第4話
昼下がり、ここを訪れた三人は、少し前にここから内側に入った。
一人だけ入れ、残りの二人は、ここで待機してもらおうと思っていたのに、それは難しいと揃って首を振られ、仕方なく三人とも救助に向かわせたところだ。
くじで決めればいいものを、よりによってじゃんけんで決めようとしたらしい。
オキは連れ合いの森口律の問いに素直に答えてから、眉を寄せた。
ここの事を話してはいたが、まさか律まで来るとは思っていなかったのだ。
その上、連れがいる。
オキの傍で中の様子を伺っていた優も、やれやれと首を振った。
「どうして、ミズ兄さまも一緒なの?」
「有休消化のため、だ」
けろりと答える水月は、悪びれない。
労働に関する法律は、厳しくなるばかりだが、その分裏道もある。
ひと月に休まなければならない日数さえ把握しておけば、月末まで公休以外働き詰めで、その分連休を取れたりする職場が、律の会社だ。
「週に一回は休むように決められてるが、その月の内にとる残りの休日は、いつ取るのかまでは決められていないから、月末に公休と合わせた連休にして、向こうの土地に遊びに来ていた。で、今回はその残った公休と、使っていなかった有給で、超長期の休みが取れたわけだ」
森口親子が勤める警備会社は、年中無休だ。
そんな中で、頻繁にこの二人と会えることが疑問だったオキは、なるほどと納得した。
その点は納得したが、ここを訪ねてこられたのは、納得できない。
「……この時期の邪魔は、遠慮願いたいんだが。本当に、佳境に入っているんだ」
「ああ、そうらしいな」
内側から、林家が代々張っていた結界を、徐々に壊していた男を救うために、三人の男女を投入したことからも、それは分かる。
そう頷いた水月から目をそらしつつも、オキは曖昧に頷いて言った。
「林家の当主が、持ち直した。だがそれは所謂、中治り、だろう。そろそろ完全に身を持ち崩す。もってひと月と言うのが、オレとキィの見解だ」
それを察したのか、林家の動きは焦りを見せていた。
「目くじら立てて、混血を探し回っている。人間に育てられている混血も、最近では警戒されているからな、なかなか見つからないらしく、獣に育てられて一緒にいる混血にも目をつけて、隙を伺っている状態だ」
「……」
目を細めた水月を、オキは頑なに見ない。
どちらの肩を持つこともせず律が見守る中、やんわりと優しい笑みを浮かべた水月が切り出す。
「凌の旦那も、動き出したぞ」
「……」
「今頃は、簡単に破れて、余り周囲に反動がなさそうな場所を探して、周辺の山を歩き回っているところだ」
伺うように横目で見る男を見返しながら、水月はやんわりと言った。
「ここの場所は、教えていない。本当ならば、あの旦那が力任せに動く必要がなかったのを知っていたが、黙っていた。それは、理解できるよな?」
「それは、あんた自身が、自分の望みを叶えるためだろう?」
「だが、それは、あの子の望みとも、同じなはずだ。お前も、あの旦那に、邪魔はさせたくないだろう」
苦い顔になった男を見つめ、ゆっくりと問う。
「三人は、どのくらい前にその壁の中に行った? 後ろめたくないのなら、それくらいは答えられるだろう?」
「まだ、十四五分前だ。恵がいる場所は、ここより徒歩で十分ほどの、小さな小屋だからな。何を不安がっているのかは知らないが、その不穏な気配は、抑えてくれ」
苦い顔のまま控えめに窘めるオキに、それより小柄な男はまっすぐに告げた。
「矢張り、遅いだろう。今お前が言った三人ならば、軽く走ればその十四五分で恵と言う男を連れ出して、戻ってきているはずだ。何か、問題があったと考えるべきだ」
「……」
水月の指摘に、オキは思わず苦いため息を吐いた。
「年末に、律が仕事を手伝ってくれた時に、警戒はしていたんだが……矢張り、足りなかったか」
連れ合いの律に察せられるのは、仕方がないと思っていた。
最悪、その戸籍上の息子にも、漏れてしまう事も。
