ケースEXー5「父との会話」

 母の言葉通り、私は一旦実家に帰ることにした。店を空けたことが気にならないではなかったが、今はそのことに気を取られている場合ではないように思えた。


 もしかしたら店に戻った時、もはや椅子はないかもしれない。


 けれど、それでもいいような気がした。


 母の顔は以前よりもやつれていた。それでも私を抱きしめる腕の力は相変わらずだった。祖父の容態はやはり思わしくなく、長くはないだろうとのことだ。


 父はといえば厳めしい顔つきはそのまま、しかし私を責めるような気配はなかった。「帰ったか」と一言口にしただけで、自ら食事の用意を進んで行っていた。


 驚いたことに、わたしと皆の分の食事だ。こういうことは母に任せきりのイメージがあった。


 食事を済ませ、紅茶に口をつけたところで——父が立ち上がった。「行けるか?」と訊いてきた父に、「うん」と若干震える声で答えた。


 行き先はもちろんあの教会で——その裏出にある〈星見の庭〉だ。以前は確かヒガンバナが咲いていたはずだが、今は全く違う花が星の形に沿って植えられている。


 いや、本当に植えていたのだろうか?


 父が土いじりをしているのを見たことなどない。祖父もだ。


 まさかとは思うが、勝手に花が生え変わるなど——


「私も、お前のじいさんも、〈星見の庭〉の全てを知っているわけじゃない」


 思考の合間に差し込まれた言葉に、私はふと面を上げた。


「むしろ知らないことの方が多い。なぜ願い事をするだけで叶うのか、どうして言葉にしなくても叶うのか。願い事には制約があるのか。叶うもの、叶わないものがあるのか。

 例えば死者を蘇らせることは? 

 この世のことわりに反することを願えば? 

 そもそもなぜこのような場所があるのか。

 ……突きつめて考えてしまえば、摩訶不思議まかふしぎなことばかりだ。私たちが、先祖の過ちによってり人を務めざるを得なくなったことも」

「……例えば、そういったことを知りたいって願うのはアリなの?」

「わからない。お前のじいさんも私も、すでに別のことを願ってしまった。そしてお前も。自分ではなく人のために願って……そういうところは、似なくてもよかったのに」


 小さく息を呑む。それから恐る恐る、「母さんは?」と訊ねてみた。


「母さんも人のために願った。しかし、裏切られた。そいつは自らの幸福だけを追い求めて、〈星見の庭〉に辿り着き、そして破滅した」

「…………」

「ただ母さんは、それを見て喜ぶような人ではない。ただ痛ましく思っていただけだ」

「……好きな人だったの?」

「だろうな」

「複雑じゃなかったの?」

「否定しても嘘になるだろう。だが、私も似たようなものだ。母さんのことをとやかく言える立場じゃない」


 父は身を屈め、足元の花をそっと撫でた。花はまるでくすぐったそうに揺れ、他の花も同じようにざわめいている。一輪一輪に意思があるかのようなその揺れ動きは、私の身を正すのに十分すぎた。


 何をしにここに来た、と意地悪そうに問われているみたいで。


「願い事は叶ったのか?」

「……一時は。でも、別の不幸が起きた」

「そうか。癇に障ることでもあったのかもしれないな」

「〈星見の庭〉の?」

「そう。お天道様が見ている、という言葉があるだろう? あれと同じで〈星見の庭〉も、願い事を叶えに来た人間一人ひとりをよく見ている。願い事を叶えるに値するかどうかも。つまり、願い事の是非は〈星見の庭〉のさじ加減といったところだ」

「なんだよ、それ……」

「理不尽と思うだろう。だが、そもそも代償もなしに願い事を叶えてもらえると考えること自体が、出来すぎた話ではないのか。それでも人は途切れることなくやってくる……まるで吸い寄せられるようにして」

「変だよ。おかしな話だ」


 父は立ち上がり、軽く膝を払った。「そうだな」とあっさりと同意され、訝しんでいるところに、父が振り返る。


「ここに来てよかったのか?」

「どういう意味?」

「店があるんだろう。空けて大丈夫なのか?」


 胸を突かれ、答えに窮した。父が私の身を案じるようなことを言うなんて、と半ば信じられない思いをした。


「大丈夫だよ。それに、空けてもいいのかもって思い始めてきたから」

「どういう意味だ?」

「この庭の守り人を務めることも考えてるってこと」

「……どういう風の吹き回しだ?」


 私は小さく、肩をすくめた。


「なんだか、意地を張ってるだけのような気がしてきたんだ」

「夢を叶えるのではなかったのか。諦めたのか」

「今はまだそのつもりはないよ。選択肢のひとつとして数えてるってだけ」

「幸せにはなれないぞ」

「かもしれない。けれど、それを承知でおじいさんも父さんも、務めることにしたんじゃない?」


 父は口を結んだ。どうやら図星であるらしい。


「おじいさんも父さんも、諦めたの? 自分の夢を」

「……そうなるな」

「後悔はない?」

「ないといえば嘘になる。ただ、これしか道がないのだと気づいた時には、すでに多くのものが私の手からこぼれ落ちていた。私は諦めの果てに、守り人を務めているだけだ」

「……なんだか愚痴みたいだね」

「そうだな。実際、その通りなのだろう」


 私は父の姿をじっと見つめた。記憶にある姿よりも、だいぶくたびれて見える。心なしか背も低くなったような気がする。


 疲れているな、と感じた時には父は私と肩を並べていた。


「どうするかはお前次第だ。……そうと言いたいところだが」

「わかってる。でも、諦めるにはまだ早いと思うから」

「……そうか。頑張れ」


 そして父は私の視界から消えた。振り返ってもよかったのだが、父が前以上にくたびれているところを見るのは心苦しかった。


 花が揺れ、木々の葉がざわついている。小気味のいい音の数々はさながら私を歓迎してくれているようだった。


 どうあっても逃げられないと捉えるか、あるいは私が帰ってくるのをずっと待っていたというべきか——


「……参ったな」


 本心からの言葉だった。


 父や祖父、母のことをとやかく言える立場ではないということを、私は思い知らされていた。

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