしめる。

 数は多いが、無限に湧いて出るほどではないと、雅は順調にその作業に勤しんでいたのだが、半分ほどを片付けた時、違和感に気付いた。

 しがみつく男を払い、本能的にその場を離れようとして気づく。

 全く正体のつかめない者が、女と獣たちの戦いを見つめていた。

 未だしぶとく生き残る獣たちを牽制しながら、その男を伺う。

 こいつかと、舌打ちしそうになった。

 赤黒い髪と瞳の、恐ろしく美しい長身の男だ。

 恐らく、これが作り主の姿だったのだろう。

 だが雅の目には、美しい男の皮をかぶった何か、にしか見えなかった。

 皮の内側は、全く別人だ。

 何となくその正体に思い当たり、嫌な気持ちになった。

 これでは、探索が得手の連中が目くじら立てて探しても、見つけられはしなかっただろう。

 気配も匂いも、取り憑いた人間のものに、代わっているのだから。

 目を細めて見据える雅を見、赤毛の男は薄く笑いながら首を傾げた。

「壁が弾かなかったのか? いや、時折いる、偵察まがいの人材か。そうならば、少し無謀だな。獣の群れに、餌を放り込むようなものだ。たったの三人、しかも一人は、こんな極上の女とは」

 這うような目つきに耐えながら、雅はいつもの優しい笑みを張り付け、少しずつ後退しながら答える。

「私如きを極上とは、そんなに女性に免疫がないのですか? そうではないでしょうに」

「極上だとも。狐の混血など、一度も捕まえられなんだ。賢い者が多すぎてな」

「……それは、申し訳ない。私は、愚かな女です。極上とは言い難い」

 あからさまに煽られているのが分かるが、女には響かない。

 自分でも、愚かなのは分かっている。

 だが、愚かにならなければならない、大事な理由がある。

 煽られて怒るのも不味いが、焦るのも不味い。

 自分が今相対しているこの男は、未知の方法で血を操る。

 隙を見つけていったん引くにしても、何とか倒して先に行くにしても、冷静に対応しなくては、あちらの思うつぼだ。

 緊張している女を前に、男は笑いを消さぬまま首を振った。

「この国も、変わったものだな。入り込んだものが全員、我々の美の基準を、大幅に満たしている。お前も、その一人なのだから、そう卑下することはない。本当に、最近はいい獲物が多い。しかも、お前のおかげで、久しぶりに自分自身で、一からもの作りできる」

 新鮮な血に混じって、籠った血の匂いが周囲を囲む。

 何故だろうか、その感覚初めてではない。

 昔、この感覚を体験したことがある。

 ちりちりと服から出ている肌に、まとわりついてくるのが分かったが、奇妙な感覚の方が戸惑いを呼んでいる。

 それを押し隠しながら、雅は静かに微笑んで男を見返していた。

 少しずつ、後退しながら。

「重ねて申し訳ない。私は既に、己の中で決めた者がいます。その者以外と交わっても、子は作れない。狐がそういう生き物だと言うのも、ご存じでしょう?」

「そう言うところだけ、一丁前に、純潔と同じなのか。堅苦しい規約など、守ることはない。楽になったらどうだ?」

 やんわりと言われ、雅はつい笑ってしまった。

「良心的な方のような言い分ですね。もしや、そんな口先だけの言葉で、この連中にも禁忌を犯すように仄めかしたのか? 今や、そんな迷い事を真に受ける者は、この国にはいないと思いますよ。それだけ、ここの所有者の所業は、知れ渡っている」

「だろうな。衰えて随分経つ。そろそろ、潮時だろうと、思ってはいる」

 やんわりと答えた男は、空を仰いで続けた。

「今は、ここの主が死に絶えるのを、待っているところだ。この身も随分衰えたのでな、引くにしても、代わりがないのは心もとない。初めから探すのも、勿体ない。まあ、予備は見つけたから、問題ないが」