仕方がないから優には事情を話し、二人の足止め要員になって貰おうと残らせたのだが、それも無駄だったかと言う思いが、溜息として吐き出されてしまった。
「あの三人を選んだのは、一番適任だからと言う理由だけで、完全に信用しているわけではない。意外に、こういう時の人材は、少ないんだ」
この件を終わらせるにあたり、セイとオキたちは何度も話し合い、意見を上げてきたが、確実な適任者はいなかった。
「突発の事態の中で冷静である保証が、あの三人にはない。だが、冷静だと断言できる者は、役柄には見合わない奴ばかりだ」
そのどちらも持ち合わせている者は、信頼性がない。
信頼と冷静さを持ち合わせている者は、どう頑張ってもその役に見合わない。
ならば、役の方を取るとセイが決め、致し方ないと二人の猫は頷いたのだった。
「すぐに戻ってこないという事は、恵に余計な心配を植え付けられたんだろう。そこまでは、予想範囲内だ」
問題は、その後だ。
恐らくは別行動を始めるだろう三人の内、誰に獲物が食いつくか、そして、その後どうなるのかが、三人の心情によって大きく変わる。
「……」
娘のように微笑みながら、それ以上の迫力を滲ませる男に、オキは恐怖を抑えて真剣に頼む。
「雅に危険が及ぶ可能性は確実だが、命の心配はないように計らうと、約束する。だからあんたは、ここで大人しく待っていてくれ」
「無理だな」
即答だった。
「命の危険だけ保証されても、何の安心も、できん。他の危険は、保証してはいないだろう?」
「まあ、何らかの不具合は、覚悟してほしいとは思っているが」
「その何らかの不具合が、どういう不具合なのかを、きっちりと話してほしいんだが」
「それは、無理だ」
頑ななオキに、水月は思わず舌打ちした。
この程度で苛立つ自分にも呆れるが、本当の主を持った猫と言うのは、意外に強気になるようだと呆れてしまう。
「……物騒な考えは、そこでやめてほしい。その不具合が、こちらとしては好都合なんだ。例の紛い物から、引き離したい奴らがいる。そのために、必要なんだ」
珍しく苛立っている小柄な男に、オキは内心慄きながらも、ゆっくりと諭すように言い切った。
気持ちは分かる優が、躊躇いながらもそれに加勢する。
「ミズ兄さま。私もその辺りの話は聞いていないの。でも、きっと、深く考えたうえでの話だと思うから、少し辛抱して」
「その深く考えた話が、とんでもないと分かるからこうして苛立っているんだが。あの子が、何を目論んでいるのかも、想像がついている」
いらだちを押し隠した声は、やけに静かに言った。
顔を引きつらせるオキを見上げ、水月はゆっくりと、優しく言い切った。
「あの三人は、その紛い物が一人であの子に接触するようにするための、いわば囮要員だな? 不具合は不具合でも、オレには、容認できない不具合なんだが」
「……最悪な事態は、絶対に阻止すると、約束する。第一、まだ、その囮となる事態に陥るとも、決まっていない」
立ち位置は変わっていないのに、小柄な男から一歩後ずさってしまいながらも、オキは反論する。
恐怖で身を固まらせても、壁の入り口から動こうとしない。
時が来るまでは、オキはこれ以上の侵入者を、死んでも許さないつもりでいるようだ。
「……」
それを察した水月は、肩を大きく落として見せ、大げさに溜息を吐いた。
「分かった」
頷いた男は、黙って成り行きを見守っていた、ただ一人の弟子を一瞥し、言った。
「死ぬなよ。律が悲しむ」
言った時には、ズボンのベルト通しに挟んでいた警棒を手に、目の前の男を攻撃していた。
「……っ」
冷や汗を浮かべるオキの顔が、間近にあるのを見て、僅かに目を見張る。
元の主から譲り受けた刀の鞘が、警棒での強い攻撃をかろうじて防いだようだ。
「ふうん、意外に、精進しているんだな」
この一撃で撃沈させるつもりでいたのに当てが外れ、何とも複雑な気持ちになる。
