ケースEXー4「守り人の運命」

「不思議なことが起こったんだ」


 薄暗い店内——二人で掃除をしている時に、不意にかなた先輩は口にした。


「それは、どんなことでしょうか?」

「母なんだけどね。病気から治ったかと思えば交通事故に遭っちゃって。でもその怪我がね、治ったの。それまでにかかった治療費も、駄目元で買った宝くじが当たって支払うことができたんだ。まるであの庭……〈星見ほしみの庭〉に叶えてもらった時みたい」

「いいことじゃないですか」

「でも、あの時神父さんが言ったの。願い事は一生につき一度だけだって。私はお母さんの病気が治ればいいと思っていたんだけど、また願い事を叶えてもらったような気がして」

「…………」

「まるで誰かが代わりに願い事をしてくれたみたいに、ね」


 かなた先輩からの視線には応えず、私は手を動かした。ある程度まで床を磨き上げたところで、「不思議なこともあるものですね」と白々しくモップの柄に肘を載せた。


「うん、本当に不思議。こんなに困っていたってこと、そんなに人に話した覚えはないのに」


 心臓が跳ね上がる思いがした。かなた先輩の目と声は明らかに私の方を向いている。例えばかなた先輩が友達などに話したとしても、そう簡単に信じるとは思えない。自分の困り事が突然解消されたのだとしたら、〈星見の庭〉の力によるものだと疑ってもおかしくはない。


「ねぇ、まさかとは思うんだけどさ……」

「……掃除終わりましたので、僕はこれで上がりますね」

「ねぇ、待ってよ」

「すみません、ちょっとこの後予定がありますので」


 我ながらあまりにも適当な嘘をついたものだと思う。もしもかなた先輩から強く問い詰められれば、答えてしまうかもしれない。


「今、あなたの困り事が解消したのは、私が〈星見の庭〉に願い事をしたためです」などと、そんなことを言えるはずもない。


 かなた先輩は何も知らないままでいい。突然の幸福を享受していればいい——


 しかし私のその考えは甘すぎた。


     ☆


 突如、かなた先輩が倒れた。


 原因は過労ということだ。戻って来てから相当根を詰めて仕事に取り組んでいたのだから、想像はつくことだったのだ。ベッドの脇のパイプ椅子に腰かけ、私はかなた先輩が目を覚ますのを待った。


 その間に母親が来て、私と顔を合わすなり深くお辞儀をした。全身から生気というものが抜け、顔もやつれている。かなた先輩から聞いていた話とはまるで印象が異なっていた。


「この度は娘がとんだご迷惑をおかけし、申し訳ありません……」

「いえ、いいんです。それより頭を上げて下さい」

「……バチが当たったんでしょうかね」


「え?」と聞き返すも、母親は娘のベッドのフレームに手をかけた。


「この子には私のせいで、苦労をかけました。調子に乗り過ぎたんです……一時的に良くなっただけだったかもしれないのに、この子を放り出して遊んでいた。そばでずっと面倒を見てくれていたというのに」

「…………」

「あなたは……〈星見の庭〉というものをご存じでしょうか?」


 私は首肯した。やはり、と得心がいったように母親は短くうなずく。


「信じられないこととお思いでしょうが、その庭の恩恵で私の体は良くなったのです。それはもう、見違えるほどに。自分でも不思議なほどに。娘から〈星見の庭〉のことを聞いた時、私は確かめずにはいられなかったのです」


 それが良くなかった、と述懐するように声を落とした。


「ひとつ願い事が叶うと、次も次もと欲が膨らんでいって。目が眩んだとでもいうのでしょうか。あの神父さんや娘の忠告もまともに取り合おうとはしなかった。それが今日、このことに結びついてしまったのだとしたら……」


 ベッドのフレームを両手で握り、ぐぐっと背中を丸める。


「私のせいです」

「それは……」

「いいえ、私のせいなんです。悔やんでも悔やみきれない。私が調子に乗ったから、娘はこんな目に……」


 私はどうとも言えず、椅子から立ち上がった。そして母親を椅子の方に促し、彼女は次にベッドに突っ伏す。「ごめんよ」と何度も繰り返す様はあまりに痛々しかった。


 私は病室を後にした。


 そして公衆電話に硬貨を入れ、母に電話をかけた。


「どうしたの? 電話をくれるなんて……」

「母さん、あのさ。……僕が願い事をした件だけど」


 一瞬、言葉に詰まったような息が電話口から漏れた。「どうなったの?」と訊かれ、「良くないことになってる」と答えた。


「〈星見の庭〉では、願い事は叶うんじゃなかったの?」

「願い事の内容によるわ。それに、叶ったとしてもその先までは保証できない。身の振る舞い方によっては、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。例えばあのお母様の過失を全て無しにしてほしいと願っても、その先また過失を繰り返すようなことがあれば、それさえも保証はできないの」

「……そう。でも、無関係な人まで巻き込むなんて」

「本当に無関係だと、言い切れるの?」


 母の言葉に反論できず、私は言葉を呑んだ。


「〇〇、忘れないで。〈星見の庭〉は万能じゃないの。都合よく願い事を叶えてもらおうだなんて、それは幻想に過ぎないの」

「じゃあ、あの場所はなんなんだよ。希望をちらつかせておいて、後で取り上げるなんてひどいじゃないか」

「……そう、ね。でも、一時だけでも幸福を得ることはできたはず。その幸福を持続させるか、より幸福を求めるかによって、人の運命は変わるの」

「…………」

「薄情に思える? けれど、それが〈星見の庭〉なの。例えば神様に願い事をしたとして、その幸福を永久に約束してもらえるだなんて思える?」

「……いや」

「そういうことなの。あなたはもうすでに願い事を叶えた身。これ以上叶えてもらうことはできないし、取り消すこともできない。あなたのお知り合いの方には苦痛を強いることになるのでしょうけれど……それは、自業自得というものなのよ」

「そんな」

「〇〇。……あなたにできることは、もうないの」


 受話器を手から取りこぼしそうになった。無力感、虚脱感が喉までこみ上げてきて——すぐに足の裏にヘドロのように溜まっていく。


「〇〇。聞こえる?」

「……ああ」

「あなたはあなたのことに目を向けるべきよ。もう他人のことに惑わされては駄目。引っ張られ過ぎると、あなたまで不幸になってしまう」

「それは……」


 病室で横たわる、かなた先輩の顔がよく思い出せる。目を薄く閉じ、肌が青白く、腕にはチューブがつながっている様を。この状態の彼女を放っておくなど、できるわけがない。


 けれど一方で、母の言葉に納得していた自分もいた。


「一度、帰っていらっしゃい」

「母さん」

「あなたは〈星見の庭〉のり人として定められた運命にあるのかもしれない。けれど、そうじゃないかもしれない。それを見極めるためにも、一度戻って来た方がいいと思うの」

「母さんは、僕がどっちの運命を選べばいいと思うの?」


 母からの返答を待つ時間は長かった。それでもかすかに漏れる吐息から、深く考え込んでいるのは明らかだった。すぐに答えなかったのは迷っているからで、なぜだかその反応が嬉しく思えた。


「わからないわ」

「母さん……」

「本当にわからないの。あなたはあなたの思うように進めばいい。けれど、〈星見の庭〉の力と恩恵は確かなの。それの守り人を務めるということは、あの庭を守ることでもあるの。代々受け継いでいくもので、決して軽んじてはいけない」

「……そう、なんだ」

「考えておいて。くれぐれも、人の運命に介入してはいけないわ」


「うん」と答え、電話を切る。


 かなた先輩の病室がある方法を見やり——私は病院を後にした。

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