 言い切ってから話は終わりと顔を女へと向け、足を踏み出した。

 衰えたと言うのは本当らしく、男は黒い杖らしきものを地面についていた。

 その動きを見て、身構えながら後ずさっていた雅は、不意に立ち止まった。

 今、杖に気付いた女は、それを凝視する。

 それは、杖ではなかった。

 黒光りする鉄でできた、細身の刃物だ。

「……」

 目を見張った女に気付いた男は、手元に目を落とした。

「これのことを、知っているのか? もしや、これがその、思い人ではなかろうな。それならば、全く問題が無くなるのだが」

「……貴様、あの子に、何をしたっっ」

 全てが、吹き飛んだ。

 飛びかかる前に体に何かが絡みつき、息すら危ういほどに身動きを封じられても、目だけはそれに張り付いていた。

 そんなはずはない。

 絶対に違う。

 そう思っているのに、そう思い込もうとしているのに、絶望が頭を占め始めていた。

 ゆっくり近づいてきた男は、己の手から目を離さない女に近づき、鼻先同士がつく間際で微笑んで見せた。

「そんなに、取り乱さずともいい。飼われるだけと言うのも、案外楽しいものらしいぞ」

「……っ」

 叫びたいのに、声が出ない。

 声の代わりに、手を伸ばしてそれを掴もうとした手首を、色白の手が優しくつかんだ。

 その手に、細身の黒い刃肌の刀を、そっと握らせる。

「他の侵入者も、お前の仲間だろう? 私の元に来る前に、片づけてこい」

「い……っ」

「そうすれば、お前の願いは叶えてやるから。いい子だから、言うとおりにしておいで」

 冷たい手が離れ、硬直したままの雅は握らされたそれを、強くつかんだ。

 冷たい刃肌は、完全に我を失った頭を冷静にするのには、全く役立たなかった。

 ふらりと踵を返し、己の意に反する方向に歩き出した女の背を見ながら、男は言う。

「片付けが終わったら、連れて戻ってこい」

 生き残った獣たちは、無言で頷いて別な許可を待つ。

 それに気づき、小さく笑った。

「そうだな、ここも、きちんと片付けておいてくれ。あの女が片づけた奴らも、好きにしろ」

 小さな猛獣の声が、歓声となって響き、我先にと動き出す。

 半分は、この場で死んだ同胞たちを自分の力として取り込むため、半分は、女が手にかけるはずの男たちを、己の力とするために。

 男は楽しんで見守ろうと思っていたのだが、先程までいた場所に戻らなければならない事態になった。

「……何故、こんなに早く、破れた?」

 つい、今しがただ。

 不意に、外の空気が一気に流れ込んだ。

 それを意味することは、一つだ。

 林家当主が代々張り続けていた結界が、一気に破られてしまったのだ。

 悠長に、現当主の死を待ってはいられない。

 逃げなければならない。

 だが。

 逃げるにしても、今の姿を知る者は多い。

 かと言って病院に行き、当主に取り憑くような暇はない。

 踵を返し、その場を後にする。

 いい時期に、いい個体が手に入った。

 本当は、次の機会まで愛で続けるつもりだったのだが、仕方あるまいと思いつつも、笑みがこぼれてしまう。

 ようやく、作り主に近づける、そんな気がしていた。


 エンがそれに気づいたのは、襲い掛かる獣を全て倒したころだった。

「……結界が、破れた、か」

 混乱は収まり、今は冷静に周囲を観察できる。

 多重の薄い壁が、全て一気に剝がされたのに、風が吹き抜けたように感じただけで、派手な気配はなかった。

 つまり、それを実行したのは……。

 大きくため息を吐き、今来た方向へと踵を返す。

 ついつい混乱して、セイの頼みを後回しにするところだった。

 人形に取り憑いて動くと言っても、相手が取り憑いているものが、死者であるとは限らない。

 つまり、堤恵の前で捕まったのは、わざとだったのだろう。

「……ったく、情けないな」

 自嘲気味に笑いながらも、疑問に思う。

 余計な心配で、こんな無駄な動きをさせるより、事情を話して速やかに恵を助け出す方が、どう考えても効率がいいはずなのに、何もかも承知のはずのあの猫たちは、黙って自分たちを送り出した。