律の連れ合い、という肩書なのだから当然と言う思いと、こいつらより上の立場でいたいという思いがごちゃまぜのまま、水月は次の攻撃を繰り出そうとしたが、その前に別な衝撃があった。
地面は揺れていないが、地響きに似た振動が空気を揺らす。
ひやりとして振り返ったオキは、その間に引いた水月を警戒しつつ、様子を辿ってから息をつく。
予定よりも早く、壁が壊れたかと思ったが、違うようだ。
遅ればせながら、律がやんわりと水月をなだめているのを気にしつつ、そっと壁の向こうを伺ったオキの首を、色黒の手がつかんだ。
それが誰の手か察すると同時に、中に引きづり込まれてしまう。
「っ、おいっ。今は、あんたの文句に付き合う余裕は、ないぞっっ」
「ふざけないでっ。これは、どういう事よっっ」
首をそのまま絞めかねない大男を振りほどき、オキは文句を言ったが、相手は完全に取り乱していた。
「まさか、そういうつもりで、あの子は、あたしたちを呼んだわけっっ? 冗談じゃないわ、了承できるもんですかっっ」
「お、落ち着けっっ」
オキの胸ぐらをつかんで、ぶんぶんと音が出そうな勢いで振りながらロンが叫ぶのを、キィが何とか引きはがす。
「仕方ないだろうっ。これが一番障りないと、考えが一致したんだ。これ以上の解決法があるか?」
「それを、あの子が実行するのが、一番問題だって言ってるのよっ。あなたたち、どういうことになるのか、分かってるんでしょうっ?」
「じゃあ、他の誰が、同じことができるっていうんだ? あんたじゃ無理だろうがっ」
オキが、珍しく怒鳴るように反論した。
叫びと言うより、悲鳴に近い。
話を進めるにつれ、襲うように次々と浮かぶ不安を、ようやく事の次第を知った男に指摘されるまでもない。
「あんたは、五体満足でないと、セイだと認めないのか? そうじゃないだろう? なら、多少の問題は目をつむれ。心配しなくとも、絶対に成功する。いや、成功させる」
「そういう話じゃないでしょう。これはっ……」
真剣に睨み合う二人の間に、小柄な男が割り込んだ。
「旦那、何があったのか、話してみろ」
携帯機器を片手に言った水月は、既に壁を越えて来ていた。
「あんたっ、いつの間に……」
「いや、今の間は、相当いい隙だったぞ」
ぎょっとするオキに冷静に返し、先程までいた壁の外の方に笑いかける。
「流石に、早いな」
「破りやすい場所を探している最中だったんでな、すぐに動けたんだ」
水月の呼びかけに答えた声に、ロンもぎょっとして目を見開いた。
「お、叔父上っ?」
驚く面々に構わず壁をあっさりと越える大男の後ろから、それより小柄だが長身に育った若者が、無言のまま続く。
外側に残って立つ女二人は、無言の若者の様子に気付き、小さく唸ってしまった。
「破る場所を探して、入ってもらう暇は、なさそうだ」
「水月……遊ぶ気だったのか?」
「そうじゃない」
あきれ顔の凌に、水月はやんわりと首を振った。
「オキの言い分も分かる。だから本当に最悪な事態までは動かぬつもりで、だが、少しでも早く動ける場所に行こうと思ってはいたが、旦那の方の目的は、そこまで緊急でもないと思っていたんだ」
だが、血相を変えてそのまま踵を返そうとする褐色の男の様子で、事態は大きく変わったと、判断した。
だからこそ、ロンの行く手を塞いだ水月に、言わなくても察する凌は頷きながらも、後ろの若者を牽制する。
「蓮。詳しい話を聞いてからだ。飛び出すな」
「……」
背中越しでも隙を見せない男に行く手を阻まれ、若者は無言で歯を食いしばる。
その気配を感じながら、凌は静かに甥っ子に問いかけた。
「何があった?」
完全に取り乱していたロンは、大きく喘いでから深呼吸した。
そしてゆっくりと説明を始めたが、その声は僅かに震えていた。
十数分前、揃って壁の内側に入り込み、キィに見送られて移動した三人は、全力で目的地に辿り着いた。
代々儀式に使われる祭壇のある場所から、それほど遠くない位置にある小さな和風の建物に、目的の男がいると聞いていたので、すぐにそれと分かった。
油断なく周囲を伺いながら建物の中にはいると、その気配を察したのか、板間に正座して背を向けていた男が振り返った。
「恵君?」
目を見開いて、ぽかんと口も開いた堤恵に、雅が慎重に優しく呼びかける。
「私が、分かる?」
「は、はい。ど、どうして、ここに?」
心底驚いている男は、猫たちに何も聞かされてはいないようだった。
「もうすぐ、壁が完全に破れるそうだ。だから、その前に君を助け出してほしいと頼まれたんだ」
「ほ、本当ですか」
焦燥したその顔が、少しだけ血の気を取り戻した。
それだけ、恵の顔色は悪かった。
「良かった。外から誰か入れる程度に薄くすることは、成功していたんですね。この中では、全く感覚が分からなくて、全然役に立っていなかったらどうしようかと……」
「大丈夫だ。君は、良くやってる。だからこそ、早く逃がそうとしてるんだよ、きっと」
優しい笑顔で褒める女の声に、男はようやく笑みを浮かべたが、それは安堵のものでも喜びのものでもなかった。
今にも泣きそうなのをこらえる、無理をした笑顔だ。
「……こんなことまで、予想できたんですね」
呟きは三人には、意味不明だった。
眉を寄せたエンが声をかける前に、恵は一番聞きたかった事を尋ねた。
「途中から数えるのをやめてしまって、分からなくなったんですが、どの位の間閉じ込められていたんでしょうか?」
「閉じ込められてって、監禁されていたのか、この中で?」
顔を険しくした三人に慌て、恵は首を振った。
「この建物の周辺を動くのは、許可されていました。だから、監禁と言うほどでは……」
「まあ、見た限り、衣食住は整えられていたようね」
その周辺の、どの範囲かによるがと、ロンは苦い顔になった。
殆ど、何もない山の中で、行き来できるのは近くを流れる小川ぐらいだ。
建物の中は、恐ろしいほどに何もない。
「……家事手伝いの女性が、毎日世話に来てくれます。日中は、小道具すらも取り払われてしまうもので、今は、お持て成しすらも出来ないんです」
答えてから、客三人に接客するのを忘れていたと慌てているが、それを宥める雅も、それを見守る二人も、完全に険しい顔になった。
「時間を潰すものすら、取り上げているのか、ここの連中は? いつからっ?」
優しい笑顔での取り繕いをやめた女の問いに、恵は首をすくめながら答えた。
「……志門が、高校を卒業する、ひと月前です」
正しくは、年始に従弟達と会い、すぐに林家の事に取り掛かった後だと答えられ、そういえばと雅も思い当たった。
今年の年末年始はごたついていたが、例年通り挨拶回りも行った。
挨拶に来る側だった恵が、顔を出さなかったことを、今更ながらに思い出したのだ。
「一年も、こんな生活を?」
「……敵に利用される前に、命を絶ちたいとも思ったんですが、壁を壊してからと、自分に言い聞かせながら、無様に生きていました」
自虐的に笑う男を、雅は鋭く睨んだ。
「無様じゃないっ。これで死なれていたら、悔やんでも悔やみきれなかった。すまなかった、こんなことになっているとは、露とも思わなかった」
「……」
女が恵と会話をしている間、男二人は周囲の様子を伺っていた。
自分たちの足跡と、家事手伝いらしきものの足跡が、雪解けの地面の中にあるだけのところを見ると、見張りらしい見張りはおらず、逃げないようにと言う警戒も、薄いようにも思える。
その気力が湧かないほど、恵が諦めきっているように見えたのかとも思うが、人の気配がないのが、逆に違和感となっていた。
どういう状況だったのか、しっくりとこないのは雅も同じだったようで、女は気を取り直して恵に言った。
「何があったのかは、後でゆっくりと聞く。今は、この場を離れよう」
そう、まずはそれからだと頷く三人に、恵は何故か顔を強張らせた。
「駄目です。まだ、壁は壊れていません」
「ああ。だが、君が壊しきる必要もない」
エンが、穏やかに言い切った。