 今は土に返った獣たちの相手をさせるためにしては、説明がなさすぎる。

 大事なことを取りこぼしているのかと、聞いた話を思い浮かべつつ歩いていたエンは、あることを思い出して、立ち止った。

「……」

 そういえば、ここの所有者の林家は、おかしな儀式を代々執り行っている家だ。

 そして、恵が軟禁されていた場所も、その儀式が行われる場所の近くだった。

 最近、その儀式の準備を始めた気配があり、その要となると思われる混血の娘が、狙われていると言う話があった。

 火に誘われて、真っすぐ突っ走る弟子の姿を思い浮かべてしまい、エンは駆け出していた。

混乱して思考が定まらなかった、先程までの自分を殴りつけたくなった。

 この場所に近づいて危ないのは、セイよりも寧ろ、雅の方だ。

 先程葬った奴らと同じ獣だけならばいいが、問題の紛い物は危険だ。

 小柄ながらも強い、エンの腹違いの姉が、なすすべもなく捕まるような相手だった。

 確か、自分とは反対方向に向かい、そちらから集落の方に行って見ると、そんなことを言っていたような気がするが、はっきりと思い出せない。

 どうか間に合ってくれと、珍しく焦って天に祈る男の前に、当の女が降って来た。

 危うくその足に踏みつけられそうになり、エンは後ろに飛びのく。

 木を伝ってここまでやって来たらしい女は、ぎこちない動きで身を起こしてこちらを見やった。

 内心ほっとし、呼びかけようとしたエンは、硬い表情とうつろな目でこちらに目を向ける女を見返し、息をのんだ。

 遅かった。

 そう察して身構える男の前で、雅はぎこちなく手にしていた武器を構える。

 その表情の中に、固い以外の感情が混じる。

 それに気づいたエンはふっと微笑み、構えを解いた。

「ミヤ。抗いすぎて内面が壊れでもしたら大変です。オレは、大丈夫ですから、かかってきて下さい。きっと、助けます」

 雅の顔が、苦痛にゆがんだ。 

 痛みを外に出す方ではない女が、ここまで苦痛を感じているのかと歯をかみしめ、それを感じさせないように、再び笑いかける。

 さらに言葉を紡ごうとする男に、雅は音もなく飛びかかった。

 細身の刀を振りかざして男の胴を払うが、使い慣れない獲物のせいか、その動作は大きくぶれたうえエン自身も避けたため、空振りに終わる。

 その後、立て続けに斬りつける女の攻撃を避けながら、何とか捕まえようと動いたが、元々素早い女は、中々捕まらない。

「……」

 躊躇ったのは、一瞬だった。

 これこそ痛そうだと、内心溜息を吐きながら、エンは雅が再度斬りかかるのを見た。

 遠目で見ただけで全く研磨していないその刃を、真っ向から受ける。

「っ」

 無言で目を剝いた女を、そのまま両腕に抱え込んだ。

 目を剝いて首を振りながらも、刀を握り締めた手は緩まず、そのまま肉を切り裂こうとしている。

 鈍い痛みが続く中、エンは左手を使わぬように、雅の手からその刀を奪おうと試みる。

 余りにしっかりと握っているから、それが呪いの元だと思ったのだが、何故か不意に違う、と思った。

 抗ってはいるが、雅は自分から離れようとはしていない。

 男の体から離そうとしているのは、今当の雅が押し当てた砥がれていない刀の方だ。

 刺そうとする力に抗おうとして、それが出来ずに内側で戦っている。

 そう察した時、刀がエンの鳩尾の皮を破った。

「いっっ」

 思わず声を上げ、初めてそれを見下ろす。

 深々と沈んでいく黒い刃肌を見て、押し返す手が固まり、動きを止めてしまった。

 痛みを忘れてしまうほどの衝撃が、全身に走る。

 立ち尽くすエンの腕の中で、刀が雅の手の中から砂のように零れ落ちていった。

「め……だ、消……っっ」

 女の声が、聞いたことのないような悲痛な響きで、口から洩れた。

 地面に落ちるそれを追って座り込んだ女の前で、エンは立ち尽くしたまま腹に空いた穴に触れた。

 ぬるりとした感触は、いつも通りだ。

 ぼんやりとそう思いつつも、その手のひらを確かめる。

 自分の赤みを帯びた血液と混じって、黒い粉が混じっていた。

「……捕まったふり、じゃなかったのか?」

 呟く声に、答える声はない。

 唐突な展開に、頭がついて行かないまま、それでも一つの答えには行きついていた。

「……嘘、だよな。こんな別れは、考えてなかったぞ」

 乾ききった笑い声を立て、前に座り込んだ雅を見下ろした。

 目的を失い、己を縛るものに抗えなくなった女は、息すらしているか分からないほどに、動かない。

 それを見ても、気遣う余裕は、もうなかった。

 突然訪れた衝撃は、全ての感覚を奪っていた。

 涙すらも、浮かばない。

 顔を上げて縋る何かを探し、全く救いにならない何かを見つける。

 先程から遠くでこちらを監視していた、獣の群れだ。

 それを見るともなしに見て、エンは静かに片膝をつき、蹲るようにして動かない雅を、そっと起こした。

 触れた顔を濡らす涙にも、何の感情も浮かばない。

 だが、僅かに罪悪感は残っていた。

「……雅さん」

 久しぶりに本名で呼びかけられた雅は、びくりと肩を跳ね上げた。

 すがるようにこちらに焦点を合わせてくれた女に、エンはできるだけ優しく微笑みかける。

「すみません。約束、又破ります。でも、これが最期です。あなたはもう、無関係でいい」

 ずっとそばにいて、雅が幸せになるまで守る。

 今度こそは、そのつもりだった。

 だがもう、それはできそうにない。

 ここから女を逃がすために、できるだけ多くの敵を排除するくらいしか出来ないほど、なくなった刀による傷も深かった。

 もし、運良く生き残るとしても、もう雅の傍には戻らない。

 昔からどっぷりとつかっていた沼に、今度こそ沈み込んでしまうだろう。

 昔から秘めていた思いが沸き上がり、エンは目の前の女を腕の中で抱きしめていた。

「いや……」

「すみません」

「嫌だ……もう、置いて行かないで」

 久しぶりに感じる、大好きな鼓動が、失いかけていた雅の中の力を、奮い立たせた。

 身を引こうとする男の体に、全身で縋りつく。

「もう、沢山だ……大事な人が、死ぬのが分かっているのに、引き留められないのはっ。お父さんも君も、置いて行かれる側の気持ちなんて、ちっとも分っていないっ。人に聞いてその死を知るのが、どんなにつらい事かっ」