「既に、君以外の者でも、容易に壊せるほどに、薄くなっているようだ。だからこそ、今の内に逃げるべきだ」
「駄目ですっ。志門や、あの人の周囲の方々に、合わせる顔がないんですっ。ああっ。矢張り、早めに死を選ぶべきだったっっ」
「ふざけたことを言ってないで、立ちなさい」
「だって、手も足も出なかったんですっ」
ついに顔を歪ませて叫んだ声は、悲鳴だった。
だが、それに反応する三人は、呆れたような溜息だ。
「仕方ないだろう。多勢に無勢とか、そういう類だったんだろう?」
「あなたが、体力で勝てる相手なんて、そうそういなさそうよ。大体、捕まるのは、予定の範囲内だったんでしょ?」
何をそんなに悲壮になっているのかと首をかしげる三人に、恵は這いつくばるように顔を伏せて、声を絞り出した。
「……若だけは、逃がさないとと、そう思っていたのにっ」
「……?」
「若が捕まるほどに強力な奴を、林家が匿っているなんて、露とも思っていなかったんです。情報不足で、あの人を振り回した挙句、廃人同然にしてしまいました。壁も壊しきっていないのに、どの面下げて、逃げ帰れと言うんですかっっ」
とうとう泣き出した男を前に、三人は三様の動揺をした。
耳を疑った雅は振り返って、エンを見た。
穏やかな笑顔を絶やさないはずの男が、目を剝いて固まっている。
その様子に動転し、助けを求めて見た男の方も、目を見開いて言葉もないようだ。
混乱したまま視線を戻し、雅は泣きわめく男の身を起こし、震える声を抑えて優しく尋ねる。
「どういうことか、話してくれるか? 寝耳に水過ぎて、こっちも混乱してるから」
すがるように顔を上げた恵は、子供の様に泣きじゃくりながら、その時のことを話し出した。
従弟である志門の卒業まで待とうかとも思ったが、この時期林家の当主の病が、急変した。
今までも何度かあった峠の一つだったが、今度は本当に微妙な状態らしいと知り、恵は計画の実行を決断した。
入念な調査で、外から壁を破るには最適な場所を見つけ、恵はそこであえて分かるように動くことにしていた。
その決行の前にセイに同行願い、現場を見て貰ったのだ。
今いる場所に近い、山奥のその場所を見回し、セイは小さく頷いた。
「……まあ、妥当な場所だな。登山客が迷っても来ないような場所だし。別な不安はあるけど、こちらとしては丁度いいかな」
「別な不安、ですか?」
聞き返した恵に頷き、若者は少し考えてから言った。
「君は、予定通り捕まって、従順なふりをしながら壁を薄くしていってくれればいい。適度に薄くなったと判断したら、出てこれるように手はずを整えるから、命の心配はしなくていいからな」
取り繕うようにそう言われ、知り合いが軒並み信じている若者の言い分だ、頷かない手はないと、恵はすぐに頷き、早速捕まるために動き出した。
成果はすぐに訪れた。
一番外側の壁を破った時、その大きな振動で林家の者が気づいてしまったのだ。
「……? 私の時と、どう違うんだ?」
小首をかしげるセイが呟いたが、緊張した恵にその言葉の意味を、理解するほどの余裕はない。
壁の内側から現れたのは、今では見慣れてしまった獣の、見知らぬ男二人だった。
見慣れた獣だが、禍々しさが段違いだ。
禁忌を犯した獣が数匹、林家の中にいると聞いていたから、その獣たちだろうと当たりを付けた恵は、大袈裟に怯えて後ずさった。
そして、気づいた。
もう一人、妙な気配の男が、獣たちの後ろから続いたのに。
見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
血にも似た毒々しい赤毛の、色白の美しい男だった。
その気配に気づけぬほど鈍感ならば、いい加減美形に見慣れ始めた恵すら、見惚れてしまいそうな男だ。
だが、そうなるには禍々しい気配が濃すぎた。
本気で後ずさってしまった恵はそこでようやく、すぐ傍にいたはずだが既に退却しているはずの若者が、その場で立ち尽くしているのに気づいた。