「分かっていますよ。オレも、そんな経験は幾度かあります」

「ならっ、何で、置いて行こうとするんだよっっ。死ぬのなら、一緒に連れて行けっっ」

 満足に動かない体に苛立ちながらも、雅はがむゃらに叫んだ。

 が、それに対する男の方は、始終静かだった。

「出来ません」

「何故っ?」

「死ぬとは、限らないからです」

「それならっ……」

「死なず、今度こそ、誰にも顔向けできない所業に、走るかもしれない」

 それを止められる者は、もういない。

 言下にそう言われ、ようやくはっきりしてきた頭の中で、雅はすべてを察した。

 セイは、極悪とも言える群れを、長い年月をかけて解体し、個々を更生させてきた。

 その試みが今、全て脆くも崩れ去った、そう感じる事態が、目の前にあった。

 セイは、一番更生させたかったはずの大事な兄貴分が、己の死をきっかけに暴走する事を、考えていなかったのだろうか。

 雅はふと考えたが、すぐに否定する。

 そこまで心配したからこそ、誰かと添わせたかったのだ。

 その相手として、自分を選んでくれた若者の気持ちを思い、すぐに覚悟を決める。

「……連れていけないのなら、私も、行かせる気はない」

「? 雅さん?」

 他人行儀な呼びかけに、怯みそうになる。

 だが、雅は気持ちを強く持って、見下ろしてくる目を見返しながら、言い切った。

「どうしても、その道を進むのなら、私を殺していけ」

 言いながら、利き手に意識を集中する。

 男の冷静な顔が、僅かに狼狽えの色を浮かべ、すぐに消える。

「本気ですか?」

「勿論だ。君の感覚では、私は邪魔なんだろう? 私も、そうするつもりだ。ここで見失っても、必ず見つけ出して、目を覚まさせてやる」

 それが嫌ならば。

 目を見開くエンを見据え、女は優しく笑った。

「邪魔者は、今の内に消していく方が、よくないか?」

 うまく笑えているだろうか。

 決死の覚悟を押し隠した、いつもの笑い方が、出来ているだろうか

 そんな不安を押し隠しながらも、その後の沈黙が怖くなって、そのまま男の胸に顔をうずめた。

 己を失いかけている割に、穏やかな心音を聞きながら、その音を確かめる様に握りしめた利き手をそこに添える。

 どちらが先になるだろうか。

 エンの感覚のない利き手が、自分の命を刈り取るのと、この拳で胸を割き、心臓を握り込むのは。

 出来れば、同時がいいと、雅は望む。

 本当に、一思いで刈り取ってくれる気なのなら出来る気がしないが、こちらも無意識で動ければいいと思う。

 こういう時ぐらいは、未知の力を信じてみたい。

 そっと触れてくる、大きな手のひらの温かさに目を細めて顔を上げると、男の顔が見下ろしていた。

 いつもと違い、何も映していない、無感情に近い目。

 最期位は、幸せな気持ちで逝きたいと、ついつい左手を伸ばし、男の頬に触れる。

 互いの息がかかる距離まで近づき、どちらともなく顔を近づけながら、雅は少しだけ周囲に申し訳ない気持ちになった。

 未だ数が生き残っている猫の獣たちは、自分たちの遺体を食らって更に、膨張してしまうだろう。

 その尻拭いをするのは、術師たちかオキたちか、それとも……。

 誰が動くのかは知らないが、本当に、それだけは申し訳なく思った。

 知らず目を閉じた雅の首に、なでる様にこわごわと左手が触れ、二人の距離がくっつくその寸前、唐突に男が離れた。

 目を閉じて、自分が行う作業に集中していた雅が、その勢いに驚いて目を開くほど、唐突の離れ方だった。

 倒れ込んだエンを転がしてうつ伏せにし、左手をねじっている者がいる。

 目が晴れて、その人物の正体に気付いた雅は、ただ驚愕した。

「……この世にはやはり、神も仏もいないな」

 見上げた目の先で、男にしては小柄な成人したての男が、エンの腕をひねり上げながら空を仰いで嘆いていた。

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