振り返った男の目の先で、赤毛の男を見つめたまま、セイは目を見張って固まっていた。
「っ?」
男にくぎ付けになった黒い瞳が、赤黒い瞳に見返されて笑いかけられても、セイは岩にでもなったかのように動かない。
思わず呼びかけようとした恵は、獣の一人にその身を拘束され、地面に這いつくばってしまった。
必死で身をよじって顔を上げた時には、セイは赤毛の男を前にしていた。
微笑む男に頬を触れられても、目を見開いたまま動かない若者は、何かの術にかかってしまったかのように、敵の手中に収まってしまったのだった。
その後、恵はセイだけでも逃がそうと、誰かに助けを求めることを試みたが、印を結ぶ手を封じる獣の力には到底叶わず、なすすべもなく林家へと連れて来られてしまった。
「若も、ここではないどこかに連れていかれてしまったようで、その後の事は分からないんですが、捕まった様子からして、完全に意識が無くなっていると思われます。一年もたってしまった今は、どうなっているか……」
顔じゅうの穴から水を流しながら恵が話した経緯を聞いた、世話好きのはずの三人はその様子を見ながらも、立ち尽くしたままだった。
術師や獣たちの間で、セイが「術師泣かせ」と言われているのを知っている三人は、そのセイが、術師らしき男に、なすすべもなく捕まってしまった事実が、信じられずにいた。
だが、恵がそんなあからさまな嘘をつく理由は、一つもない。
「……何か、理由があって、そうしていると見た方がいい」
話を聞いている間も、何の反応もなく、ただ目を剥いたままのエンに、雅が静かに声をかけるが、穏やかな笑顔を絶やさないはずの男は、矢張り無反応のままだ。
代わりに何とか頷いたのは、同じように固まってはいたが、何とか我に返ったロンだった。
「そうね。きっと、自分も中にいた方が、都合がいいと判断しただけよ、きっと。そうに、決まってるわ」
そう思わなければ、自分たちまでが我を失ってしまいそうだった。
「兎に角、セイちゃんの方は、後で確認するわ。あなたは、ここから退却しましょう」
「しかし、もし本当に、あの方が敵の手に落ちてしまっていたら、オレは、本当に、志門や直たちに、顔向けができません」
縋るように目を向けられ、ロンは困ったように天井を仰いだ。
確かに、一番気になるのは、セイの安否だ。
だが、頼まれたことはやり遂げてから、それは確かめるべきだとも思う。
どうしようかと他の二人を見ると、雅は困惑したままエンを見つめているだけで、セイの頼みを思い出す余裕はないようだ。
エンの方は、もう完全に、余裕がなくなっている。
「……とりあえず、先に、セイちゃんを探しましょうか。あの子が無事なら、恵ちゃんも安心して退却できるってことでしょう? その間だけ、あなたはここで我慢できる?」
いつものように笑いながら、ロンが念を押すと、恵は縋るような目のまま何度も頷いた。
「お願いしますっ。あの人の無事が分かるなら、いくらでも待てますっ」
そんな若い男に頷き返し、エンと雅を促した。
「さ、そういう事になったから、行きましょう。エンちゃん?」
雅はすぐに頷いたが、エンの方はまだ無反応だ。
ロンは溜息を吐いてから、その自分よりも小さな背中を、平手で叩いた。
恐ろしくいい音が鳴ったその背が、勢いよく跳ね上がる。
「しっかりしなさいっ。まずは、確かめるのが先でしょっ?」
「は、はい」
我に返ったものの、まだぎこちないエンは、ぎくしゃくと足を動かし、何とか建物の外へと動き出す。
その様子に不安はあったが、三人固まって捜すより、三手に分かれて探す方が、この広い場所でたった一人を見つけるのには手っ取り早いと、三方に分かれた。
二人と別方向に向かったロンは目的の者を探しながらも、一つの考えに行きついていた。
行きついた途端、ついかっとなってしまい、ここに戻ってきてしまった。
「……あの子が、術で誰かに後れを取るなんて、有り得ないわ。だから、きっと考えがあって捕まったんでしょう。その考えは、恐らくは、あの紛い物がらみよね?」
険しい目でオキを見据えながら、褐色の男は恵との会話を話し、そう断言した。
そうしてから、睨むように言い切った。
「あの子は、あの紛い物を、死なせないで封じる気でいるのね? それを、あなたたち二人は、承知の上で見守る気でしょうっ? 冗談じゃないわよっ」
叔父がいる前でも取り繕えなくなった男は、完全に怒っていた。
その取り繕われていない叔父が、空を仰いで唸っているのも、水月がそんな様子のロンを見守っているのも、気づいていない。
そして、静かに怒っている若者にも、全く気付いていなかった。
「……おい」
かすれた声がいい、その声の主がオキの胸ぐらをつかんだ。
「お前、分かってんだよな? エンが、何故、そこまで動揺したのか。そこのぽっと出の親族どもと違って、全く別なことで取り乱してることも、承知してるんだよな? それを踏まえて、ここで、呑気に立ってんのかっ? まさか、その事は伏せたまま、他の奴らも承知させたのかっ?」
目を見張ったオキは、自分の胸倉をつかむ蓮を見返したが、それはその剣幕に驚いてではなかった。
「……お前、随分成長したな。その声の出なさ具合と言い、もしや、葵が言ってたのは、成長痛、か?」
「あ?」
乱暴な返事にも平然とし、納得したように頷いたオキの代わりに、蚊帳の外になっていたキィが説明した。
「お前さんにも、話を持っていこうとしていたんだが、葵って鬼が駄目だと言って、繋いでくれなかったんだよ」
「?」
「何でも、ここ数か月、膝に違和感があるらしいじゃないか。歩き方が変だと言っていた。昨日はとうとう、声も掠れていたと、心配してたぞ」
目を剝いた若者の手を掴んで、胸倉から外したオキは、笑いながら続けた。
「よくない風邪でも、引いたかと思ったぞ。薬効かないのに、無理させるのは禁物と、お前を誘うのはやめたんだが、来てしまったのか」
「っ」
揶揄うように言われて詰まった蓮に、ロンが遅ればせながら文句を言う。
「ちょっと、あたしまで、ぽっと出の親族の一括りにしないでくれるっ? 叔父上は兎も角、あたしはあの子とは長いわよっ」
「……あの子の直系は、オレだけ、だよな? ん? 何でオレだけ、ぽっと出扱いなんだ?」
大幅に脱線している周囲の空気の中、後ろでそれを見守っていた女二人が、顔を見合わせた。
目線だけで会話を交わし、優が呆れたように溜息を吐く。
仕方がないと声をかける前に、その声をかけようとしていた相手が、優しく男たちの言い合いに割り込んだ。
「随分な、急展開だな。これでも、動くなと?」
顔を強張らせたオキの代わりに、律が溜息を吐きながら答える。
「動くのはいいですが、まずは冷静になってください。今のあなたでは、相手の息の根を止めるだけで済まないでしょう?」
「当たり前だ。事の次第では、跡形もなく消してやりたいくらいだ」
声音も表情も、恐ろしいほどに変わらず優しい。
だが、娘である雅とは明らかに違う威圧が、怒りの真っただ中にある若者すらも、我に返らせる。
「旦那は、予定通り目的地に向かってくれ」
水を打ったように静かになった面々に構わず、軽く傷ついて空を仰いでいた凌に、優しく呼びかけた。
その声で察した銀髪の男が我に返り、頷く。
「あ、ああ。お前も、動くのか?」
「ああ。高みの見物をするには、少々度が過ぎる事態だ。……分かってくれるよな?」
目線だけを投げた先には、目を見開いて何かを言いかけた、キィがいる。
その目線を受けてぎょっとし、次いで苦笑した。
「……掟破りの奴らは、同種同族が裁くのが、暗黙のルールなんだが」
「今回は、目をつむれ。でないと、本当に腹が立っている奴を、ぎたぎたにしてやりたくなる」
オキとキィは揃って、思い浮かんだ男に、ついつい同情の念を投げてしまった。
そんなこと知る由もなく、凌が済まなさそうに言う。
「八つ当たりで、規約を無視させるのはすまなく思うが、勘弁してやってくれ」
「はあ」
気のない返事をし、二人の猫が目を交わす。
「……まあ、こういうトラブルも込みでの計画だし、大丈夫だろう」
「ああ。ちと予想外なほど、動きが読めなくなってるのがいるけど、それも範囲内か」
そっと顔を寄せてひそひそと話した後、ようやく腹をくくったようにオキが切り出した。
「場所は、見当ついているのか?」
「ついてない。だから、痛い目見る前に、吐け」
と言うより、怒りに吞まれてしまって冷静に勘が働かない、目線が合うほどに成長した若者に、オキはあっさりと頷いた。
「キィの方が、顔を知られていないから、案内させる」
それを受けて頷きながら、キィは瞬く間に猫の姿に変わった。
黄色に近い色合いの、大き目のきじ猫だ。
長々と伸びをして、四つ足を踏みしめると、一度前足を揃えて一同の前で腰を落とした。
「ここから、山下の集落まで降りなければならないが、体力は大丈夫か?」
「……馬鹿にしてる? その位、大丈夫に決まってるでしょ」
尖った声でのロンの答えに頷き、他の者を見上げたきじ猫は、苦笑しているように見えた。
その顔を見下ろした若者と、銀髪の大男が無言で頷き、次いで女はゆっくりと首を振った。
「私は、ここに残るわ。この面子が揃っているのなら、私が出る幕はなさそうだもの」
優は言ってオキを見た。
元主の妹を一瞥し、オキはキィと再び無言で目を交わし、きじ猫は男たち三人を引き連れて山を駆け下りて行った。
それを見送ってから、水月も別方向に駆け出す。
それを追うように駆け出す律の背に、オキは短く声をかけた。
「後で、追いつく。それまでは、旦那を頼む」
振り返った目が連れ合いの目と合いすぐに逸れたが、それだけで了承の意は通じた。
「……」
残った優を見ると、複雑そうな顔で二人のその様子を見つめていた。
「実はな、紛い物が、今まで逃げ続けられたのには、二つの理由がある」
うちの一つが、今になって封じる方法を思い立たせたと言うオキに、優は眉を寄せた。
「急に、暴露し出さないで」
「訳の分からん感情を、律に向けられる前に、仕事を押し付けたいんだ。察しろ」
「何? やっぱり、律ちゃんには事情話してるのっ? 今まで蚊帳の外って、ひどくないっ?」
「そう思ったから、話そうとは思っていた。だが、先に水月の旦那が来てしまったんだ」
頬を膨らませて怒る女に、オキは慌てて言い訳をはじめ、事情を話した。
「……」
「これを話すのは、不味いだろう? 特に、水月の旦那と……」
頬を膨らませたまま話を聞いた優が、そのまま固まってしまっているのを見て、男は恐る恐る控えめに尋ねる。
そんな姉の姿をした黒猫を睨むように見ながら、優は仕方なく確認する。
「お父様は? 知ってるの?」
「話してはいないが、知らないはずはないと思う。キィの奴が、随分初めのうちに気付いた違和感だったらしいからな。その後忘れていたからこそ、セイが気づくまでその存在が浮き彫りにならなかっただけで」
「……で? 目的も、目星ついてるのよね?」
「ああ。だから、そいつをお前にくれてやりたいんだ。カスミの旦那と、競り合う事になるかもしれんが……」
控えめに言う男に、優は微笑んだ。
「そうなったら、娘の特権を最大に使って、譲ってもらうわ。可愛くお願いすれば、きっと大丈夫」
言い切った女に、そうか? と思わず突っ込みそうになったが、ようやく機嫌が直ったのだからとぐっと堪え、オキは一応頷いた。
「そうだな、頼む」
壁の外に出て、すぐに駆け出す女の背を見送り、オキは溜息を吐いて空を仰いだ。
結局、関係者が全員、林家の周囲に集合してしまった。
楽観はしていなかったものの、そうならぬように下準備をしていた側としては、無駄骨感が半端ない。
本来の目的が成功するかは、後で確認するとして、これから自分がするべきことは、余計な犠牲を出さない事、だった。
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